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サミュエル・ベケット『モロイ(Molloy)』(from Trilogy)

文学界の極北、サミュエル・ベケット

 サミュエル・ベケット(1906-1989 愛)の文才が極致に達したのは、『モロイ(Molloy)』『マロウンは死ぬ(Malone Dies)』『名づけえぬもの(The Unnamable)』の三部作が盤石ゆえで、後世もその見方に異論は少ない――ただし、ベケット自身はこの三作をまったく別の作品と見做しており「Trilogy」(三部作)とは考えていなかったようだ――一方で、この三作が根底を共有しており、作品ごとにそのテーマを広げていったことも否定はできない。
 ベケットが現れた二十世紀初頭には、「シェイクスピアやイプセンの再来」とまで評されたが、ここではベケットが文学に及ぼした影響、殊に、戯曲と舞台装置の改革や不条理の導入に対する態度は論じない――それでも語るならば、師であり友人であり、盟友であったジェイムズ・ジョイスからの影響をどうしても無視することはできない。そちらまで手を広げるには、ジョイスに関する項目を完備したあとで、再びベケット論に戻った方が、理路整然となるだろう。

 よって、ここでは三部作の一つひとつ、その作品の評論のみに留めるが、それは、ジョイスだけでなく、当時の人間関係や背景にある混沌の時代の多くは無視される傾向になるだろう。私が書かんとする評論は、あくまで難解なベケット文学に立ち入る最低限の心構えと準備を伝えることに念頭があり、ベケットをさらに包括して捉える識者には物足りないと思われるかもしれない。ただ、私もサミュエル・ベケットは生涯に渡り面と向かい合うに値する作家だと見做しており、準備が整い次第、さらに広範なベケット文学に取り組む意気地はある。ここでは、ベケットの拵えた掟の門――その眼前で覚悟すべき心構えを後学のために記録しておくに過ぎない。

第一作『Molloy』(邦訳:モロイ)

 『モロイ』は第一部、第二部に分かれているが、互いの繋がりはほのめかされるに留まり、「無関係ではないにしても、微かな違和感や希薄なニュアンスによって均衡の支えられたコントラストは、どのような言葉をも阻害する」――この言葉の機能にも確かにある無限小からの影響をベケットは決して見逃さなかった作家だ――この傾向は晩年に成るにつれ偏執的になり、果たして、精査に精査を重ねた言葉の器官というものも、ベケットでさえどこまで明文化できていたかは今の私たちにも判断に困るところだ。
 物語には骨格が必要であるとは(汗牛充棟の書物には、ときに、構造や形式や再帰という語が使われる場合があるが、言葉の表記ブレなぞ些細なことだ)、私も認めるところで、特にベケットは新時代の骨格に明敏な感覚を抱いていた――時代背景として、カール・フリードリヒ・ガウスやレオンハルト・オイラーの粉骨砕身による、複素数の体系の完成が、既存の幻想の打ち砕いていた――数学界に与えた衝撃もまた語るに値するマイルストーンではあるが、そちらは数学史の記事として別個に語ることにし、ここではベケット(とその同時代人が)受けた影響に留めよう。
 複素数の理論付けから引き出される驚愕の事実のなかで、文学者たちを特に揺るがしたものは、時間と空間の歪曲性、あるいは不連続性だった。これまでに認められてきた物語は、「空間と時間」を絶対のものとして、作中の世界に不正な介入や歪みをもたらすことなどないと、妄信的に信じられてきた。言うなれば、文学者たちにとって自明の理とされてきた時間と空間もまた砂上の楼閣に過ぎず、無条件に取り入れる骨格としては心もとないものであると突きつけられたのだ。
 当然、この難題に対し、多くの文学者が抗ったことは事実だが、その多くが、「こうなって欲しいという祈り」や「ひょっとすると、ガウスやオイラーだって何かしらの誤謬に陥っているのかもしれない」という期待と一縷の希望を捨て切ることができず、現実に徹しきれなかったため、その作品は悉く惨敗したと言わざるを得ない(この背景には、文学者たちが数学や物理学に背を向ける怯懦があったと判断せざるを得ない)。
 一方で、ベケット(とその師匠のジェイムズ・ジョイス)はまさに知識人にあるべき態度を取っており、主軸は文学と演劇においていたものの、
日々進歩していく自然科学を追い回すことも怠らなかった。そして、その確固たる知性ゆえに、ベケットは初めて「揺れ動く時間と空間」を日常で表現し得た作家と言える(この文学の極北とも言える立ち位置を取ったことが、後年のノーベル文学賞受賞にも繋がっているのだろう)。

第一部「モロイ」

 前置きが長くなったが、時代の最先端に立っていたベケットが書き上げた『モロイ』(仏版:1951、英版:1955 出版。「Trilogy」において、ベケットは先にフランス語で書き、のちに、自ら英訳するスタイルを取った)は物語の絶対条件と考えられていた時間と空間を、緩い繋がりしか持たないものとして、人生を翻案した。第一部は「モロイ」なる青年の物語であるが、いつの時代なのか、どこの国でのことなのか、判然とせず、たまに明言されると思えば、その後の文章によってひっくり返されるということも珍しくない。また、流動する時間と空間に土着している「モロイ」自体、本名なのか判然とせず、その経歴も文脈によって矛盾が生じている――人間の根源的な土着が頼りないものとなれば、「モロイ」もまたどこどこの住まいで、何々の職業に就き、どのような気心なのかも、適切な言葉が見つからなくなることは当然だ。
 「モロイ」の章では語りも混乱が混乱を呼ぶと言った具合で、ときに知的障害を患っているかのようにほのめかされることすらある――ただ、これは自分が「モロイ」であることすらも確信がなく、生活に必要な記憶すら揺れ動き、逐一を覚えておくことができないだけだ――反面、「モロイ」は衒学を見せることがあり、まったくの白痴というわけでもないようだ。
 第一部は「モロイ」がひたすらに街を徘徊するばかりだが、一応の目的はあるらしい。「モロイ」は自分の母を探し続けているらしく、どういうわけか舞台の街に母が住んでいると信じ込んでいる――しかし、その目的も混乱した頭で定めたもので、本当に母親に近づきつつあるのか? そもそも、母親なんてものが存在するのか? それすらも怪しく、そこに対する疑問すら「モロイ」は抱かない――さらに、記憶の保持すら覚束ない「モロイ」は次第に、なぜ自分がこの街にいるのかすら忘れつつあり、母親探しの重きも徐々に失われていき、過去の記憶を刺激するものが何もない街で彷徨う姿は、浮浪者や異邦人のものに近い。
 物語の重点は「モロイ」が見知らぬ街で彷徨う「オデュッセイアー」であるが、その背後で、まったく事件が起きていないわけでもない。あるとき、「モロイ」は自転車に乗っているとき、老婆の散歩していた愛犬をひき殺してしまい、警察に突き出される。ところが、「モロイ」と巡査と老婆の話し合いの結果(この三者の話し合い、言葉は通じていても、それぞれの意味が伝わっておらず、文脈や因果関係などあったものではない無軌道なものだ)、死んだ犬を埋葬することで、「モロイ」の過失は見逃すというところに落ち着く。そして、なし崩し的に「モロイ」は老婆のアパートに転がり込むことになるが(老婆はルースと呼ばれているが、ときとして別の名前に言い間違えられるこもあり、呼称が不安定)、このときにはすでに母を探し出すその目的すら忘れてしまったものらしい。
 仮初の宿を手に入れた「モロイ」は何をするでもなく、取り留めのない考えを無益に追うばかりで、何の行動も起こすことはない――その考えも、衣服に縫い付けられている四つのポケットに、16個を石を分配した場合、どのような手順によって石を均等に吸うことができるのか?(「モロイ」は石を吸うという奇癖がある)、一度このアパートを出てしまえば帰ってくる道を見つけることはできるのだろうか? など理解に苦しむものばかりだ。ときに、老婆こそが自分の母ではないかと考えることもあるが、確信に乏しく、すぐに放棄する有様だ。
 この共同生活では、物語に必須と考えられていた因果応報や信賞必罰が成り立っておらず、損害や損失に対する埋め合わせすら過ぎた願いで、何かを欲するにしても、偶然に失うか、偶然に手元に転がり込んでくるのどちらしかなく、努力や勤勉ですら先んじて何かを保証するものではない。
 老婆の老醜が極まっていくにつれ、今の自分に残された唯一のものは「母を探す目的」だけであるとようやく思い出した「モロイ」は遂に、アパートから逃げ出す。そして、再び自転車に乗り走り出すが、辿り着いたのは森の奥だった。
 大自然の奥地は、まさに人間の法の届かない治外法権で、「モロイ」は森の掟のど真ん中に投げ出され、辛うじて残っていた四肢も徐々に蝕まれていく――そして、真っ先に両足が縮んでしまい、満足に歩くことすらできなくなる――狭い行動範囲のなかで、草花やきのこを食べ飢えを凌ぐが、両足の回復を見込めるどころか、さらなる欠損が襲い掛かってくることは明白だった。
 第一部の終盤、「モロイ」はついに排出腔に異常を来たし、排尿や排便すらも満足に行えず、垂れ流しにまで至る――旧約聖書の『ヨブ記』にも通ずる場面だが、そもそも「モロイ」は信心深いどころか、敬虔なキリスト教徒だったかどうかも思い出せなくなっている。朽ち果てるそのとき、「モロイ」はこの遍歴を思い返し、洗い直して新たな意味を見出そうとするが、因果応報や信賞必罰のシステムが機能していなかった以上、何の罪に対する罰なのか、母を探す旅で手に入れたものは何か、そもそも私は「モロイ」なのか、その答えはどこにも隠されていなかった。

第一部の総括

 ベケット以前の文学では考えられなかったが、『モロイ』において時間と空間の制限は緩んでしまっている――しかし、当時はすでに、アルベルト・アインシュタインによって時空間の歪みは証明されていたのだ。魂はともかく、人間の肉が根源的に依拠している時間と空間の転換――この時代、文学者たちは世紀の発見に対して、これまでとまったく異なった表現方法の発明を迫られていた。それぞれの作家の四苦八苦にまで触れるのはこの記事の射程を超えるものとして、ここではベケットの挑戦のみに焦点を絞る。
 『モロイ』においては(のちに『マロウンは死ぬ』『名づけえぬもの』でさらに洗練、先鋭された形で引き継がれるが)、時間と空間の上に立つ人々の歪みという形で現れた――無論、時空間の歪みにも法則性がある以上、その上の人間も、例えば『変身物語』のように無軌道、無分別に歪曲するわけではない。殊に『モロイ』では名前と自己同一性の不安定、忘却の作用の二つが強く出ているように思う――ベケットはこれでも不十分と考えたらしく、次の二作品ではさらに無制限な歪曲が展開されていくことになる。
 ただ、この時点で『モロイ』を語り尽くそうとする真似は止めよう。この作品は二部構成であり、それも、第二部のモランの物語は地続きとなるものではなく、第一部「モロイ」のアンチテーゼとして位置するのだから。
 『モロイ』を総括するに、モランの物語への言及を欠けば、耳心地の良い言葉しか覚えられない愚者と罵られてしまうだろう。

第二部「モラン」

 「モロイ」が悪戦苦闘の末、森を抜けた直後、何の脈絡もなく第二部「モラン」が始まる(このサブタイトルも便宜的に筆者がつけたもので、原文では「Ⅱ」と表記されるのみである)。
 「モラン」は神父で、知的障害の息子を持つ――冒頭で名はジャック・モラン、また、息子の名もジャックである、と独白があるが、作中で名前を呼ばれることはほとんどない(名前が機能しないことはベケットの作品では珍しくないが)。
 第二部の前半のほとんどが「モラン」の神父としての職務と知的障害の息子との生活が描かれるが、第一部「モロイ」との関連性は一向に見えてこない――「モラン」の仕事ぶりも、保守派とも急進派とも言い難い身の入っていないもので、むしろ、畜産している雌鶏が病気に罹ったことばかりを気にしている――信心深いたちではあるのだが、それが却って、「形骸化した教会に何の意味があるのか?」「神は沈黙なさるが、生死に関わる瞬間、罪を犯したまさにその瞬間にも沈黙なさるのはなぜか?」など疑心に通じているきらいがある。
 第二部はほとんどが「モラン」の独白によって構成されるが、現状に満足のいっていない「モラン」の心象は鬱々しており、その鬱屈が作品全体に影を落としている。ところがこの独白も外部から破る存在があり――実のところ、この妨害こそが「モラン」の最たる悩みなのだが――それは息子のジャックだ。息子はこだわりの強いところがあり(現代で言うところの、ADHDの症状が出ている)、父の言うことに悉く反する――息子も反抗しているつもりではなく、命令に服すること自体が気質の上で難しいのだ――それゆえ、息子は父を、まるで「厳格なる父」のように恐れている。
 第二部の前半、読者は「第一部のモロイと何の関係があるのか?」「(名前の音が近いゆえ)モロイとモランは同一人物なのか?」「あるいは、(同姓同名の)息子とモロイが同一人物なのか?」「それとも、確かな関連は感じさせるが、そもそも第一部と第二部はまったく別の物語なのか?」、などなど疑問を噴出させるまま宙ぶらりんにされる。
 しかし、第二部の半ばまで進んだところで、ついに「モロイ」の名が出てくる――ただ、本当に名前が出てくるだけで、読者の疑問を氷解させるにはあまりにも情報が断片的過ぎるが。
 「モラン」は神父とは別に仕事を持っているらしく、あるとき、名前やら外見やら性格やら何から何まで描写に欠けるエージェントが接触してくる――互いが互いを見下しているような要領を得ない会話が続いたあと、一つの仕事が言い渡される。「モロイ」なる男――正直、男かどうかも怪しいが――がいて、その身辺調査を「モラン」に行ってほしいとのこと。「モラン」は神父兼探偵なのか、そもそもクライアントは誰なのか、「モロイ」に調べるべき何があるのか、提示される情報はすべて断片的で、肯定の答えも否定の答えも読者は引き出せない――ベケットは端から何かを伝える気はないのだ。
 とにもかくにも、「モラン」は「モロイ」を探す旅に出ることになるが、知的障害の息子を一人置いていくわけにもいかず、同行させることにする――母を探して旅に出た「モロイ」と、ここでようやく重なるわけだが(母を探す「モロイ」を探す「モラン」と奇妙な構造にはなるが)、事態はそれほど単純には進まない。息子を連れだすに、趣味の切手のコレクションに集中したいだとか、雨具は携帯するべきか、携帯するにしても傘なのかレインコートなのかだとか、「モラン」に反抗と質問を繰り返し、そもそも旅に出る準備が遅々として進まない――それも、本筋からは外れたどうでもいいことばかりで妨害が続く。結局、「モラン」は暴力に頼り息子を連れだす――ここで、神父としてではなく、父としての罪悪を感じ、この陰鬱は物語の最後まで尾を引く。
 作品の終盤に差し掛かり、ようやく「モラン」は「モロイ」を探し始めるわけだが、やはりというか、旅には弊害ばかりがあり目的地に辿り着けそうにもない――目的地というのも、「モロイ」のいる街のことだが、そもそも「モロイ」が何者か、何の仕事に就いているのか、どのような顔貌なのか、「モラン」は教えられていない。本当に、「モロイ」がその街にいる、ということしか伝えられていないのだ。
 そこに加え、息子は好き勝手にあちらこちらへ歩き回り、道に生えた花が奇麗だの、あの屋台で売っているものが欲しいだの、脱線と逸脱ばかりで10m進むにも苦戦する有様だ。「モロイ」を探す旅は、むしろ目的なき徘徊と称した方がしっくりくる。
 この旅路で、「父なる神と自分」の関係に囚われていた「モラン」の独白は「神父たる私と知的障害の息子」の関係に流れていく。殊に、神父になるほど知的な私に何故、知的障害の息子が生まれたのか、が「モラン」の最大の疑問となっている――「モラン」も「モラン」なりに、神学、法学、数学、ありったけの知識を動員して理屈を捏ねるが、案の定、神は沈黙するばかりだ。思い違いが発生するかもしれないので、念のため断っておくが、「モラン」はしっかりと息子を愛しており、激昂するのも、息子があまりにも常軌を逸したときのみだ――むしろ、父親としての責務は並み以上に果たしているともいえる――しかし、それゆえに「なぜ自分に知的障害の息子が宛がわれたのか?」が余計に引っかかることになり、憎しみも確かに抱いている(それも、神への恨みと息子への嫌悪が入り混じる形で)。
 距離からすれば大した旅でもなかったはずだが、脱線と逸脱を繰り返したゆえ、ほうほうの体で二人は「モロイ」がいるらしい街に到着する。ところがその瞬間、「モラン」は仕事を放棄して家路に帰る決心をつける――文章に起こすと脈絡がなく、奇妙に思われるが、息子との旅を通して、「モラン」はこの仕事の無意味を肉と骨の痛みで感じ取っている――素性も知らない「モロイ」を追っかけ回し、仮に仕事を達成したとしても、クライアントがその資料を何に使うか知ることはない。そして、別の素性も知らない人間の調査を改めてエージェントを通して依頼される。ひょっとすると、「モロイ」は殺人犯なり、(息子と同じく)知的障害なり、何か特別なところのある人間で、その資料は確かに有用なのかもしれない――ただ、街に着いたそのときには、「モラン」は自分の願いが「私と息子」の関係性が好転することだと思い至っている。「モラン」と「モロイ」に関係がないように、「仕事」と「私と息子」にも関係がない――そして、おそらくは今後依頼されてくる素性の知らない人間も何かを好転させるものではない。
 「モラン」は「モロイ」を探すこともなく、帰路につく――エージェントからは罵られ、クライアントからは二度と依頼が来ないだろうことを理解しながら。そして帰宅すると同時に「モラン」はベッドに入り、『モロイ』は完結する――「モラン」と息子の関係に一つ足す出来事も、一つ引く出来事も起こらなかったまま。

第二部の総括

 サミュエル・ベケットは形式、思考、反復、呼応、欠落を創作の軸とする作家だ――有名どころとして、戯曲『ゴドーを待ちながら』も一本の道と一本の木があるだけの舞台で、二人の男が延々と同じことを繰り返す。それも、第一幕、第二幕に分けた上で、同じ経過、同じ結末を辿らせる徹底っぷりだ。
 『モロイ』もまた二部構成で、どちらも主軸は「誰かが誰かを探す」ところに置いてある。ところがこの作品では物語は(主に独白のなかで)脱線と逸脱を繰り返し、主目的はむしろ後方に押しやられている感がある。第一部と第二部の対照もほのめかされてはいるが、明示されることもなく、読者もまたあれやこれやと脱線と逸脱に振り回されることになる。
 「モロイとモランは設定上は無関係だが、物語のキャラクターとしては同一の存在だ」「モロイと(息子の方の)モランに見られる思考の錯乱や知性の欠落こそに神の秘密が宿る」「『モロイ』全体の構造が、人生、延いては歴史の堂々巡りとなっている」……。そのように読み解くのは当然、読者の自由だ――だが、ベケットは非常に意地の悪い作家で、どの解答に対しても、肯定も否定も書き込んではいない。
 私たちが物語(小説なり、映画なり、漫画なり、アニメなり、フィクションすべてを含めてだ)を解き明かそうとするとき、必ず、関係性や因果律――特に因果応報と信賞必罰を(意識的にしろ無意識的にしろ)念頭に置く。「こいつは悪い奴だから、そのうち痛み目を見る」「この子は良い子だから、最後には報われる」などなど。ここにもベケットの底意地の悪さが出ており、それぞれの出来事の因果律は丹念に断ち切って、一々が独立するように『モロイ』では配置されている――善人が無実の罪で処刑される、悪人が悪運に乗って栄える――そのような「逆因果」とも言えるべきものすら組み込んではいないのだ――ここに、ベケットの神経質と偏執を見出すことくらいは許して欲しい。
 そもそも、私たちは因果応報や信賞必罰そのものが、私たちの根源的な欲望(言葉が悪ければ、願いや祈りと読み替えても良い)に過ぎず、現実にはプラスの因果もマイナスの因果もなく、ただゼロが用意されているだけだと知っている――それでいて、関係性や因果律をまったく捨て去るということができないのだから、法や宗教や国家機関……罪と罰を司るシステムを守ることに尽力する。
 『モロイ』において、「モロイ」も「モラン」も何の意味があるのかわからない人探しの末、この因果のゼロに激突した。「モロイ」の失われていく器官と機能、息子の「モラン」に与えられた知的障害に埋め合わせとなるものを期待するのは人間の性として非難されるものでもない――だが、作中でその補填が成されることはついぞなかった――そこに、ベケットの悪意があったわけでもない――差別や侮蔑があったわけでもない――ただ単に、ベケットは世界に、そして人間に「無慈悲」なのだ。
 そして、「モラン」は作品の結末部にて、私たちの多くが引き出す結論と同じ結論を引き出した。「神は沈黙する」。

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