「旅の途中」
歩道橋の上、再び会った。
間違いない、あの日の彼女だ。革ジャンのポケットから取り出した煙草に火をつけ、ひとつ、ふたつ、みっつ。彼女の口からフワリとした白い輪が、星の見えない夜空に吸い込まれていく。僕の心臓が大きく鼓動を打つ。
あの真冬の夜。すべてのものに嫌気がさして数えきれぬほどの酒を飲んだ。独りで飲み歩いて、色んなものにぶつかった記憶まではある。気づけば、この歩道橋の上で潰れていた。通り過ぎる人が僕を見て、笑ったり、蔑んだり、罵声を浴びせたりしたけど、僕は何も感じなかった。案外、すべてを失くすって気持ちいいもんだな。そんなふうに堕落の快楽に酔いしれながら、埃っぽい砂利を噛みながら寝ていた。
その時、男か女かわからない。高いとも低いともわからない声が聞こえてきた。
「おい、これやる」
そういって僕の手を掴んだ彼女の手が、ひどく冷たかったことを覚えている。うっすらと目を開けた僕。気づけば、フワフワと浮いている風船をひとつ持たされていた。
「え…?え?」
夢のなかの出来事にしては、なぜか糸が引っ張られる感触がリアルだった。
赤い唇がなまめかしい。長い睫毛、黒い瞳を見つめていると彼女はクスッと笑った。
「飛ばすなよ」
そう言ってコツコツとヒールの靴音を鳴らして行ってしまった。
「あの時、凍死しなかったのは貴方のおかげ」
へぇ。何の興味もない様子で話をさらりと気持ちよく聞き流した。そして彼女はまた煙草を吸う。ずっともう一度会いたいと思っていた。あの時、僕はどうして風船を手放すことが出来なかったのだろう。その答えを彼女なら知っているような気がしたからかもしれない。でも、今、彼女の横にいたら、そんなことは…どうでもよくなっていた。
「僕ね、いま幸せ」
「へぇ。博打でもあたった?ふられた女でも戻ってきたのか?」
どうでもいいけど。そう言ってケラケラと彼女が笑い飛ばした。
僕も笑った。
「なぁんにもない…だからかなぁ。穏やかで静かな心が今ここにあるって感じ」
意外に彼女は笑わなかった。
「そりゃいいな」
足元を見つめ、小さくつぶやいた。
大きく白い息を吐きながら、ゆっくりと呼吸をする。大丈夫。もう息苦しさは追いかけてはこない。冷気がツンと鼻の奥を刺激したせいか、ふと泣きたくなって空を見上げる。
雲の切れ間から、輝きを取り戻した月明かりが、僕たちをやさしく照らしていた。
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