教育現場の福祉という存在

朝活12日目。
今日は時間があるので、教育現場に福祉が侵食しているという話題。

否定するわけではないのですが、私の周りの教職員にもNPO法人を作りたいという人がいます。財団法人で働いた経験があるので、一言言わせていただくと、何の役に立つのかよくわかんないということです。公立学校で、しかも教育委員会に行かず、管理職にならず、一生懸命働いた方がより多くの人間が救えると思うのですが、、しかも税金をちゃんと払いながら
ただ、誰も褒めてくれませんけどね。ここが大きなネックでみんな学校を辞めてNPO法人を作ったり大学教員なぞになったり意味のない出世をしたりしていくんだと思います。これは文科省や教育委員会が考える話。

先の場合、私は人間を個々ではなく、数字として見ています。
コロナ禍では、人間を数字として見る人間と、人間を個々として見る人間との意見の対立がありました。
でも数字として見ながら個々をみるやり方もあるはずだと思います。
というか学校の先生ってうまくバランスをとることが必要なのではないかと考えています。

ということで3点。
1つ目は、教育は集団も個もみるが、福祉は個にフォーカス当たりすぎなんじゃね。というハナシ。
学校にはスクールソーシャルワーカーやスクールカウンセラーという職種の人が配置されています。これはたまにyoutuberもいるので見てもらえればわかると思いますが、すごく単純に言えば、話して落ち着かせるという発想です。つまり1対1対応。非常にコスパが悪い。いやコスパだけじゃないだろ。私もそう思います。日本人のコスパ発想はコストに引っ張られすぎているのはないか。タイパもそう。重要なのはコストやタイムのほうではなく、パフォーマンスの方だと思います。1体1対応してもらえるのは教師としては助かります。しかし、教師に福祉の技術で1対1対応を求められると教師の側のパフォーマンスは著しく低下してしまうんですよね。だって担任は30人同時に対応するのが仕事なんだからさ。
困ってスクールソーシャルワーカーに相談している人を見ていると、だんだん時間に余裕がなくなっているのがよくわかります。だんだん元気がなくなっていきます。そしてその子の問題は何の解決もしないまま、学級が崩壊していく。そしてさらに相談件数が増えて、ソーシャルワークの質が落ちていく。悪循環です。

でもなんも解決してないとは言えない。だってせっかくきてもらってる人に悪いからさ。この学校にはせっかくきてもらってる何の責任も負わない人たちのせいで余計現場は疲弊しています。そしてお決まりの真面目な教師が頑張ってその何にも責任を負わない人の対応に疲れ残業を重ね、不真面目な人間が困っている教師を評論するだけ評論してさっさと定時に帰っていくという構図。多分日本中の学校で起こっている構図です。とにかくこれを解消する論理的な枠組みを作りたいところです。マニュアル本ではないやつを。

話が盛大にそれました。すごく単純にいうと教師は元々1対1対応をしています。しかしそこに別の福祉の論理が入ってきてそればかりをフォーカスするのは如何にもバランス重視で動く日本の教育環境とは馴染みにくいのではないかということです。ここを俯瞰できちんと検討している学術論文をgoogle scholarさんは知らないようです。そうでしょうね。だってその人に悪いもん。

2つ目は、福祉って突き放す発想がないよね。というハナシ。
突き放すは言い方悪いかも。最近のコンプラ社会的に。もう辞めませんかコンプラ。有名な物言いに「1つりんごがあります。5人の人間がいます。教育的に考えると5等分します。福祉的に考えるとあと4個用意して1個ずつ渡そうと努力します。」的なものがあります。どう福祉すげーでしょ。という価値づけを加えて話す研究者がいて驚きます。日本の8割方の研究者は外国の成果物を日本に紹介するときに、そこに勝手に(犯罪だと思うのですが)自分の個人的な価値感を押し込んでいきます。私が大学教員を嫌いな理由の一つです。ひろゆきさんの流行語もそこを皮肉った部分があると思います。

また盛大にそれました。すいません。読み飛ばしてください。その話を聞いてすぐに思ったのは、金どうすんねんです。普通の感覚だと思います。そもそも5人は1個ずつ欲しいと思ってんの。1個ないとお腹ぺこぺこですごい困っちゃうの。

話を戻します。教育にはほっとくという実践があります。言い方はいろいろあると思いますが、少なくとも福祉的な経過観察ではありません。可塑性つまり人間力を引き出すために彫り出していくという考え方です。観察しながらそしていろいろな条件的な「力」、目線とか雰囲気とか友達とか声かけとかあげればキリがない、を加えていきながら反応を見てさらに対処をしていくという言語化で合ってるのかな?小学校の先生ってこれを同時多発的にやってるんですよ。毎時間。すごくないですか?ちなみに全員ではないですが。

福祉受給者と教育受益者は置かれている前提が違うことはわかります。だからこそ子どもは突き放すことで生まれてくる力(今流行りの非認知能力ですかね。今更言われなくでもずっとやってましたが)に対応するための間口が福祉受給者の何倍も高いということもわかってもらいたいところ。
児童福祉援助技術などというよくわからない講義をやっていた経験から言うと、福祉は受益者にもたれかかりすぎなんですよね。寄り添いすぎて。
子どもにそれをやると、福祉不正受給者より酷い状況になってしまいます。だって楽しい方がいいに決まってるじゃん。とことんまでふざけて、俺つえーを探究し、自分大事を振りかざし、他者を攻撃しまくります。

良い意味でも悪い意味でも、子どもはそういうもんなんですよ。だから学習などというものすごい苦行に耐えられるんです。日本語などという難解な言語を取得できるんです。漢字なんて世界が挫折した表記システムです。友達100人作ろうとするんですよ。だって歌があるからさ。親は友達いないと心配するからさ。
基本子どもはレジリエンスの化け物です。いやそうじゃない子もいるでしょ。という反論。こんなもん反論でもない。ネット上の誹謗中傷は7割方こんなもん。大人にもそうじゃない人いるでしょ。ということ。もっと思考して論理展開しようよ。誹謗中傷するくらい暇なんでしょ。またそれた。

合わない部分も多くあるんですよ。教育現場の子どもと福祉。

3つ目は福祉のモノサシも対象も曖昧すぎる面が多くありすぎる。
即断即決即対応が求められる教育現場ではそのスピード感は如何にも相性悪いです。また、福祉は相手によって到達点を容易に変えていきます。実は質の高い福祉ほど変えるし、話をしながら変えていくこともあるぐらいです。そもそも福祉には個々には狙っている到達点などほとんど存在しません。というか正確にいうと到達点に対して責任を負う必要もありません。そういうもんだからです。たまに福祉の責任下で命が奪われることがありますが、すぐに忘れ去られてしまいます。しかし学校現場はずっと背負い続けます。いじめ自殺然り、附属池田小然り、東日本大震災然り、です。学校現場は到達目標達成と安全管理責任(いじめ防止対策推進法も)が法律に明記されているんです。

対象の問題でいうと、学校の対象は子どもです。親を教育することは入っていない。もちろん家庭をサポートしますが、我々には家庭の問題に介入する権限がないです。というかそういう教育を受けていない。まれに私のように福祉も教育も分かる人間もいますが、いつも思うのはなまじわかっているからダメなんだよな。ということがよくわからないことにはあります。
少年野球を教えてる人を見るとよく思います。この人が教えても子ども絶対上手くならないよなということです。本当によくわかっている人は自分が教えてることが相手に合うかどうかを考えて悩みます。上原浩治さんが野球に正解がないと言うし、古田敦也さんもよく悩むよねーって言ってますよね。なまじの人は自分の教えていることは相手に合うはずだと思い込んでしまいます。知っていることを実際に活かすことが難しいんです。野球できる人は山ほどいても大谷翔平を育てられる人はいません。多分理解者はたくさんいたんでしょうが、世の中潰す指導者の方が多いです。

それた。合わない部分も多くあるんですよ。教育現場の子どもと福祉。(2回目)

福祉が悪いとは一言も言ってない。(言ったかな)私福祉国家論者だから。ただ今の教育現場では機能していないというハナシ。というか相性悪くて逆効果なのではないかという言語化です。

では、何をすれば良いかなを言わないと意味がない。ここまでが批判のワンセット。思考と実践の融合です。まず学校現場には福祉を受け入れる時間の余裕がないので、業務時間の中にきっちり福祉的な時間を用意しなければダメです。

もちろん時間は人員配置でも代用できますが、人員配置の問題点は質にばらつきが出る点です。つまりガチャです。私は親や家庭や保育所、学校はガチャではないと思います。それほどばらつきがないからです。学校現場の人員配置はひどいです。採用担当者が無能だから。バイトの人数集めより酷い。大学生の頃、バイトを集めるバイトをしたけどもうちょっと誠実に選んでた気がします。誰でもいいとはならないはず。よって現場はよりブラック化する悪循環。

よって時間的なゆとりを作ることが大事なのに、前にnoteしたように現場はブルシットジョブを生産して自分の首をギュウギュウしめていきます。
ここを解消する方法を考えていきたいところです。
極端なことを言えば学習指導や生徒指導に全集中する人員とその他雑務に全集中する人員に区分けするのも一つの手。実際にはここがヌルッとしているのがよくない。しかしここで課題なのが全員に教育的なバックグラウンドがあり、流動的に行き来することができる風通しの良さが必要になります。この実現もいくつかの阻害要因があります。

この辺はまだ言語化していない教員多忙化の仕組みを言語化する作業の後になりそうです。

教育現場の福祉は有効だが実際には、、という話でした。異業種(養護教諭さんや事務職員さん、用務員さん、給食配膳員さん、警備員さんも異業種だと私は思っています。思ってない人も多いと思うけど)協働は、お互いを信頼して、丸投げし合うのが良いと思ってますし、そもそもお互いを尊重し合わないといけないでしょと思っています。どちらかがマウントをとって心理的安全性が発動しないような関係性に協働など無理筋だというのは自明だと思いますけどね。教育現場にいる異業種の人たちはそこにいるだけで教師にマウント取られてると思ってるもんなんですよ。教師もそこはわかってあげましょうよ。

うーん深掘りしたつもりがまたとっ散らかってしまいました。では。

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