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小説|福岡天神 流しのバーテンダー 5

僕の胸貸します

 新年会の帰りだった。
 多香子と新人の体育会系男山田と三人で屋台の並ぶ道を歩いていた。
 ラーメン屋が多いが、おでん屋、焼き鳥屋、洋食屋台もある。
 その中の一軒の暖簾越しに、スーツ姿の大荷物野郎が見え隠れしていた。
「お、涼子の男だ」
「え、涼子さん、彼氏さんいたんすか?」
「私のじゃないから」
 多少面倒に思ったものの、お酒が入って機嫌は良かった。
 三人で立ち止まり、長谷川が屋台から出てくるのを待つことにした。
 長谷川は客と屋台の主人に礼を言いながら、暖簾から呑気な顔を出す。
「あ!涼子さん、皆さん、こんばんは!」
 山田が物珍しそうに長谷川を見つめる。
「これがあの噂の、ははあ」
「こいつ後輩なんよ。山田って言うの」
 多香子が説明してやった。
「どうも、始めまして。皆さん、飲み会か何かの帰りですか?」
「新年会だったの。明日休みだと思って、結構飲んじゃったわよね、涼子」
「うん」
「そうだ、先輩、ラーメン食べて行きましょうよ。やっぱり飲んだ後には豚骨ラーメンいっとかないと」
「イヤぁ、太るやん」
「俺、奢りますよ?」
「よし、乗った!涼子も食べるやろ?」
「んにゃ、私はいい。ちょっと今日はお腹一杯。二人で食べて帰り。私、先帰るけん」
「そう?そうやね、隆クンもいることやし。でも大丈夫?アンタだいぶ飲んどったやん?一人で帰れる?」
「うん」
「あの、何かの時は僕がお送りしますから、大丈夫ですよ」
 多香子との会話に、笑顔で長谷川が割り込んでくる。
 多香子は頷いて長谷川の肩をぽんと叩いた。
「そうね。涼子、酒は強いけど、今日はいつもより飲んどるけん気をつけてね」
 長谷川は少し声を抑えて多香子に聞いた。
「気をつけてと言うと、もしかして普段より凶暴になるとか、ですか?」
「どうかなあ、私もよく判んないけど」
「ねえ、それ内緒話?本人に聞こえてるんだけど」
「ま、大丈夫だと思うよ。涼子は家に帰りつくまでは普通と変わんないからね」
「家に帰りつくまでは?」
「家に帰ると急に酔いが回るんだって。ね、涼子」
「うん。それまでは平気。今だってぴんぴんしとーやろ?」
「そうですね」
「じゃ、隆クン、よろしく」
「ハイ、判りました」
 山田と多香子は屋台を選びながら私たちから遠ざかっていった。
 長谷川はそれを見送って、私に向きなおる。
「今は素面にしか見えないけど、念のために自宅までお送りしますよ。どうせ近いんだし」
「その荷物で電車乗れないでしょう」
「歩いて帰ります?薬院なんてすぐそこじゃないですか」
「やだよ」
「じゃ、荷物は置いていこうかな」
「あんた仕事中でしょ?いいよ、一人で帰るから」
「遠慮しないでいいですよ。最近は更にお客さんが増えて、1日平均20人くらいなんです。それで、今日は先刻の方で21人目だったんですよ。今日のノルマ達成なんで、もうお開きにします」
「ノルマなんか設定してたら良い商売できないわよ」
「そんなこと言わずに、一緒に帰りましょう。涼子さんとはいえ、やっぱり女性一人じゃ危険ですから」
 しつこさに、私は肩をすくめる。
「まあ、そんなに言ってくれるんなら、それでもいいけど」
「やった。帰りましょう」
 長谷川はにっこり笑った。
 その顔を見ていたら、なんとなく目眩を覚えた。
 
 
 自分の頭がぼんやりしていることを意識しながら、私はゆっくり目を開いた。
 長谷川の顔が比較的近くに見えた。
 奴の右手が私の左頬に触れている。
 私と目が合うと、長谷川は口を縦に大きく開いて、顔を青ざめさせた。
 それはまるで、ムンクの叫びのようだった。
「ヒーッ!ち、違いますっ」
 長谷川は叫びながら、一瞬にして部屋の隅に飛んで、背中を壁にめり込ませるかと思うくらいに擦り付けた。
「違うんです!信じてください!いい加減起きそうにもないからちょっと頬っぺた触っちゃえとか、それで反応がなかったらキスなんかしたりしてとか、いやそれはさすがに人間失格だとか、でも気付かなければいいじゃないかとか、葛藤しながらも結局頬っぺた触って、更に邪まな考えが頭をよぎったりとか、全然そんな、まったく考えたりしてないですから!本当、違うんですよ!僕何もしてないんです!許してくださいっ、ごめんなさいっっ」
 墓穴を掘るだけの長谷川の言い訳が、私の脳を活性化させていく。
 私は上体を起こして、とりあえず部屋を見渡した。
 その部屋は薄暗く、質素な部屋だった。
 そして少し変わっていた。

 壁にはマホガニー風の腰板があり、その上の白い壁紙はヤニ色に少しくすんでいる。
 床も焦げ茶色の板張りで年季の入った趣がある。
 正面の壁には縦長の小さな窓が二つ、どちらも同じ木枠の上げ下げ窓だ。
 右側の壁に据え付けの棚。
 その手前に湾曲したカウンター。
 どうやら小さなキッチンになっているようだった。
 私の背中側の壁とキッチンの壁が接した直角に、ドアが二つ付いている。
 背中側の方がやや大きめだ。
 どちらにも菱形の明かり取りのガラスがはめ込まれていて、ドアノブは古びた真鍮で出来ていた。
 そして私が座っているベッドは、ヘッド部を壁に寄せて配置されている。
 アイアンフレームの、これも時代を感じさせる代物だった。
 端的に言うと、日本の風情は何処にも感じられない部屋だ。
 西部の酒場の二階にある宿の部屋とか、ハードボイルドな映画に出てくる主人公の刑事の部屋とか、そんな雰囲気。
 まあ、ハードボイルドな映画を観たことはないんだけど。
「ここ、何処?」
「あ、はい、僕のアパートなんですけど……」
「ふーん」
 長谷川は窓の下の辺りに縮こまって、怯えた目で私を見上げている。
 その近くに肘掛け椅子があった。
 私のコートとバックはそこに置いてある。
「あ、あの、怒んないんですか?」
「怒るも何も、まだ状況がよく判ってないから」
「あ、そうか、そうですよね」
「何であんたの部屋のベッドで寝てるの?私」
「あのですね、僕と一緒に帰りましょうって言う話になったんですけど、そしたら、涼子さん急に僕に倒れかかってきたんです。急性アルコール中毒かと一瞬焦ったんですけど、どう見てもすやすや安らかにお休みされてるだけのようだったので、どうしようか迷った挙句に」
「自分のアパートに抱えてきたと」
「そ、そうです。自宅に抱えていくのははばかられ…と言うか、荷物背負ったまま自宅まで涼子さんを抱えて行くのはさすがにきつかったので」
「そう」
 私は髪をかき上げて頷く。
 大体、状況は理解できた。
「でも、何で眠っちゃったんだろう?私、自分の部屋にたどり着くまでは、いつも平気なんだけどな」
 私がベッドから降りると、長谷川は緊張した顔で起立した。
「今日はいつもより飲んでたって、多香子さんも言ってましたから、その影響じゃないですか?」
「そうね。にしても、この部屋暗くない?起き抜けの目にはちょうどいいけど」
「あ、この部屋間接照明しかないんです。すみません。天井にコンセントない上に、構造上照明を吊り下げられなくて」
「別に謝んなくていいんだけどさ」
 私はカウンターの前に来て、奥の壁を眺める。
「自宅にバックバーがあるなんてお洒落だね。さすがはバーテンダー」
 壁に据付の棚には、様々な種類の酒瓶やグラスなどが並べられていた。
「ああ、嬉しいな、涼子さんに褒められるなんて。そうだ、お水でも飲みますか?」
「うん。冷たいのがいい」
「はい。ちょっと待ってくださいね」
 長谷川はカウンターの中に入って、その下にあるらしい冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、グラスに注いでくれた。
 受け取り、窓際に行ってそれを飲んだ。
 窓からは殺風景な建物の屋上らしき場所が見えた。
「ここって、何処なの?」
 長谷川は私の隣に来て、同じように外を見ながら答える。
「新天町ですよ」
「新天町?新天町の中?」
「はい。かなり古い建物なんで、時代がかってるでしょう、この部屋も」
「うん。でも、新天町内にアパートなんてあったっけ?」
「店舗と店舗の隙間に階段があるんですけど、小さいし、店の看板とかで目立たないんですよね」
「どっち側なの?」
 長谷川は窓の外を指差しながら言った。
「南です。こっちがサザン通り。ま、通りは見えないんですけどね。3室しかない小さなアパートです」
「他にも誰か住んでるの?」
「はい。右隣には画家さんが住んでますよ。左隣の人はまだ会った事ないですけど、住んでるのは確かみたいです」
「へえ、そうなんだ」
 窓のへりが十数センチの幅だったので、私はそこにグラスを置いた。
「私、どれくらい寝てたの?」
「えっと」
 長谷川は腕時計を確かめる。
「1時間半くらいですね。今は11時38分です」
「そう」
 私がなおも窓の外を眺めていると、長谷川は言った。
「あの、今日、どうかされたんですか?なんか、元気ないみたいですけど」
「そう?」
「はい。いつもなら、すでに殴られてるような気がします」
「殴られたいの?」
「い、嫌ですけど…。でも、涼子さんが元気ないのは、なんか、ちょっと心配です」
「あんたってさ、ちょっとマゾっ気あるよね」
「…最近自分でも、ちょっとそう思います。いや、実際にはありませんけどね。ありませんよ。ありませんありません」
 小刻みに左右に振る首を、頬に手をあてて止めてやった。
 長谷川は上着を脱いで、ネクタイを外し、ワイシャツ姿になっていた。
 こうやってじっくり見てみると、細身ではあるが、結構筋肉質なのが判る。
 いつもはきっと、大荷物のせいで本人の体格はよく判らなかったのだ。
 でもあれを毎日抱えてるんだから、筋肉は付いていて当然だろう。
 背も思ったより高かった。
 奴にキスするには、その後頭部に手を伸ばして、自分の方へ顔を押して持ってこなければならなかった。
 私が口を離すと、長谷川は「はーっっ」と叫んで、自分の頭を掻き毟った。
 目を丸くして、多少怒っているようだ。
「な、なにするんですか⁉」
「ちゅー」
「ち、ちち、ちゅーって!何で、そ、こんなことするんですか?僕のこと好きじゃないくせにっ!」
「自分だって、私が寝てる間にしようと思ったんでしょ?」
「お、思っただけでしてないでしょ⁉思うくらいならいろいろ思いますよ!でも何もしてないですって!な、何でですか?僕、僕だって、いろいろ考えてたんですよ、どんなシチュエーションでとか、いろいろシミュレーションしたりしてっっ!」
「アホか」
「アホじゃないです!」
「嫌だった?」
 首を傾げて聞くと、
「正直、嫌じゃありませんでした」
 きっぱりと言う。
「でもダメですよ!どうして、いつか僕の方からしようって思ってたのに、何で涼子さんがするんですか?どうしたんですか?絶対おかしいですよ、今日の涼子さん!」
「そうだね」
 私は肯定して、長谷川の胸に寄り添った。
「りょりょ、涼子さん?」
 長谷川の心臓はなんじゃこりゃって言うくらいバクバクなっていた。
 私は黙って、じっとその音を聞いていた。
 少しずつ、その間隔が平常に近付いてきたのが判ると、私は言う。
「あのね」
「はい」
「今日、判ったんだけど」
「はい」
「部長が転勤するんだって。四月から、東京本社に行くってさ」
 長谷川はしばらく黙っていた。
 そして、そっと、私の背中に手を回した。
「僕、身代わりか何かですか」
「そうかも」
「……そうですか」
 そして少し、手に力が入る。
「こないだは、すみませんでした。余計なこと言って」
「別にいいよ。悪いことじゃなかったし」
「そう言っていただけると、嬉しいです。ちなみに……」
「なに?」
「ただいま新春特別企画、無料お試しキャンペーン中なんです、僕の胸」
「そう。タダなんだ。良かった」
「はい。だから、心置きなくお使いください」
「ありがと」
 落ち着いてきていた長谷川の心臓の音は、少しだけペースを上げたような気がした。
「別にどうしようって訳じゃなかったんだよ、本当に。ただ、部長がいつもの場所にいつものようにいるだけで良かったし、お喋りするだけで楽しかったし。それだけの事だったのに、もうそれが無くなると思うと、なんか、辛くなっちゃった」
「慣れますよ、そのうち」
「そう?」
「ええ」
 見上げると、長谷川は微笑んだ。
 少し無理をしてるように思えた。
 そして私の額にキスをした。
「良かった」
「なにが?」
「殴られなかった」
「私、そんなに凶暴じゃないよ」
「そうですか。あの、実は今、お得意様限定キャンペーンも併せてやっていまして、もう少し下の方も貸し出し中なんですけど……」
「調子に乗んなよ」
「すみません、忘れてください、冗談ですから、今の、もう冗談でしかありえないですから、ごめんなさい、なに言ってんだろ、本当に、まったく」
 冷や汗をかきながら、ごまかすように長谷川は私を抱きしめる。
「でも、家までは送りますよ。もう、終電行っちゃっただろうし」
「うん」
「歩きでも、バスでも、どっちでもいいですよ。タクシーはちょっと、痛いですけど……」
「歩きでいいよ。近いから」
「良かった」

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