見出し画像

小説|福岡天神 流しのバーテンダー 6

言えない言葉

 ソラリアを抜け、警固公園へ行った。
 珍しく、長谷川と待ち合わせなんかをしている。
 公園の池を見ながら、冬のさなかに屋外で待ち合わせをした事を後悔した。
 ソラリアの中にしとけば良かった。
 二月の風は顔に冷たく、予定の時間を5分過ぎても長谷川は現れず、私は苛々してくる。

 くっそお。
 私が誘ったんじゃないんだからな、あの野郎。
 もう帰ろうかな。

 そう思った時だった。
カシャカシャ、カラカラと、いつもよりいささか派手めの音が聞こえてきた。
 見れば夕闇の中、物凄い形相で長谷川が走ってくる。
 出来ればこっちに来てほしくないくらい、切羽詰った顔をしていた。
「涼子さーん!」
 勝手に人の名を叫ばないで欲しい。
 警固公園にはそれなりに沢山の人間がいるのだから。
 すぐ傍まで来ると、私の肩を掴まえ、それを支えにして息を整える。
「エ、エマージェンシー!」
 私はその言葉に敏感に反応し、意気込んだ。
「なに、緊急事態?どうしたんだ!」
「ほほ、保健所の職員に追いかけられてるんです」
 なーんだ。
「まあ、あんたが悪いんだから、仕方ないよね」
「とにかく僕、逃げますから、涼子さんも何処かに避難しててください」
「避難って、私は関係ないじゃん」
「一蓮托生ですよ。僕と涼子さんはもう他人じゃないんだから」
 言い終わらないうちに腹に正拳を決めてやった。
「他人だよ」
「す、すいません、ゲホゲホ、とにかく僕逃げます。あ、もう来たっ」
 そう言って振り向いた方向には、確かに長谷川に向かって走ってくる二人の男がいた。
「コラー、待たんかーっ!」
 と、あちらも叫んでいる。
「じゃ、黙阿弥堂にいるから」
「判りました。きっと行きますから待っててくださいね。今日は涼子さんに渡すものが」
「いいから早く行け!」
「はい!」
 長谷川は国体道路の方角へ走っていった。
 その後を、二人の男が疾風のごとく追いかけていく。
「食品衛生責任者の資格ば持っとうとかって聞きよったい!待たんね、もうっ!」
 私は暗がりに消え行く三人の男たちを見送った。
「生きていればまた会おう」
 そして、その背中に敬礼をする。
 
 
 河竹のおじさんはハハハと笑った。
「お店出してる訳じゃないからね、困ったねそれは。まさか営業許可だって取ってないだろうし」
「気ままな流し家業だもんね」
「最近有名になっちゃったから、お役所も黙ってられなくなったのかな。しかし、そうなると商売に支障をきたすね」
「もともと違法なんだから仕方ないわ。あいつの酒飲んで食中毒起こさないとも限らないし。ギター弾きとかヴァイオリン弾きとかじゃなきゃ、流すんなら」
「バイオリンはいいねえ」
「三味線とかね」
「おっ、いいねえ。お座敷から声をかけてね、ちょいと二階まで上がっておいでよ、なんて。いやあ、なんだか懐かしいなあ」
「懐かしい?お座敷から流しの三味線弾きに声かけたことあるんですか?」
「い、いやあ。そんなことある訳ないよ。想像だよ、想像」
 おじさんは毛糸の帽子に手を置いて、照れ笑いをする。
「しかし、遅いね。隆一郎君は」
 差し入れに買ってきた肉マンも、とっくに食べ終わっていた。
「さては、力尽きて捕獲されたかな」
「可哀相に」
「あ、そうだ。おじさん、そろそろお店閉めるんじゃないですか?ごめんなさい、邪魔だよね」
「いや、いいよ。うちは開いてても閉めてても同じようなもんだから」
「自宅はこの奥でしたよね」
「ああ。だから気にせずいてくれていいよ。ビールでも持ってこようか?」
「あ、私、買ってきますよ」
「家にもあるからいいんだよ」
「いいえ。場所代払っとかないと」
 私は店を出て、すぐ近くにある酒屋へ行く。
 缶ビールを5本買って出てくると、通りを部長が歩いていた。
 驚いていると、目が合った。
「あ、緑川くん」
「こんばんは、部長。英会話ですか?」
「うん、そうやん。もう終わって、帰る前に本屋にでも寄っていこうと思って」
「そこの本屋ですか?」
「うん、黒木書店」
「珍しいですね、いつもは丸善なのに」
「うん。なんとなくね」
 なんとなく、その辺りで会話が止まってしまい、数秒の気まずい沈黙が流れた。
 それを恐れるように、部長は少し慌てて声を出す。
「えっと、その」
「はい?」
「緑川くんは、買い物?」
「ええ、まあ」
「あの……、コーヒーでも飲まんね?時間が、あればやけど」
 私は1,750ml強の買い物袋を、少し力を入れて握った。
 
 
 西通りにある大きな喫茶店の窓際のテーブル席で、部長はブレンドコーヒーを飲んでいる。
 私は部長の前の席でアイスコーヒーを飲む。
 ビールは黙阿弥堂に置かせてもらった。
 外は寒かったけど、店内はとても暖かかった。
 アイスコーヒーでちょうどいいくらいだ。
「東京に行くの、少し早まりそうやんね」
「そうなんですか」
「うん。三月中旬には行くことになりそう」
「じゃ、来月ですね」
「うん」
「博多弁はしばらく封印ですか?」
 部長は笑う。
「どうかいな。会話が通じらんことには仕事にならんけんね。英語より標準語習った方が良かったかいな」
「なおすって、通じないらしいですよ。しまうじゃないと」
「そうね?そら、覚えとかないかんね」
「他に意外な方言がみつかったら、里帰りした時に教えてくださいね。私たちが標準語だと思ってる言葉が、いっぱいあるだろうから」
「うん。そうやね。判った」
 ストローを動かして、氷の音をたてた。
 部長はしばらく、私のアイスコーヒーの氷を見ているようだったけど、不意に私の顔を見た。
「緑川くん」
「はい?」
「こないだの人。確か原口くんが隆くんって言いよったけど」
「ああ、はい」
「彼はなかなか評判も良いし、良い人間みたいやね」
 評判良いのか?
 いろんなとこから逃げ回ってるってのに。
 しかもさっぱり素性が判んないし。
 何処の出身なのかも、何でこの街にいるのかも。
「そうですかねえ……」
「つまり、なんだ。私はこういうの苦手なんやけど、つまり……元気でね」
「部長…」
「年甲斐もなく、その、緑川くんには惹かれるところがあって、でも、あの男のお陰で目が覚めたというかね」
 私は部長の目を見つめた。
 部長がどうしていいのか判らなくなって、そわそわし出すまで。
 目がそわそわしてきたので、私は言った
「部長も元気で頑張ってくださいね」
「あ、ああ。うん。ありがとう」
 私は出来るだけ可愛く微笑んだ。
 部長はほっとしたように、でも少し淋しそうに微笑を返してくれた。
 そして私はふと窓の外へ目を向け、「げっ」と、呻いてしまう。
「へ?」
 部長が聞き返し、私は首を横に振った。
「いいえ、なんでもないです」
 何でもないことはなかった。
 窓の外を長谷川が走っていくのを見たのだ。
 後ろを一人の男が追いかけていた。
 でも、警固公園で見かけた二人のどちらでもなかった。
 今度の敵は誰なんだ?
「あの、部長」
「ん?」
「そろそろ帰りましょう」
「あ、そうやね。ごめんね、無理に誘って」
「いいえ」
 店を出て、部長は駅まで送ってあげると言ってくれたけど、私は断った。
 帰るにしても、おじさんに一度顔を見せないといけないし、長谷川の件もあるし。
「でも、そんなところに本屋があったかな?よく通ってると思うけど、気付かんかったなあ」
「小さな本屋だから、あんまり目立たないんですよ」
「そうか。まあ、とにかく気をつけて帰りなさいね」
「はい。おやすみなさい」
「おやすみ。あ、あの」
「はい?」
「変に思うかもしれないけど」
「はい」
「握手、してくれないかな?」
「握手ですか?」
「うん」
「握手、か。今生のお別れみたいですね」
 きっと、そうなるだろうけど。
 部長は笑う。
「それは大袈裟だけど、なんとなく」
 私も笑った。
 そして言った。
「嫌です」
「え?」
「握手なんかしてあげません」
「ダメかい?」
「ダメです。部長にだけはしてあげない」
「私、だけ?」
「ええ。絶対、してあげない」
 部長はふっと息を吐いて、小さく頷いた。
「そうか。残念だけど、判ったよ」
「おやすみなさい」
「おやすみ」
 私は信号を渡って、新天町へ向かった。
 
 
 おじさんが、冷蔵庫に入れててくれたビールを、カウンターに持ってきてくれる。
 私は木製の小さな丸椅子を借りて座っていた。
「泣きたい時は泣いた方がいいよ」
 おじさんは呟くように言った。
 私は目をこすって、缶ビールを手に取った。
「こないだも、あいつからそんなこと言われちゃった。あ、そうだ、あいつまた違う人から追われてたの、先刻」
「おや、まあ」
「西通りを北に向かって」
「忙しい男だね、彼も」
「いい加減、帰っちゃおうかな。待ってるのあきちゃったし」
「うーん。うちのことは構わないけど、さすがにもう10時になるしね。涼子ちゃんがあきてくるのも判るよ。夕方から待ってんだからね。いったいどれだけ走ってるんだろう。今日は仕事にならなかっただろうね」
「そうね。じゃあ、おじさん、長居してごめんね」
「いや、いいんだよ。店はもう少し開けてると思うから、もし彼が来たら、ちゃんと伝えとくから」
「うん。ありがとう」
 
 
 人通りの減った新天町のアーケードを、とぼとぼと歩く。
 一人で帰るのは久し振りだった。
 まあ、たまには一人もいいかな、なんて思っていたら、後ろからバーツールの唸る音が聞こえてくる。
 まだ走ってるらしい。
「涼子さーん!」
「だから、名前呼ばないでよ、大声で」
「逃げますよ!」
「逃げれば?」
「涼子さんもご一緒に」
「なんでよ?」
 反論を無視して、長谷川は私の手首を掴まえ、有無を言わさず引っぱった。
 私は一緒になって走るしかなかった。
「もーう!」
 後ろから迫ってくるのは背広を着た中肉中背の男で、汗だくの上に酷く険しい顔をしている。
「今度はなんなの?」
「税務署の職員に見つかって」
「何でこんな時間に?帰れよ」
「向こうに言ってくださいよ」
「もー。足痛いよーっ」
「あ!何で今日に限ってパンプス履いてるんですか?しかもスカートじゃないですか」
「偶には履くよ、私だって!」
「ジーンズOKの会社なんでしょ!いつもスニーカーの癖に」
「気色悪っ、いつも見てんのかよ」
「仕方ないな、もう!」
 長谷川は「せやあっ!」と叫んで、私をいきなり抱えあげた。
 これも久々のお姫様抱っこだ。
「あんたバカじゃないの?今までずっと走ってたのに、疲れてるでしょう?」
「そんなこと言ってられないし!うぉりゃーっっ」
 長谷川はこともあろうに加速を始めた。
「スピード違反で捕まるんやない?人ひかないでよ」
「人通りには注意してますから!」
「待てー!きさーん!何で女連れとーとやあ⁉気に入らんぞ、くそーっ!」
「税務署職員の神経を逆なでしたみたいよ?」
「そんなこと構ってられませんよ!ったく、しつこいなあ、もうっ」
 新天町を抜け、駅ビルを抜け、信号が変わりそうなのを瞬時に確認して、左へと方向転換する。
 天神ビルへ続く横断歩道を走る。
 うー、目立ってる、恥ずかしい……。
「あんた、自宅に逃げ込んだ方がよかったんじゃないの?」
「ダメですよ!自宅を知られたらもう逃げ場がなくなるじゃないですか」
「あー、きついよー。抱っこされてるのも、すっごい、きつーい」
「そんなこと言わないでくださいよ。僕の方が何倍もきついんですから」
「じゃあ、降ろしてよ。私関係ないんだから」
「ダメです!ちょっと目を離したら浮気するんだから、涼子さんは」
「はあ?」
「判ってんですからね、先刻、部長とお茶してたでしょ!」
 こいつは、あの状況でこっちに気付いてたのか?
 恐るべし。
「あんたに関係ないやん」
「大有りですよ!僕と涼子さんはもう切っても切れない深い仲に、うぐ!やめてください首絞めるのはっっ。はぐっ、それでなくても大量に酸素が必要なんですからぁっ」
 昭和通りに行きついて、左に曲がる。
 福岡銀行の裏手に来た辺りで追っ手をまいたことが判ると、長谷川は力尽きた。
 私を降ろして、バタンと地面に突っ伏する。
 屋台も並んでる場所なので、人はそれなりに通っている。
 通行人が物珍しそうに見ていく。
 中には声をかけてくれる人もいた。
「あの、救急車呼びましょうか?」
「あ、大丈夫です。いつものことですから。ありがとうございます」

 私は少し時間をおいて、長谷川の頭を人差し指でつついた。
「おい、こんな地面に寝てたら汚いよ」
「もう少し優しいセリフはありませんかね?」
「なんだ、喋れるやん」
 長谷川はこちらに顔を傾ける。
「せめて、風邪ひくよ、とか」
「それより、通行人の邪魔」
 長谷川は泣きながら体を起こした。
「はあ、疲れた……」
「あんた、先月のタウン誌にインタビュー載せてたでしょ」
「あ、見ました?いや、お恥ずかしい」
「写真入りでさ」
「はい。もう、どうしてもって頼まれて、断りきれなくて。上司に怒られるからとか何とか泣き落とされちゃったんです」
「調子に乗るから目付けられるのよ。最近は日に30杯売れるなんて事まで喋ってたじゃない」
「つい正直に…。先刻のおじさんも、そのことで詰め寄ってきたんですよ。開業届けは出してるのかって。そんなもん出してる訳ないじゃないですかね?」
「あんたが悪いのよ。そんなに稼ぐようになったんなら、もう流しなんてやってたら駄目よ」
「え、でも…自分の店出せるほど、資金が溜まってないですから……」
「どっかに雇ってもらったら?少しは有名になったんだから、勤め先の一軒くらい見つけられるんじゃないの?」
「はあ…そうですね」
 俯く長谷川に、手を差し出す。
 こちらを見上げる。
「いつまで座ってんの?」
「あ、はい」
 手を引いて立たせてやった。
「あの、涼子さん」
「ん?」
「ご飯付き合ってくれます?」
「そっか。あんた、何にも食べてないんだ」
「はい」
「いいよ。それよりさ、荷物大丈夫なの?瓶とかグラスとか一杯入ってるんでしょう。割れなかった?」
「あ、そうだ!」
 長谷川は慌てて背中の荷物を降ろし、リュックの中を探り始めた。
 そして「はい」と、笑顔で私にそれを差し出す。
「なに?」
「約束してたでしょう?昨日やっと買ったんです。遅れてすみませんでした」
「なによ」
 受け取ってみると、それは〇田〇吾のDVDだった。
「あ…覚えてたの?」
 私はすっかり忘れ果てていた。
「もちろんですよ。すみません、開けてもらえます?中身、割れてないかな?」
 私は封を切ってディスクを確かめる。
「うん。大丈夫。…ありがとう」
「へへ。喜んでもらえて良かったです」
「うん」
 嬉しそうにしている長谷川に、私も笑顔を返す。
 とても、すでに持っているDVDだとは言い出せなかった。
 私はタイトルを指定しなかったことを、酷く後悔した。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?