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宗教や信仰についての雑記 #31

◯「宗教の行方」を読んで その3

もう少しだけこの本の感想を続けます。

この本の中で、統合への「自覚」とか「直接経験」とかいったことが書かれていましたが、どうもそれらは仏教の言う「悟り」のようなもの、あるいはそれに近いもののように思えました。
ですからそういったことは、こんなに心の弱い自分には関係ないなと思っていたのですが、著者自身も「こんな世界ならもう生きていたくはないな、早く死なないかな」などと思ったことが幾度となくあったそうで、そのたびに「これではいかん」と思い直したと、この本の最後の方に書かれていました。
「直接経験」を経てこんな難しい本を書いた高名な学者でも、そんなふうに思うことがあったと知って、少々気が楽になりました。

この本には「私」を構成する全てのものは他者由来、と書かれていました。
身体を構成する元素や分子、遺伝的な体質や性格、生まれ育った環境、記憶や言語など、それらのものすべてが他者由来ならば、私のこの弱さもまた他者由来ということになります。
それ故、先日#28で書いた「実在」の「願い」も他者由来のものとして、「私」という存在の奥深くにまで織り込まれているのではないでしょうか。

それは、先ず「願い」とは別個の存在としての「私」がいて、その後に外側から「願い」をかけられるというのではなく、はじめから「私」という存在の奥底にまで「願い」が織り込まれて生まれてくる、あるいは、様々なものとともに「願い」が織り込まれることにより「私」が「私」という存在となる、そんなイメージです。

この考え方は非合理なうえ、一歩間違えれば非常に自分勝手な生き方に陥ってしまう危険性がありますが、その一方で、大きな救いにもなり得ると思います。

パウロの言う、弱さの中でこそ発揮されるキリストの力や、親鸞の言う悪人正機とは、他者由来のものとして、存在の奥深くにまで織り込まれた「願い」の働きのことのように、私には思えるのです。

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