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宗教や信仰についての雑記 #41

◯束縛と自由

今まで何度かヴィクトール・フランクルを引用してきましたが、フランクルは、心理学主義や社会学主義、生物学主義に対して批判的な立場をとっていました。
彼の立場は、これらの学派が人間の本質的な側面や意味の追求に十分に焦点を当てていないという点にあります。

心理学主義は心の働きに焦点を当てており、個々の心の状態や心理的メカニズムを研究することを重視しています。一方で、社会学主義は社会的関係や文化的要因を重視し、人間の行動や態度を社会的観点から分析します。また、生物学主義は遺伝や生物学的要因が行動や思考に与える影響を主眼においています。

フランクルの批判は、これらの学派が人間の一面を見るのみで、本質的な意味や自由に焦点を当てておらず、個々の人間の存在や意味の探求に対する無視や軽視があるという点にあります。
彼はそれらの要因を乗り越える自由や責任が人間にはあると信じ、その重要性を認識することが必要だと考えていました。
そして彼の患者や強制収容所での体験を、その実例として挙げていました。

ただ私には、それは一部の例を以て過度の一般化をしているようにも見えました。
実際には人間は、心理学的、社会学的、生物学的、それぞれ要因に完全に支配されているわけではないですが、それらから完全に自由でもない存在であって、その束縛と自由の度合いは人によって異なるのだと思います。
もし誰もがフランクルの言うとおり、自由で責任を引き受ける存在であったなら、世界はもっともっと良くなっていたはずでしょう。

自分自身による束縛とそこからの自由、弱さと強さ、エゴイズムと共感、それらを共に持ち合わせているのが人間であり、そのことが人生の苦悩や哀しみの大きな理由の一つとなっているのではないでしょうか。

でも、おそらくフランクルもそのことはわかっていたのだと思います。ただ、他者への批判はときに、教条的に受け取られるおそれもあります。
ですから私は、イエスの受難や阿弥陀の誓願が、弱さを抱えた人々の救いになるということに、より注目したいのです。

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