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宗教や信仰についての雑記 #76

◯どことて御手の真中なる

先日、「どことて御手の真中なる」という言葉をある本で読みました。
これは柳宗悦の言葉らしいのですが、信仰(信心)のあり方を素朴に表していると感じました。
柳宗悦は民藝運動の主唱者であると同時に、宗教哲学者でもあったそうです。

この「御手」とは何か大いなるもの(柳宗悦にとっては阿弥陀仏)の手のことでしょう。
そして自分はどこにいてもその手の中に在る、即ち自分は護られ救いの中にいる(救いが决定している)ということなのだと思います。

そしてここで重要なのは「真中」ということでしょう。
これは親鸞聖人が「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」と言ったことを表しているようです。
そこには自分の罪業の深さへの自覚があると言われています。

自分は救いの辺縁ではなく中心にいる、他の誰かを救うついでに救ってやるというのではなく、自分こそが救いの正客・主たる対象であるということ、私はそう受け取りました。
そこでは人は、大いなる救い主と一対一で向き合っていて、その救いとは数ある救いの中の一つに過ぎないのではなく、掛け替えのない代替不可能なものである、ということでもあると思います。

そしてその救いの中に在る自分は、固定したものではなく、そこで出逢う様々な出来事によって日々形成され続けています。そのことは同時に、自分の言葉や行いが他の誰かへの出来事となり、自分にかけられた救いが他者へと普及してゆくことでもあります。

日々迷いながら、あがきながら生きていることが、知らず知らずと誰かへの救いの媒介となっているということ。
「御手の真中なる」とはそのように、自分が救いの中に在るというだけでなく、自分も人々を救う大いなる手の一部であるということでもある、でもそこには己の罪の自覚が重要であると、私はそんなふうに思うのです。

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