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宗教や信仰についての雑記 #54

◯個人の責任

前回の終わりに、個人の責任について書きました。
認知バイアスや向社会性が責任逃れの言い訳になってはいけないでしょう。
でも、責任を問うことには慎重さが必要かと思います。

航空機や鉄道、船舶などの交通機関の事故調査では、責任追及と原因究明とを切り離して行うことが通例となっているそうです。
それは、責任追及と原因究明とを一緒に行うと、必要な情報が隠されてしまうということがあるのですが、それと同時に、原因が究明されなければ責任の所在もわからないはずだからでしょう。
原因究明が不十分のまま責任を追及すると、理不尽な処分を招いてしまうおそれがあります。
ですから、何か問題やトラブルがあるとすぐに感情的に反応して悪者探しを始めることには、そのような危険性があると思います。

人は集団をつくると、その外部の人間を、愚かな者、劣った者、ときには「悪」とみなしてしまう傾向があるように感じます。
特に宗教団体にはその傾向が強いような気がします。なぜなら宗教とは「絶対的なもの」を信じ、崇拝することでもあるからです。絶対的なものを信じるが故に、独善に陥りやすいように思えるのです。

私は「優」や「劣」、「善」や「悪」といったものが不変な実体として存在するとは考えていません。ですから、人間がそのような実体としての本性を持っているとも思いません。
善や悪は、様々な要因が織りなされた結果として現れるのであり、それらの要因から全く独立した実体や本性としては存在していません。

現実の社会の中では、人はそれぞれの責任を負わなければなりません。しかし、ある個人について責任の有無を問うこととは、その人の本性の善悪を問うことでは決してありません。
本性の善悪を問う姿勢には、問題の真相を見逃してしまう危険性があります。

人は集団の心理に飲み込まれると、そのことを忘れがちになります。それを放置すれば、我々はとるべき道を、ひいては迎えるべき未来を、見失ってしまうと、私はそう思うのです。

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