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宗教や信仰についての雑記 #58

◯目的と手段

政治と金の問題が取り沙汰されて久しいですが、そこには選挙に多額のお金がかかるということがあるのでしょう。
しかし、選挙とは民意を政治に反映するための手段のはずなのに、実際には選挙に勝つこと自体が目的になってしまっているようにも見えます。

このように手段が目的化するということはよくあるようで、宗教にもそのようなことがあるように思います。

ごく大雑把に言って、一神教ではまず神様がいて、我々はその神様に造られたもので、その生は神様の大いなる意志や計画を実現するための手段であるとみなされているようです。
でも見方を変えるとそれは、我々の人生や苦悩を意味づけるための理屈であり、神様とはそのための手段だと見ることもできます。
しかし、そんな捉え方をすると神様が相対化されてしまい、そうなると我々の生の意味もあやふやなものになってしまうので、神様を信じる人はそんな見方は絶対に受け入れられないでしょう。

一方仏教は、苦悩の滅尽がその目的であり、お釈迦様教えはそのための手段とされています。ですから空や無我や縁起の教えは煩悩を滅するための手段であり、煩悩を滅することは執着による苦しみを滅するための手段ということになります。
ですが実際には、お釈迦様や各宗派の宗祖が神格化されて、その教えそのものが目的になってしまっているようにも見えるときがあります。
ただそこには、お釈迦様の説いた空や無我や縁起の教えがあまりにも難しく、我々一般人にはとても理解や習得ができないということがあるのかもしれません。

何か超越的なものに帰依するということは、それにより自分という存在の役割や意義が定まり、自分の居場所が見つかるということなのかもしれません。
それは、ある意味自分が超越的なものの手段であることが、その本人にとっては生きてゆく目的にもなっていて、そのことが心に平安をもたらしているように思えます。

こと宗教や信仰といったことに関しては、手段と目的ははっきりとは区別できるものではないような気がします。

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