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東海林直人のゴロネコ日本史(1)    ~ゴロネコ日本史300改訂版🐱‍💻~

・「ゴロネコ」は「ゴロで年号と事項も暗記する」の意です。
・『ゴロネコ日本史300』(初版)のはしがき:
今からもうかなり昔、記者生活に嫌気がさし、3年働いた新聞社を退社しました。それから大学に入り直して教員免許を取りました。年齢は年齢なので、教員採用試験は必ず合格しなければなりません。そのため、教科書の細部まで暗記することにしました。年代はいつでもゴロで覚えるのが一番良いと思います。そこで当時市販されていたその種の本を数冊買ってきて、暗記を始めました。しかし、無理につじつま合わせをするとか、自己中心的な考えが気に入らなくて、満足できませんでした。思えば、子どもの頃から電話番号などをゴロで覚えるのが得意だったので、最終的に自作することにしました。作ってみると、まあまあのものができました。幸いにも歴史の教師になれました。その後、頼まれたり、苦労している受験生を見るたびに、自作のゴロ句集を提供してきました。これが意外にも好評で、「おかげで合格できた」と言ってくれた生徒が毎年数人いました。出版を進める人もいて、本にすることを考えるようになりました。公表するとなると、友人や家族で見せるレベルではいけません。そのため、300句を絞り込み、一句一句を徹底的に検討し、まあまあ恥ずかしくないレベルになるようにしました。これには数年かかりました。ここに三省堂から出版することになりました。この本は「ゴロネコ」という名前で、ゴロ年号項目の表現です。


057 倭奴国王、光武帝より印綬(いんじゅ)を受ける A01

[ゴロ] 印綬(いんじゅ)は/黄金(おうごん)なんだと/光武帝(こうぶてい)
[句意] 光武帝が使者にこの金印は、まがい物ではなく純金なんだと、強調している句。
[解説] この年、倭奴(わのな)国王が後漢に遣使。光武帝より印綬を下賜されたと『後漢書東夷伝(ごかんじょとういでん)』に記述がある。

107 倭国王帥升、生口160人を献上 C01

[ゴロ] 異例(いれい)生口(せいこう)/帥升(すいしょう)さん
[句意] 現代の常識から見れば生口が異常に見えるところから作った句。
[解説] この年、倭国王帥升が生口(:奴隷か)を献上したと『後漢書東夷伝』に記述がある。

239 邪馬台国女王卑弥呼、三国時代の魏に遣使 A02

[ゴロ] (ふみ)れ卑弥呼(ひみこ)/魏志(ぎし)のため
[句意] 魏志倭人伝の記事を書くため、文つまり手紙で情報を知らせてほしい、という句。
[解説] この年、卑弥呼が魏に朝貢し、「親魏倭王」の称号を与えられたと『魏志倭人伝』に記述がある。

391 好太王の功業碑文(倭軍の朝鮮進出)A03

[ゴロ] 讃句いっぱい/好太王(こうたいおう)
[句意] 碑文の日本側の解釈では、この年倭国の軍が渡海し百残(百済)や新羅と交戦したことになる。「くだら」「しらぎ」の読みは日本のもの。
[解説] 碑文には好太王の功績を讃える言葉がいっぱいだ、という句。

478 倭王武、南朝の宋に上表文を送る A04

[ゴロ] 物騒(=武・宋)な/(しな)上表(じょうひょう)/送ります
[句意] おそらく上表文に添えて危険物の剣などを送ったかも、と考えて作った句。
[解説] この年、倭の五王のうち武(:雄略天皇か)が朝鮮半島の政治的優位を目ざして朝貢し上表文を送った。

512 大伴金村、加羅(から)四県を百済に割譲 C02

[ゴロ] けったい(=継体天皇)な/(こ)いに譲った/四県を
[句意] 継体天皇のとき金村は、「けったいな」つまり百済側からの「奇妙な」要請で、4県を割譲した、という句。
[解説] この年、大伴金村は反対を押しきって、百済の要請に応じ加羅(伽耶・任那)の四県を割譲した。

527 筑紫国造磐井(いわい)の乱 C03

[ゴロ] 後に何(なん)と/あらあら(=麁鹿火)新羅(しらぎ)/磐井(いわい)の乱
[句意]  鎮圧者の物部麁鹿火(もののべのあらかい)と、磐井の背後にいたとされる新羅とを組み込んだ句。
[解説] この年、筑紫国造磐井(つくしのくにのみやつこ)が反乱をおこし、朝廷の新羅征討軍を阻止したが、物部麁鹿火(もののべのあらかい)により鎮圧された。

538 百済より仏教公伝(戊午説)A05

[ゴロ] ほっとけほっとけ(=仏)/ごみやから
[句意] そのごみは放っといて、放っといて(大阪弁で)、というナンセンスの句。
[解説] この年(欽明天皇の戊午(ぼご)年)、百済の聖明王が仏像・経典を伝えたと『上宮聖徳法王帝説(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ)』『元興寺縁起(がんこうじえんぎ)」の両者に記述がある。

562 新羅により加羅(任那)滅亡 B01

[ゴロ] 知んら(=新羅)ない/ごろつきたちが/加羅(から)を消し
[句意] 倭国の立場から憤まんをこめて敵をごろつき呼ばわりした句。
[解説] この年、新羅により加羅が滅亡、倭国の朝鮮半島経営という野望に終止符が打たれた。ただし、倭国の半島経営については否定説を含めて疑問が多い。

593 推古天皇即位 A06

[ゴロ] 推古さん/国民のため/厩(うまや)(=厩戸皇子)の馬(=蘇我馬子)に乗れ
[句意]  「国民のためです。厩戸皇子と蘇我馬子の二頭に乗っかってぜひ天皇になって下さい」と、皇女(=のちの推古天皇)に即位を望んでいる句。
[解説] 厩戸皇子については存在をはじめ不明なことが多い。少なくとも推古朝の治績は当時の実力者蘇我馬子との双頭政治であった。

603 冠位十二階を制定 C04

[ゴロ] 六をさらに重ねて/十二階
[句意] ナンセンスの句で、「6」を「ロ」以外に数字として用いて「ロク」と読む例外。690年とまちがえないでください。
[解説] この年、蘇我馬子と厩戸皇子が冠位十二階を制定。これまでの姓(かばね)と異なり、個人の能力や功績に応じて位を授け人材を登用しようとした。

604 憲法十七条を制定 C05

[ゴロ] 太子でも/無理強い(むりじい)出来ぬ/十七条
[句意] 太子でも実力者蘇我氏をさしおいて、十七条は無理強いできない、という句。
[解説] 十七条憲法は、厩戸皇子(聖徳太子)が、仏教や儒教・法家などの中国の思想にもとづいて、天皇を中心とした官人の守るべき道徳的訓戒を定めたものとされる。後世の創作という説がある。

607 遣隋使はじまる B02

[ゴロ] 無礼な妹子(いもこ)の/遣隋使
[句意] 無礼な国書をもっていった妹子の遣隋使だった、という句
[解説] 朝廷は遣隋使として小野妹子(おののいもこ)を派遣。隋の煬帝(ようだい)は国書の無礼な内容に怒りながらも高句麗との対立を考慮して、翌年身分の低い裴世清(はいせいせい)を答礼使として送ってきた。

630 遣唐使のはじまり B03

[ゴロ] 櫓(ろ)・竿(さお)で渡る/遣唐使
[句意]  櫓すなわち竿のようなオールをこいで遣唐使は海を渡ったという句。櫓は和船を漕ぐ樫の木で作った竿。838年遣唐使船で唐に渡った円仁の『入唐求法巡礼行記(にっとうぐほうじゅんれいこうき)』に「艪(櫓)をうごかしてゆく」とある。
[解説] 遣唐使は危険な航海であったが、すぐれた唐文化輸入のためにつづけられた。唐からは朝貢国として扱われた日本が、新羅・渤海を従属国として遇したので、新羅とはしばしば紛争がおこった。

645 乙巳の変(蘇我氏滅亡)A07

[ゴロ] 無事故説あり/改新劇
[句意] 単なる蘇我氏打倒のクーデター事件はあったとしても、「改新の詔」に書かれているような周到な準備の下での改新劇は疑わしいという点から作った句。
[解説] この年、蘇我入鹿(そがのいるか)打倒のクーデターがおこる。これが乙巳(いっし)の変で、ここから一連の政治改革がスタートした。

663 白村江の敗戦 A08

[ゴロ] 無論さんざん/白村江(はくそんこう)
[句意] 文字通り白村江で惨敗したことを表した句。
[解説] この年、朝廷は百済救援軍を朝鮮半島に送り、白村江で唐・新羅連合軍に大敗した。

670 庚午年籍なる B04

[ゴロ] 無なり無戸籍/乞(こ)うご(=庚午)期待
[句意] 戸籍が作られ、これからは無戸籍の人がいなくなる、どうかご期待ください、という句。
[解説] 庚午年籍(こうごねんじゃく)は670(庚午)の年に作られた全国的な戸籍。一片も現存しないが後世の史料により、ほぼ全国のものであることが推定されている。

672 壬申の乱おこる A09

[ゴロ]  自信(=壬申の乱)を(むな)/大海人王(おおあまおう)
[句意]  天武天皇が自信一杯の乱を企てた、という句。「胸突き八丁(むなつきはっちょう)」と同じく「胸」は(むな)と読んでください。
[解説] 天智天皇の死後に、皇位継承の戦争、壬申の乱がおこった。大海人皇子が大友皇子を破り、乱後天武天皇として即位した。乱は天武天皇元年(672年)の夏すなわち6月23日~7月23日の間におこった。名の由来はこの年が干支で壬申年だったから。

684 八色の姓制定 C06

[ゴロ] ムッ色の/カバ(=姓)を見た
[句意] ムム! 七色(なないろ)ならぬ八色のカバを見た、というナンセンスの句。
[解説] この年、天武天皇は八色の姓を制定し、身分秩序を再編成した。皇族を頂点とした身分制度に、豪族を編成しなおした。

701 大宝律令制定 A10

[ゴロ] 何令(なんれい)あるか/大宝令(りょう)
[句意] 果たして全部で何条あるかという疑問を発した句。「律令」というべきところをリズムのため「令」一語にした。
[解説] 文武天皇のこの年、刑部(おさかべ)親王・藤原不比等(ふひと)らの編集による大宝律令が完成した。

708 和同開珎(わどうかいほう)をつくる C07

[ゴロ] なお流行(はや)らない/銅銭は
[句意] まだ貨幣経済の時期が熟していていないので、銅銭は流通しない、という句。
[解説] 和同開珎は唐にならって鋳造した初期の貨幣だが、広く流通しなかった。これより乾元大宝(けんげんたいほう)まで12種を数える皇朝十二銭(こうちょうじゅうにせん)がつくられた。

710 平城京なる A11

[ゴロ] 何と(=南都)フレッシュ/平城京
[句意] 人びとが清新な都に驚いている句。
[解説] 「何と」に「南都=平城京」にかけてまとめた句。

711 蓄銭叙位令を発す C08

[ゴロ] セブンイレブン/いい叙位令
[句意]  「セブン・イレブンいい気分」という有名な広告コピーのもじり。「7」「11」をそれぞれそのまま「セブン」「イレブン」と読むブログ唯一の例外。721と誤らないこと。
[解説] 朝廷が蓄銭叙位令という法令を発して貨幣の流通を奨励したが、効果はあまり上がらなかった。当時は米や布などによる取引が中心だった。

712 太安万侶、『古事記』を撰上 B05

[ゴロ] ヒェーだ(=稗田阿礼)!/ナイフは/乞食王のやろ(=古事記・太安万侶)
[句意] ただただ3語句とナイフを結びつけたかったので、このような句に。
[解説] この年『古事記』がなる。天武天皇の命で稗田阿礼(ひえだのあれ)が『帝紀』『旧辞』を暗誦していたものを、元明天皇のもとで太安万侶(おおのやすまろ)が筆録して完成。

713 『風土記』の編纂をはじめる D01

[ゴロ] 風土記に/不届き(ふとどき)は/無いさ
[句意] 風土記には不届きな記述は無い、というナンセンス・駄じゃれの句。
[解説] このとき、国々の地名の由来、地勢・産物・伝説などを記し朝廷に差し出された記録。出雲・常陸・播磨・豊後・肥前の5国の風土記のみ現存。

718 養老律令の制定 C09

[ゴロ] ないや大差が/養老令(ようろうりょう)
[句意] 大宝律令と大差がない、という句。リズムのため「養老令」とした。
[解説] この年、養老律令が藤原不比等らによって制定された。大宝律令を改訂したものだが、内容で大きな違いはなかったと推定される。

720 舎人親王ら『日本書紀』を撰上 B06

[ゴロ] 「何を?」と練り(=舎人親王)ます/日本書紀
[句意] 何を入れ何を捨てるか、と推敲(すいこう)する様を表現した句。
[解説] 日本書紀は、舎人(とねり)親王が編纂(へんさん)した、神代(しんだい)から持統天皇までの官撰正史で、元正(げんしょう)天皇に献上。

723 三世一身法制定 A12

[ゴロ] 何が三世(さんぜ)だ/一身法
[句意] 三世については「本人・子・孫」と「子・孫・曽孫」の二説があり、どちらが正しいのか迷っている句。
[解説] 新たに灌漑設備をつくって開墾した者には、三世に至るまで私有を認める。また既成の灌漑施設を使って開墾した者には、その一代限りの私有を認める、というもの。

727 渤海使の来貢 C10

[ゴロ] 名不慣れな/国の渤海使
[句意]  耳慣れない名の国から使いがやってきた、という句。「渤海(ぼっかい)」というどこか日本語には異質な国名にちなんだ。
[解説] この年、渤海が国使を送ってきた。その後もつぎつぎと来貢し、日本に毛皮・薬用人参のほか大陸の文化がもたらされた。927年遼に滅ぼされた。

729 長屋王の変おこる B07

[ゴロ] 何食(なにく)わぬ/ワナにはまった/長屋王
[句意] 何食わぬ顔をした藤原四子(四兄弟)の罠にはまって謀反人にされた、という句。
[解説] 長屋王の変は、皇族勢力の中心の左大臣長屋王が、藤原四子によって謀叛の濡れ衣を着せられ、自殺に追い込まれた事件。

740 藤原広嗣の乱おこる B08

[ゴロ] もろ(=諸兄)に(なじ)と/広嗣乱(ひろつぐらん)
[句意] 橘諸兄(たちばなのもろえ)政権の専横をまともに詰れとして、藤原広嗣が反乱をおこした、という句。
[解説] 藤原四子の死後、藤原広嗣が橘諸兄政権の下で権勢をふるう玄昉・吉備真備を除こうとして大宰府で挙兵し敗死した事件。

741 国分寺・国分尼寺(こくぶんにじ)建立の詔でる B09

[ゴロ] 名よい国分/国分尼寺(こくぶにじ)
[句意]  リズムのため「コクブニジ」と読んでほしい。「国分」とは各国のためという意味。全部で国の鎮護を願うということになるので良い名に違いない。
[解説] 悪疫の流行、政治不安を仏教の力で鎮(しず)めようとして聖武天皇が国ごとに僧寺・尼寺を建てさせたもので、玄昉(げんぼう)の献策と思われる。

743 墾田永世私財法制定 A13

[ゴロ] 馴染み(なじみ)の墾田 俺のもの
[句意] 開墾を通じて慣れ親しんだ土地が自分のものになる、という句
[解説] 三世一身法を出したが、田畑の荒廃・口分田不足は解消せず。このため政府は墾田永世私財法で、位階別の許可面積、申請後3年以内の開墾開始を条件に、永久の私有を認めた。

743 盧舎那(るしゃな)大仏造立の詔でる B10

[ゴロ]  まんまるで/なじみの顔の/大仏さん
[句意]  飛鳥大仏のように外国人風ではない、日本人に馴染みやすいまるく柔和な顔立ちだ、という句。
[解説] 聖武天皇が近江の紫香楽(しがらき)で大仏造立をはじめたが、平城京遷都によって、造立の地を現東大寺の地に移して事業をすすめた。鎮護国家の仏教を完成させようとしたもの。

752 奈良大仏の開眼(かいげん)供養 C11


[ゴロ]  (なご)うニコニコ/大仏さん
[句意] 末永く民衆をニコニコ見守って下さい、大仏さん、という句。
[解説] この年、行基が造営に尽力した慮舎那大仏が東大寺の本尊として完成し、盛大な開眼供善が営まれた。

753 鑑真来朝す D02

[ゴロ] 見えずとも/(なご)が見える/鑑真(がんじん)さん
[句意] 目が見えなくとも、お顔に和み(なごみ)が見え人びとを癒(い)やす鑑真さんだ、という句。なお「来朝」は外国人が日本にやってくること。
[解説] 唐僧鑑真は、日本の僧、普照(ふしょう)と栄叡(ようえい)の要請で、日本に渡った。

757 橘奈良麻呂の変 C12

[ゴロ] (なご)うなった/立ち話(=橘氏)
[句意] 立ち話が長くなってしまいました、ゴメンナサイというナンセンスの句。
[解説] 橘奈良麻呂は父諸兄(もろえ)の権勢によって出世した。しかし台頭してきた藤原仲麻呂を除こうとして反乱をくわだてたが、事前に計画が漏れ、獄死した。

794 平安京遷都 A14

[ゴロ] 泣くよ/感無(=桓武天皇)量(かんむりょ)/平安京
[句意] やっと遷都がなり桓武天皇は感無量でうれし涙をもらした、という句。
[解説] 平安京は、造営中に不幸が重なった長岡京を放棄して、同じ山背国に建設遷都したもの。

810 蔵人所をおく A15

[ゴロ] やっと苦労が/蔵人に
[句意] やっと機密が蔵人所(くろうどどころ)に守られることになり、今までの苦労が結実した、という句。
[解説] 蔵人所は嵯峨天皇のとき、宮中の秘密保持のためにおかれた令外官(りょうげのかん)。天皇の側近にあって詔勅の伝達や訴訟を太政官に取り次いだ。

810 薬子の変(平城太上天皇の変)おこる B11


[ゴロ] 反都(はんと)平城(へいぜい)/薬子(くすこ)式(=式家)
[句意] 反都としての平城京還都をはかるのが薬子式、つまりやりかただ、という句。
[解説] 平城(へいぜい)上皇は病気を理由に、弟嵯峨天皇に譲位して引退した。しかし式家の藤原仲成と妹の薬子を用い、復位と平城還都を狙いおこした事件。

820 弘仁格式なる C13

[ゴロ] 三代(さんだい)の/初お目見(めみ)えは/弘仁だ
[句意] 三代格式のうち、初お目見え、すなわち初登場は弘仁格式(こうにんきゃくしき)だ、という句。
[解説] 嵯峨天皇のとき弘仁格式をつくり、律令を修正・補足してきた格と式の分類整理をはかった。のち貞観格式・延喜格式とあわせて三代格式とよばれた。

822 日本霊異記が成立 D03

[ゴロ] 番人二人で/領域(=日本霊異記)警戒(=景戒)
[句意] 番人二人で領域を警戒しよう、という句。
[解説] 『日本霊異記にほんりょういき)』は景戒(けいかい)著の仏教説話集。最古の物語『竹取物語』より古いことに注意してください。

838 最後の遣唐使 D04

[ゴロ] 闇や!と/覚悟の遣唐使
[句意] 闇のような困難な航海を覚悟して遣唐使は行くんだ、という句。
[解説] 二度の渡航失敗、遣唐副使の小野篁(おののたかむら)の渡航拒否があったが強行。この船で円仁が渡航した(847年に帰国、その日記が『入唐求法巡礼行記』)。

842 承和の変おこる B12

[ゴロ] 情は(=承和)なし/恥にならぬか/藤原氏
[句意] 藤原良房がこのような陰謀をめぐらすとは、情のない恥ずかしい行為だ、という句。
[解説] 承和(じょうわ)の変は北家の藤原良房が、古くからの有力貴族の伴健岑や橘逸勢(たちばなのはやなり)らを謀叛の疑いで陥れた事件。

858 藤原良房、摂政の実をおこなう B13

[ゴロ] 天皇の/反抗外(はず)せ/摂政で
[句意] 摂政として実権を握り、天皇から藤原氏に反抗する機会を奪え、という句。
[解説] この年、幼少の清和天皇が即位すると、藤原良房は外祖父として政務を代行し、摂政の実を行った。

866 応天門の変おこる B14

[ゴロ] (ばん)!ムム伴(とも)で/合うてるもん(=応天門)
[句意] 「ばん」ではなく「とも」で合ってるよ、というナンセンスの句。
[解説] 応天門の放火事件を大納言の伴善男(とものよしお)は左大臣源信(みなもとのまこと)の仕業と訴えた。これに対し藤原良房は伴善男こそ真犯人と断じ、古くからの名門伴(大伴)・紀氏を失脚させた事件。

887 藤原基経、関白の詔をうける C14

[ゴロ] パパもなりたい/亭主関白
[句意] 恐妻家のパパが、わたしも亭主関白になりたい、嘆いているナンセンスの句。
[解説] 藤原基経は光孝天皇の事実上の関白となっていたが、宇多天皇即位のとき、正式に関白に就任した。

894 遣唐使の廃止 A16

[ゴロ] パンクしちゃった/遣唐使
[句意] 菅原道真の建言で遣唐使がパンク、つまりお終いになった、という句。
[解説] 遣唐大使に任命された菅原道真が唐の安史の乱による混乱、新羅海賊による航海の困難を理由に遣唐使の廃止を建言。唐や新羅の商人が頻繁に来航するようになったことも一因。

901 菅原道真の左遷 C15

[ゴロ] グレイの左遷/道真公
[句意] 冤罪(えんざい)をグレイ、と表現した句。「グレーな」(907)としないこと。
[解説] 菅原道真は、宇多・醍醐両天皇によって重く用いられていたが、この年藤原時平の策謀により大宰府に左遷された。これにより藤原氏の地位は強固になった。

902 延喜の荘園整理令でる A17

[ゴロ] クリーンに/縁切り整理令
[句意] 荘園から貴族たちをクリーンに、すなわちスッパリ縁切りさせる整理令だ、という句。
[解説] 藤原時平は、班田の励行(れいこう)をはかる一方、貴族たちの土地集積行為を停止する目的で延久の荘園整理令を発布。これより新立荘園は停止される。国司任せの面があり、不徹底に終わる。

905 古今和歌集なる C16

[ゴロ] 句を高雅に/古今集
[句意] 古今集の句を高雅なものにまとめよう、という句。
[解説] 紀貫之らが『万葉集』以降の約1100首を、醍醐天皇の命で編纂した。これは初の勅撰和歌集である。

935 平将門の乱(天慶の乱(てんぎょうのらん))はじまる(~940) B15

[ゴロ] 腐った国府に/将門乱(まさかどらん)
[句意] 地方政治を腐敗させている国府に対して、将門が反乱をおこした、という句。
[解説] この年の桓武平氏の一族内部争いが、やがて一族をこえて広がった。平将門は朝廷に背き、自ら新皇(しんのう)と称し、一時関東は独立の形勢を見せたが、平貞盛と藤原秀郷に平定された。

935 紀貫之が『土佐日記』を著した D05

[ゴロ] クミコも読んでる/土佐日記
[句意] クミコも土佐日記を読んでる、という文字通りの句。
[解説] おそらく日本最古の日記文学。紀貫之(きのつらゆき)が、赴任先の土佐から京へと戻る最中の出来事をユーモアを交えて書いている。

969 安和の変おこる B16

[ゴロ] 黒く明(=源高明)らか/安和(あんな)の変
[句意] 藤原氏北家が黒幕で、腹黒い彼らが仕組んだ冤罪事件であることは明らかだ、という句。
[解説] 醍醐天皇の子の左大臣源高明(たかあきら)の権勢をおそれた藤原氏は、この年安和の変で彼を陥れ左遷した。これで最後の有力公卿が除かれ、藤原北家が摂政・関白を独占するようになった。

977 『蜻蛉日記』なる D06

[ゴロ] 苦難な/陰浪(かげろう)日記(=蜻蛉日記)             
[句意] 苦難な陰浪人の日記だ、という句。
[解説] 陰浪人は志望校に落ち大学生になったが諦め切れず来春の受験をめざす人。「仮面浪人」ともいう。

983 奝然(ちょうねん)が入宋する D07

[ゴロ] 腸捻(=奝然)転を/(く)やみます
[句意] 普通はだれでも腸捻転にかかったことを悔やみます、というナンセンスの句。
[解説] 奝然(ちょうねん)は983年に宋の商船に乗り入宋(にっそう)し、皇帝太宗に謁し、五台山を巡礼の後、987年に帰国して大蔵経や釈迦如来像(現清涼寺本尊)を請来した。つづいて成尋(じょうじん)・重源(ちょうげん)・栄西らも入宋修行した。

988  尾張国郡司百姓等(ぐんじひゃくせいら)の解文(げぶみ) B17

[ゴロ] 百姓ら/窮場(きゅうば)/訴状(そじょう)で終わりにし
[句意] 窮場すなわち窮状は、訴状を出すことで終わりにするんだ、という句。言外に、訴状を朝廷は取り上げるだろう、という期待がある。
[解説] この年、尾張国の領民が国司藤原元命の31カ条にわたる暴政を訴えた。翌年元命は解任された。

1019 刀伊の入寇 B18

[ゴロ] 遠い国から/高い絵入庫(=隆家・入寇)
[句意] 遠い国から購入した高い絵が、今日倉庫に収められた、というナンセンスの句。
[解説] 沿海州地方の刀伊(とい)(女真族)が対馬・壱岐、さらに北九州に来襲した事件。大宰権帥藤原隆家(たかいえ)や地方官の奮戦で撃退できた。

1031 平忠常の乱おわる(1028~) B19

[ゴロ] ただ常(=忠常)ならぬ/天災
[句意] 房総でおきた平忠常の乱は、朝廷にとって天災のようなものだ、という句。
[解説] 房総に大きな勢力をもっていた平忠常(たいらのただつね)が、安房の国司を殺し、さらに上総・下総を支配下においた。3年を経てこの年、源頼信(みなもとのよりのぶ)が鎮圧した。

1051 前九年の役はじまる B20

[ゴロ] 源氏さん/どっこい進出/前九年
[句意] これを機に源氏の東国進出がなった、という句。
[解説] この年、陸奥の豪族安倍氏が反乱をおこした。源頼義(よりよし)・義家(よしいえ)父子は、東国の武士をひきいてこれを平定した。これを前九年の役という。

1052 末法元年に入る C17

[ゴロ] 像法の/千後にきたる/末法年
[句意] 千年間の像法(ぞうほう)のあとに末法1年に入るとされるので作った句。
[解説] 末法思想とは釈迦(しゃか)の死後の時代を正(しょう)・像・末(まつ)の3期に分けて、末法(まっぽう)には仏教が滅びるとする仏教の歴史観。日本ではこの年から末法に入るとされた。

1059 『更級日記』なる D08

[ゴロ] 東国の女(むすめ)が/更紙(ざらし)な日記
[句意] 東国のむすめが、更紙を使って日記を書いたよ、という句。
[解説] 更級(さらしな)日記は、菅原孝標(すがわらのたかすえ)の娘が著した自伝的日記文学。13歳で父の任地上総より帰京するところから始まり、以後40年間を記す。

1069  延久の荘園整理令 A18

[ゴロ] 登録書類で/整理令
[句意] 荘園を、その登録書類で審査して整理する法令だ、という句。
[解説] 後三条天皇は、延久(えんきゅう)の荘園整理令を出し中央に記録荘園券契所(記録所)を設けて、荘園領主に領有の証拠書類を提出させて、審査し、基準にあわない荘園を停止した。

1083 後三年の役はじまる B21

[ゴロ] 入れ歯避けても 後(あと)三年
[句意] 三年後にはやはり入れ歯にせざるを得ない、というナンセンスの句。
[解説] この年、安倍氏に代わり陸奥・出羽を支配した清原氏に内紛がおこった。源義家がこれに介入し、清原氏一族の藤原清衡(きよひら)を勝利させた。この後三年の役の結果、源氏の東国支配は確固としたものになった。

1086 白河上皇により院政はじまる A19

[ゴロ] 天皇(ひま)やろ/院政で
[句意] 院に政務を奪われ、天皇はさぞ暇になっただろう、という句。
[解説] 上皇(院)は天皇に比して格段に自由な地位。院政では天皇の実父という立場から天皇や太政官を指図する。一方、院庁から院宣(いんぜん)や院庁下文(いんのちょうくだしふみ)などを発して政務をとった。

1156 保元の乱おこる A20

[ゴロ] いい頃夜襲の/保元の乱
[句意] 後白河天皇は源義朝(よしとも)の進言により、いい頃すなわち虚を突く夜討ちによって勝利を得たので。
[解説] 崇徳(すとく)上皇と後白河天皇の権力争いに、摂関家の藤原一族間の対立が絡んだ。両陣営ともに源平2氏の武士を動員して武力衝突をおこした。これを保元(ほうげん)の乱という。

1159 平治の乱おこる B22

[ゴロ] 日々濃く/良し友(=源義朝)信頼(=藤原信頼)/平治の乱
[句意] 日々良い友達として信頼し、ついに組んで平治の乱をおこした、という句。反乱挙兵して敗れた側の二人を組み込んだ。
[解説] 保元の乱後、後白河天皇のもとで、信西(藤原通憲)が実権を握りめざましい活躍をするが、藤原信頼(のぶより)と対立する。これに平清盛と源義朝の対立がからんだ。この年、信頼・義朝が挙兵した(平治の乱)が敗北した。

1167 平清盛の太政大臣就任 A21

[ゴロ] 清盛は/いい胸毛だじょ~大臣(=太政大臣)
[句意] 清盛は良い胸毛だ、という句の末尾に勢いで「だじょう大臣」をつけた。
[解説] 平治の乱に勝利した平清盛は太政(だいじょう)大臣なり、一族も高位高官にのぼり平氏政権が成立した。

1177 鹿ヶ谷事件おこる D09

[ゴロ] 平家討つ瞬間(=俊寛)が/日々難なりちか(=藤原成親)
[句意] 平家を討つ瞬間が日々難になる、という句の末尾に勢いで「ちか」をつけたもの。
[解説] 藤原成親・西光(藤原師光)兄弟など後白河法皇の近臣が、京都東山の鹿ヶ谷(ししがたに))の俊寛の山荘で平氏打倒の密議をひらいた。源(多田)行綱の密告で発覚し関係者は処罰された。

1180 源頼政、以仁王を奉じて挙兵 B23

[ゴロ] より優(=頼政)る/いい晴れ信じた/以仁王
[句意] 皇位の望みを絶たれた王は、自分の将来が晴れることを信じ挙兵した、という句。
[解説] 後白河上皇の皇子以仁王は平氏追討の令旨を出し、みずから源頼政の支援をうけて挙兵したが、宇治平等院で敗死した。

1185 壇ノ浦の戦い(平氏滅亡)おこる(3月) B24

[ゴロ] ひどいやゴミが/壇の裏(=壇ノ浦)
[句意] ふだん掃除をしていない教壇の裏はゴミだらけ、というナンセンスの句。
[解説] 長門の壇ノ浦で、源平両水軍の海戦がが行われ、平氏が敗北し滅亡した。

1185 諸国に守護・地頭をおく(鎌倉政権の成立)(11月)A22

[ゴロ] 日々蛮行/守護地頭 
[句意] 泣く子と地頭には勝てないという譬えを句にした)
[解説] 源頼朝は後白河法皇が義経に、頼朝追討の院宣を出したことを責め、院からまんまと守護・地頭の設置許可を得た。

1192 源頼朝、征夷大将軍になる B25

[ゴロ] いい国作ろう/誠意(=征夷大将軍)込め
[句意] 誠意をこめて国づくりをしよう、という句。「征夷」のゴロを組み込んだ。
[解説] 後白河法皇の没後、朝廷内で親頼朝の九条兼実(くじょうかねざね)らの発言権が増し、希望してきた征夷大将軍への任命をかちえたもの。

1203 北条時政、二代将軍頼家を幽閉す(執権政治のはじめ)C18

[ゴロ] 時まさ(=時政)に いつおさらば 頼家は
[句意] 頼家をいつ抑えて幽閉するの?、という句。
[解説] 北条時政は政所の別当に就任する一方、頼家の妻の実家で有力御家人の比企氏を滅ぼした。この年、伊豆修善寺の修禅寺で頼家を幽閉して、弟の実朝を将軍につけた。

1213 和田義盛の乱(和田合戦)おこる C19

[ゴロ] 義盛は/日に日の猜疑で/和田合戦
[句意] 義時に滅ぼされるのではという猜疑に日々悩み、ついにたまりかねて挙兵した、という句。
[解説] この年北条義時は、幕府の軍事面を担当してきた和田義盛を倒した。侍所(軍事)の別当の職を獲得し、政所(政務)の別当を兼ねて、執権の地位を確立した。

1219 源実朝の暗殺(源氏直系の断絶)C20

[ゴロ] いつ逝(い)く三代/実朝は
[句意] 実朝がいつ殺されてもおかしくない、という懸念の句。
[解説] この年、3代将軍の実朝が頼家の子公暁によって暗殺され、源氏の直系の血筋が絶えた。これ以後摂家将軍、ついで皇族将軍が迎えられた。

1221 承久の乱おこる(5月)A23

[ゴロ] いつもツイ出る/ジョークの乱(=承久の乱)
[句意] いつもついジョークを連発する、というナンセンスの句の末尾に勢いで「乱」をつけた)
[解説] 親朝廷だった源実朝が暗殺された機をとらえ、後鳥羽上皇は北条義時追討を命じ挙兵(永久の乱)したが.敗北に終わる。この結果公武の力関係が逆転した。

1221 六波羅探題の設置(6月)C21

[ゴロ] 公家たちを/いつも追究/六波羅で
[句意] 公家政権をいつも追究・監視したよ、六波羅で、という句。
[解説] 鎌倉幕府は永久の乱後六波羅探題を設けて、北条時房と泰時をその任にあて、京都朝廷の監視、尾張以西(のち三河以西)の御家人の統轄
をさせた。

1225 北条泰時、評定衆をおく C22

[ゴロ] いつもニコニコ/表情衆(=評定衆)
[句意] いつもニコニコした表情の人びとだ、という句。
[解説] 北条泰時が執権に就任すると、その補佐役として連署を新設し、さらに有力な御家人を選んで評定衆とし、合議による政務と裁判を行わせた。

1232 貞永式目(関東御成敗式目)を制定 A24

[ゴロ] 公家以外/人の罪には/式目を
[句意] 朝廷方の人以外の争いには、この式目を通用して下さい、という句。
[解説] 北条泰時は、頼朝以来の先例や武家社会の「道理」にもとづいて、所領相続・訴訟などについて規定した、最初の武家法である貞永式日を制定した。はじめ公家以外に適用。やがて幕府権威の確立によりあらゆる人に頼られた結果、全国に適用された。

1247 宝治(ほうじ)合戦(三浦氏滅亡)おこる C23

[ゴロ] この時より(=北条時頼)/いつか死成ると/三浦氏放置(=宝治)
[句意] 時頼は陰謀をめぐらし、三浦氏を泳がせ放置、反乱を待ったことにちなんだ句。
[解説] 北条時頼はこの年、将軍位を退いた九条頼経をかついで執権打倒の動きをみせた有力御家人の三浦泰村を滅ぼした(宝治合戦)。これで北条氏の地位は不動のものとなり、専制の兆候も見えはじめた。

1249 北条時頼、引付衆を設置 C24

[ゴロ] 時により(=時頼)/人によくする引付衆
[句意] 時によって引付衆は人に親切にする、という句。
[解説] 北条時頼はこの年、引付衆をおき、御家人裁判の正確化と迅速化をはかった。

1274 文永の役(蒙古襲来のはじめ)おこる B26

[ゴロ] 文永は/悲痛なしだよ/日本に
[句意] 文永の役では、日本側に悲痛な被害はなかった、という句。
[解説] フビライの服属要求を、執権北条時宗は拒否。元は高麗軍をともない侵攻した(文永の役)。元軍は九州本土ではたった一日の戦闘後、暴風雨のため翌日には撤退し、被害は非常に少なかった。

1275 阿氐河(あてがわ)荘民訴状でる D10

[ゴロ] 私(あて)が(=阿氐河荘)/住人和(じゅうにんなご)ます/訴状だす 
[句意] 私が、報復を恐れる阿氐河荘の住民を和ます訴状を書いて出すよ、という句。
[解説] 阿氐河荘は紀伊国山間部の寂楽寺領の荘園。荘民はこの年、片仮名書きの13か条からなる、地頭湯浅宗親の非法を訴える訴状を領主寂楽寺に出したもの。

1281 弘安の役おこる B27

[ゴロ] 一、二敗(いちにはい)/フビライミスった/弘安も
[句意] 楽勝の筈が文永の役で一敗し、さらに二敗目を喫したのはフビライのミスだった、という句。
[解説] 南宋を滅ぼした元は、旧南宋の軍を合わせ、再び日本に来襲した(弘安の役)が今度も暴風雨のため撤退せざるを得なかった。

1282 十六夜日記なる D11

[ゴロ] 十二夜(じゅうにや)/十六夜(いざよい)とは!/あ~っブツブツ(=阿仏尼)
[句意] 十二夜に十六夜とは、と思わずブツブツ文句を言いたくなる、というナンセンスの句。
[解説] 阿仏尼は所領紛争の解決をもとめて、京都から鎌倉へ下った。その出立の事情と旅日記、鎌倉滞在記よりなる。

1285 霜月騒動おこる C25

[ゴロ] 騒動を/自由に運ぶ/御内人(みうちびと)
[句意] 御内人が幕政などを勝手気ままに動かしている、という句。
[解説] 一般御家人の信望を集めていた安達泰盛が、内管領の平頼綱によって滅ぼされた(霜月騒動)。

1297 永仁の徳政令でる A25

[ゴロ] 永仁の/皮肉な効果の/徳政令
[句意] 長期的には経済混乱を引き起こし、多くの人を苦しめる結果になったので。
[解説] 鎌倉幕府は困窮する御家人救済のため永仁の徳政令を出し、御家人が売却した土地を無償で返還することを命じ、それに関する訴訟を受理しないことを規定。しかし御家人は救えず、かえって社会は混乱した。

1321 後醍醐天皇の親政(院政廃止)B28

[ゴロ] 後醍醐が/秘密いけぬと/親政開始
[句意] 秘密はいけないので、天皇親政を開始する、という句。私的で、ある種秘密めいたところのある院政から公の機関による政治に戻したから。
[解説] 大覚寺続から即位した後醍醐天皇は院政を廃止し、記銀所を再興するなどして親政をめざした。

1331 元弘の変おこる B29

[ゴロ] 悪党が/勇み出(いで)たり/拳固(げんこ)(=元弘の変)でゴン
[句意] 悪党が勇んで参戦し、敵をげんこつでゴンとやった、という句。
[解説] 後醍醐天皇は、河内の悪党・楠木正成らの助力をえて、2度目の倒幕のための挙兵をくわだてたが捕えられ 翌年隠岐に流された。

1333 鎌倉幕府の滅亡 A26

[ゴロ] 悲惨みるみる/幕府燃え
[句意] 悲惨だ、みるみるうちに鎌倉幕府の建物が炎上していく、という句。
[解説] 足利高氏が六波羅探題を攻め落としたのに呼応して、新田義貞が鎌倉を攻めて北条氏一族を滅ぼした。

1334 建武の新政はじまる A27

[ゴロ] 新政を/勇みしくじる/後醍醐帝
[句意] 後醍醐天皇が性急に天皇親政体制を樹立しようとして、失敗した。
[解説] 後醍醐天皇は醍醐・村上天皇時代の天皇親政を理想に、記銀所を設置するなど建武の新政を開始したが、3年たらずで崩壊した。

1336 建武式目ができる(11月)C26

[ゴロ] 尊氏は/勇み朗読/式目を
[句意] 尊氏は式目の完成を祝い勇んで読む、という句。
[解説] 足利尊氏は建武式目を出し、幕府を京都に置くことを定め、政府方針を示した。

1336 後醍醐天皇吉野に移る(南北朝の動乱~92)(12月)B30

[ゴロ] 五大「合」(=五大学合格・後醍醐)で/いざ三浪/止しのやま(=吉野山)
[句意] 志望校の五大学に合格して、晴れて三浪はやめられる、というナンセンスの句。
[解説] 足利尊氏は京都を占領し、持明院統の光明天皇をたてた(北朝)。後醍醐天皇は吉野に逃れ、そこに朝廷を開いた(南朝)。

1338 足利尊氏は、征夷大将軍となり、室町幕府を開く B31

[ゴロ] 尊氏は/勇み励んで/大将軍
[句意] 尊氏は勇み励んだ結果、征夷大将軍になることができ幕府を開いた
[解説] 足利尊氏はこの年、北朝により征夷大将軍になり、京都に室町幕府を開いた。

1350 観応の擾乱(じょうらん)おこる(~51)C27

[ゴロ] 師直(もろなお)ら いざこれからが 新体制
[句意] いざこれからが、実力本位の時代だ、という句。
[解説] 急進派の中心が高師直だったから

1352 半済法でる A28

[ゴロ] 遺産互分(ごぶん)す/半済令
[句意] 「遺産」とは荘園と公領。その半分を国人に与える法令だから、互いに分け合うことに)
[解説] この年、足利尊氏は半済法を出し、守護が1年に限りその領国内の荘園・公領の年貢半分を兵粮米として徴収し、これを配下の国人層に配分する権限をあたえた。守護の領国支配が前進した。

1391 明徳の乱おこる C28

[ゴロ] 山梨(=山名氏)の/爺さんクイズで/迷トーク(=明徳)
[句意] 山梨の爺さんがクイズ番組で迷トーク、つまり珍回答を連発したというナンセンスの句。
[解説] 11か国の守護を兼ね六分一殿と呼ばれた山名氏、その一族氏清が、守護大名勢力の削減をねらう足利義満の挑発をうけて明徳の乱をおこし、滅ぼされた。

1392 南北朝合体 A29

[ゴロ] いざくっつけ 南北朝
[句意] 合体を動作として表現した句。
[解説] 足利義満はこの年、南北朝の合体を申し入れ、南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に譲位するという形で合体が実現した。

1399 応永の乱おこる C29

[ゴロ] 大家(おおうち)(=大内)の/遺産くんくん/追えの乱(=応永の乱)
[句意] 大きな家に住んでいる人の遺産をくんくん嗅ぎ回れ、と泥棒が言うナンセンスの句。
[解説] 足利義満が、6か国の守護を兼ねた大内義弘の勢力削減の機会をうかがい、対立を深めた。これにたまらず義弘が応永の乱で兵を挙げた。

1401 足利義満、明に遣使 B32

[ゴロ] 朝貢の/意思を一言(ひとこと)/明遣使
[句意] 朝貢貿易に応ずるという意思を伝えるため、明に遣使した、という句。
[解説] 明は中国中心の国際秩序回復のため、周辺国へ朝貢貿易をうながし、日本には倭寇の禁圧も求めてきた。義満は経済的利益と九州統治を有利に展開するため、この年国書を送り国交を開いた。

1404 勘合貿易(日明貿易)はじまる A30

[ゴロ] 意地をしまって/勘合船
[句意] 対等であるべきという意地をすて、朝貢という形式を受け入れて貿易を開始した、という句。
[解説] 明は中華思想にもとづき、日本に朝貢と倭寇の取り締まりを要求してきた。足利義満は貿易による経済的利益とともに、幕府の九州統治を有利に展開しようとして受け入れ、この年から、倭寇と区別するための勘合を用いた貿易がはじまった。

1428 正長の土一揆(徳政一揆)おこる A31

[ゴロ] 石には銘あり/正長一揆
[句意] 大和国柳生郷にある、徳政獲得記念の石碑に因んだ句。
[解説] 正長の土一揆は近江坂本の馬借の蜂起にはじまった一揆で、徳政令の発布を要求した最初の大規模な徳政一揆でもあり、支配層に大きな衝撃を与えた。

1439 永享の乱おわる(38~) C30

[ゴロ] 持氏の/威信見下す/ノリ影響(=義教・永享)
[句意] 鎌倉公方の持氏が将軍を見下している。この悪ノリが討伐の原因だ)
[解説] 6代将軍足利義教は、独立性を深め幕府と対立、将軍職もねらいだした鎌倉公方の足利持氏を永享の乱で討伐した。

1441 嘉吉(かきつ)の乱おこる(6月) B33

[ゴロ] ワナにかかった/お人好し人(ひとよしびと)/義教は?
[句意] 謀殺されるとは、義教はお人好しだったのか、そんなはずがないと疑問に思う句。
[解説] 幕府による相次ぐ有力守護の弾圧を目の当たりにして、所領の没収を恐れた播磨国守護赤松満佑(みつすけ)は、幕府の機先を刺し将軍足利義教を謀殺した。これを嘉吉の乱という。

1441 嘉吉の土一揆おこる(8月) B34

[ゴロ] 徳政を/(とー)し酔いたい/嘉吉の乱
[句意] 徳政令を出させて、勝利の美酒に酔いたい一揆勢だ、という句。
[解説] 嘉吉の乱で将軍足利義教が殺され、幕府が動揺しているとき嘉吉の土一揆が発生。数万の土一揆勢が蜂起し、京都周辺を占領、実力で債務を破棄し、幕府と交渉して徳政令を出させた。

1457 コシャマインの乱おこる D12

[ゴロ] アイヌに/必至後難の/コシャマイン
[句意] この蜂起は結局鎮圧されて、アイヌに後難が降りかかることが必至となった、という句。
[解説] この乱をきっかけに和人による松前藩が成立した。なんと応仁の乱の10年前である。

1467 応仁の乱おこる(~77))A32

[ゴロ] 応仁の/瀕死虚しき(むなしき)/京の町
[句意] 応仁の世に、京の都が廃墟と化し虚しい、という句。
[解説] 将軍権力の弱体化、逆に守護大名の実力の高まりのなか、将軍家内部でも足利義政の跡目争い、有力守護大名家で家督争いがおこり、応仁の乱となった。京都の荒廃、下克上の風潮を生んだ。

1485 山城の国一揆はじまる(~93)A33

[ゴロ] 石運んで/山城一気(=山城一揆)
[句意] 石を運んで、山城を一気に築いた、というナンセンスの句。
[解説] 応仁の乱後も抗争が続く南山城では、国人が惣の農民の支持で、両島山軍の撤退を要求し.これを実現させた。山城の国一揆は国人の合親
に基づく自治的な支配で、8年間続いた。

1488 加賀の一向一揆はじまる(~1580)A34

[ゴロ] 富樫ババひく/加賀の国
[句意] 富樫氏が最終的に「ババ抜き」のババをひいた、加賀の国では、という句。
[解説] 加賀国では、浄土真宗(一向宗)信徒である国人や農民が一向一揆をおこして、富樫氏の内紛に介入し、この年、守護富樫政親(とがしまさちか)を滅ぼした。これ以後、加賀は「百姓の持ちたる国」といわれた。

1510 三浦の乱おこる C31

[ゴロ] 憩い(いこい)過ごす/散歩のラン(=三浦の乱)
[句意] 憩いの時間を、散歩のランニングで過ごす、というナンセンスの句。
[解説] 朝鮮当局が日本貿易について統制を強化し、倭館に拠(よ)る恒居倭(こうきょわ)とよばれた日本人の特権を制限したため、三浦(富山浦(ふざんぽ)・乃而浦(ないじほ)・塩浦)の恒居倭が対馬の宗氏(そうし)とむすび暴動をおこした。この結果日朝貿易は衰えた。

1523 寧波の乱おこる C32

[ゴロ] 忍法(=寧波)でも/以後積み込めず/堺の荷
[句意] 乱後は、譬え忍法を使ったとしても、堺の荷は寧波へ運べなくなった、という句。[解説] 以後堺および細川氏の貿易量は細る(=細川)一方だった)

1543 鉄砲伝来 A35

[ゴロ] 鉄砲で/以後よみがえる/種子島
[句意] 以後鉄砲発祥の地として知られるようになった、という句。
[解説] 寧波に向かう中国船に乗ったポルトガル人が種子島に漂着。領主種子島時尭は、彼らから火縄銃2挺を購入し、その用法と製法を学ばせた。

1549 キリスト教伝来 A36

[ゴロ] 鹿児島で/以後よく見かける/キリスト教徒
[句意] 以後鹿児島ではキリスト教徒が増えた、という句。
[解説] イエズス会の創立メンバーの一人フランシスコ=ザビエルは、この年、鹿児島に上陸し、2年余の精力的なキリスト教布教ののち、中国布教をめざし日本を去った。

1560 桶狭間(おけはざま)の戦いおこる B35

[ゴロ] 信長/意気込む狭間
[句意] 信長は桶狭間に意気込んで突入した、という句。
[解説] 上洛をめざし侵入してきた駿河の今川義元を、尾張の織田信長が桶狭間に奇襲戦法で破った戦い。

1568 信長、足利義昭を奉じて入京 B36

[ゴロ] 信長が/いー頃入る/京の街
[句意] 信長は、甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信が対峙して動きづらいちょうど良いタイミングで入京した、という句。
[解説] 織田信長は足利義昭を擁して京都にはいり、義昭を将軍職ににつけ、その権威を利用して畿内の平定を進めた。

1573 信長、足利義昭を追放(室町幕府滅亡)A37

[ゴロ] 滅亡で/以後情けない/足利氏
[句意] 滅亡して、以後情けない有様になった、足利氏は、という句。
[解説] 織田信長は、将軍義昭に臣従せず実力者として政治を左右したので、義昭は浅井長政(あざいながまさ)や朝倉義景(あさくらいかげ)、延暦寺、石山本願寺などと結んで信長を攻撃した。しかし信長は各個に撃破を進め、この年義昭を京都から追放、室町幕府は滅亡した。

1575 長篠合戦おこる B37

[ゴロ] 勝つより(=勝頼)も/以後泣こう/長篠で
[句意] 武田勝頼は、勝つよりも負けて以後泣くことになるだろう、という句。
[解説] 織田信長は、鉄砲を使った新戦法で精強な騎馬軍団を擁す武田勝頼を長篠の合戦で破った。

1582 天正遣欧使節いく(1月、~1590)B38

[ゴロ] 十五やに聞く/少年使節
[句意] たしか少年たちの年齢は十五歳だと聞いているが、という句。実際は十二、三歳だった。
[解説] 天正年間、キリシタン大名大村純忠(すみただ)・有馬晴信(はるのぶ)・大友宗麟(そうりん)は、宣教師ヴァリニャーニの勧めで、正使伊東マンショら少年使節をローマまで派遣した。禁教令のあとに帰国した4人には、過酷な運命が待っていた。

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