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東海林直人のゴロテマ日本史◇近世9(寛政三博士~契沖)*

◇近世§81.寛政の三博士の覚え方◇B

[ゴロ]おっ母が/千葉の/微糖煮完成
田寒泉(おかだかんせん))(柴野栗山(しばのりつざん))(尾藤二洲(びとうじしゅう)・寛政の三博士)

[句意]おっ母が千葉の栗の微糖煮を完成した、という句。

[point]
1.寛政の三博士とは、岡田寒泉・柴野栗山・尾藤二洲の3人。
[解説]
1.儒官に岡田寒泉(1740~1816)・柴野栗山(1736~1807)・尾藤二洲(1747~1813)が任命された(寛政の三博士)。その後、岡田寒泉は代官に転任し、その後に古賀精里(1750~1817)が任ぜられた。学問所は7年後に官立に改められ、昌平坂学問所(正式名称昌平黌(しょうへいこう))と呼ばれた。
2.岡田寒泉は、1200石の旗本の次男。松平定信により小普請から幕府儒官に抜擢される。松平定信のもとで聖堂の改革に尽力、代官に転じた後も学問所の講師を兼ねるなど、朱子学振興につとめた。
3.柴野栗山(1736~1807)は、松平定信に招かれ、寛政異学の禁を建議し、実行した。
4.尾藤二洲(1747~1813)は伊予の人。回船業者の子として生まれたが、足を病み家業を継げず、学問を志す。寛政異学の禁時の改革に伴い、町儒者から抜擢され昌平坂学問所の教官となる。寛政朱子学者の中では理論派として知られる。
5.古賀精里(1750~1817)は、佐賀藩士の子。京都で朱子学と国学を学び、大阪に塾を開いた後、帰郷し藩校弘道館の教授に就任。その後の1796年、昌平坂学問所の儒官となった。このため三博士は、岡田寒泉の代わりに古賀精里を加えることもある。

2020早稲田大・法学部2/15:「
問6 (松平定信が)下線e学問や文化の在り方にも積極的に介入したに関連する記述として正しいものはどれか。2つ選べ。
 あ 朱子学が正学とされ、昌平坂学問所において学問吟味が実施された。
 い 柴野栗山、中井竹山、尾藤二洲らが儒官として登用された。
 う 農学・医学などの実用的な学問が奨励され、『農業全書』や『大和本草』などの著作が生まれた。
 え 出版統制令により黄表紙や人情本が取り締まりの対象となり、為永春水らが処罰された。
 お 林子平の『三国通覧図説』や『海国兵談』が発禁とされた。」
_________________
(答:あ○・お○ ※い×中井竹山→岡田寒泉。う×『農業全書』は綱吉代の元禄10年(1697年)刊行、『大和本草』は綱吉死去の1709年(宝永7年)に刊行。え×天保の改革下に処罰)〉

2016上智大・法済総人:「
 1681年徳川綱吉が生母桂昌院の願いにより、僧亮賢を招き開山させた護国寺は、江戸時代には将軍家の祈願寺であった。しかし、明治以降は一般の人の墓もつくられ、多くの著名人がここに眠っている。(中略)なお近隣には大塚先儒墓所があり、赤穂浪士の義挙をたたえた室鳩巣、( テ )等寛政の三博士の墓がある。立ち寄ってみてもよいだろう。
問12 空欄( テ )に当てはまるもっとも適切な人物は誰か。次の中から1人選べ。
 ①浅見絅斎 ②松永尺五
 ③野中兼山 ④柴野栗山
 ⑤木下順庵 ⑥佐藤一斎」
_________________
(答:問12④柴野栗山)〉

2014明治大・国際日本:「
問4.史料Ⅰ(本居宣長の『玉くしげ』)が著された年に始まった一連の改革の中で、儒学の一学派が正学とされ、それ以外の学派は、異学として湯島聖堂の学問所での教授が禁じられることになった。この時、学問所の儒官となり、寛政の三博士と呼ばれた人物の名として誤っているものを、下記の①~④の中から選びなさい。
 ①林述斎  ②岡田寒泉
 ③柴野栗山 ④尾藤二洲」
_________________
(答:問4①)〉

2013早稲田大・文化構想:「
問8 下線f湯島聖堂の学問所(のち昌平板学問所)で儒官となった、いわゆる「寛政の三博士」のうち2人はどれか。2つ選べ。
 ア柴野栗山 イ尾藤二洲 ウ広瀬淡窓
 エ室鳩巣  オ山県大弐」
_________________
(答:問8ア柴野栗山・イ尾藤二洲)〉

2013同志社大・全学部:「
【設問h】佐賀藩の藩校弘道館の教授をつとめていたが、寛政8年(1796)、幕府の学問所の教官に招かれた人物として適切なものはどれか。次のうちから1つ選べ。
 ①柴野栗山 ②尾藤二洲
 ③岡田寒泉 ④古賀精里」
_________________
(答:問h④)〉

◇近世§82.古学派の覚え方(3派)◇C

[ゴロ]古学とは/古文字の/正確講義学
古学)(古文辞学(こぶんじがく))(聖学(せいがく)・古義学(こぎがく))

[句意]古学とは古い文字についての正確な講義学だ、という句。

[point]
1.古学聖学古義学古文辞学の3系統に分かれる。
[解説]
1.17世紀後半になると、朱子学を批判し、朱子以前の孔子・孟子の古典直接立ち返ろうとする古学派がはじまった。
2.山鹿素行(1622~85)は朱子学を批判し、直接古典を学ぶ新しい学問としての聖学(聖教)を唱えた。これが朱子学に対する古学のはじまり
3.伊藤仁斎(1627~1705)・東涯(1670~1736)父子は、『孟子』・『論語』を重視する古義学を唱えた。
4.荻生徂徠(1666~1728)は古義学に対抗し、古語(古文辞)の本来の意味をあきらかにする古文辞学を唱えた。

2019青山学院大・全2/7:「
問5 下線部iに関連して古学派についての説明のうち、正しい叙述を以下の選択肢の中から一つ選べ。
 ① 知行合一を説き、実践を重視した学派。
 ② 朱子学、陽明学を批判し、直接原典から孔子、孟子の思想を読み取ろうとした学派。
 ③ 12世紀に南宋の朱熹が大成し、身分秩序を重視した学派。
 ④ 日本の古典を研究し、民族精神を究明する学派。」
_________________
(答:問5②〇 ※①×陽明学、③×朱子学、④×国学)〉

2018明治大・法2/14:「
問9 古学派は、孔子・孟子の古典に立ち帰ろうとする学派で、我が国で創始された儒学といえるが、次のうち、古学者でない者はだれか、選びなさい。
〔語群〕
 A.伊藤仁斎 B.太宰春台
 C.山鹿素行 D.荻生徂徠
 E.貝原益軒 F.伊藤東涯
_________________
(答:問9E×本草学)〉

2017関西学院大・済国際総合2/4:「
問9 下線部i古学に関して、誤っているものを下記より選びなさい。
 ア.伊藤仁斎は、孔子・孟子の原典に返ることを主張した。
 イ.古文辞学を提唱した荻生徂徠は、中国古代の聖人の教えは当時の言葉によって解釈すべきと主張した。
 ウ.荻生徂徠の弟子の太宰春台は、経世論を発展させ、藩が経済活動を行なうことを提案した。
 エ.伊藤仁斎の息子の東涯は、父とともに京都堀川にて私塾蘐園塾を開いた。」
_________________
(答:問9エ蘐園塾→古義堂(堀川塾))

2016上智大・神外総人:「
 次の短文J・Kは、江戸時代の文化を担った人びとについて叙述したものである。よく読んで、あとの問いに答えなさい。
J a古学派の儒学者。会津の人。朱子学・神道・兵学に通じ、実用の学を提唱して朱子学を批判し、自らb実学と呼んだ。幕府により赤穂へ配流された。著書c『聖教要録』は、「聖人とは何か」から説き起こし、武士日用の道徳を主張して儒学古典の朱子学的解釈を批判している。もう一つの著書d『中朝事実』は、中国崇拝を廃して日本主義を主張し、「中華」にたいする日本の呼称も示した。
〔語群〕
 1南 2陽明 3聖 4理
 5『自然真営道』 6『国意考』
 7『古事記伝』 8『玉くしげ』
K a大坂の町人の家に生まれる。『論語』『孟子』などの原典の研究を通じて直接聖人の道を正しく理解しようとし、b古義学をとなえ、京都c堀川に塾を創設した。政治と道徳を区別する学風を形成した。著書にはd『童子問』などがある。
〔語群〕
 1江戸 2京都 3陽明 4心
 5下賀茂 6丸太町 7『万葉考』
 8『玉勝間』
問1 J・Kの各文章の下線部a~dのなかには、その人物の説明文に用いる語句としては不適切なものがある。J・Kそれぞれについて、誤っている語句をa~dの中から1つずつ選びなさい。また、それにかわる正しい語句を、それぞれの語群から1つずつ選びなさい。」
_________________
(答:Jb3、Ka2 ※Jは山鹿素行、Kは伊藤仁斎)〉

2013法政大・法国際文化キャリアデザイン:「
問 古代の聖賢にたち帰ることを主張した[ 7 ]は、伊藤仁斎らとともに古学派と呼ばれる」
_________________
(答:7山鹿素行)〉

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