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東海林直人のゴロテマ日本史◇近現21(五・一五事件~国防方針)

◇近現§201.五・一五事件の覚え方◇B

[ゴロ]海軍が/強引GOで/残忍
海軍青年将校)(五・一五事件)(1932年)(犬養毅首相)

[句意]海軍青年が強引なGO(行動)で残忍な犬を飼う、というナンセンスの句。
「残忍な」だと「327」という数字を思い浮かべる恐れがあるが、1900年代のことだから「32」と殆どの人は間違えないと思いますが念のため。

[point]
1.五・一五事件1932年)は、海軍の青年将校らによる犬養首相暗殺事件
[解説]
1.海軍青年将校グループが大川周明から資金援助を受け、一部陸軍士官学校生徒らの参加を得て首相官邸・警視庁・立憲政友会本部などを襲撃した事件。
2.軍部は事件を政治的進出に利用。また首相を射殺した海軍青年士官らには「国家への至誠から行動した」という趣旨の減刑嘆願書が70万通も寄せられていた。この情勢下で、最高でも禁錮15年という軽すぎる判決が下された。

4.軍部の要求で内務省が「犯人の氏名、経歴その他詳細な内容」の報道を禁止。中央の大新聞は、1年後に事件の起訴が決まり、内容が公表されるまで、伏せ字混じりの記事を書き続けた。これに対し、ひとり西日本新聞の前身、福岡日日新聞だけは「白昼公然と首相官邸に押し入り、しかも陸海軍将校等隊を組んで凶行に及びたりと云えば、暗殺と云うよりも一種の虐殺」だとして連日激しく批判した。

2019慶応大・経済2/13:「
問8.下線部A五・一五事件に関連して、次の1~5の事項を年代の古い順に並べ替え、左から記入しなさい。
 ①.血盟団事件が起こる。
 ②.五・一五事件が起こる。
 ③.斎藤実内閣が成立する。
 ④.日満議定書を取り交わす。
 ⑤.日本政府が国際連盟からの脱退を正式に通告する。
_________________
(答:問8①→②→③→④→⑤ ※①1932年2月、②1932年5月15日、③1932年5月26日、④1932年9月、⑤1933年)〉

2019同志社大・グロコミュ法2/8:「
 1924年の総選挙では護憲三派が勝利し、1932年のeある事件で犬養毅内閣が倒れるまで、政党内閣が続いた。その後、海軍大将であった( ⑩ )の内閣が挙国一致をスローガンとして登場した。」
問e.この事件を何というか。
_________________
(答:⑩斎藤実、問e五・一五事件)〉

2017東洋大・全学部2/9:「
(2)1924年、枢密院議長であった清浦奎吾を首班とする内閣が成立すると、護憲三派は普通選挙の実施などを掲げて第二次護憲運動を展開した。清浦内閣は議会を解散したが、総選挙の結果、護憲三派が大勝した。清浦内閣は総辞職し、憲政会総裁[ E ]を首相とする3党の連立内閤が組織された。このように政党の総裁が内閣を組織する慣例は「憲政の常道」と呼ばれ、1932年に[ F ]内閣が五・一五事件で倒れるまで続いた。
問6.空欄[E~F]に入る人物名の組み合わせとして、最も適切なものを、次の中から一つ選べ。
 ①E:犬養毅 F:加藤高明
 ②E:犬養毅 F:高橋是清
 ③E:加藤高明 F:犬養毅
 ④E:加藤高明 F:高橋是清
 ⑤E:高橋是清 F:犬養毅
 ⑥E:高橋是清 F:加藤高明」
_________________
(答:問6③)

◇近現§202.二・二六事件の覚え方

[ゴロ]陸軍が/まことこれっきり/行動来た二・二六陸軍)(斎藤内大臣・高橋是清蔵相)(1936年・皇道派青年将校・一輝)(二・二六事件)

[句意]陸軍が実にこれっきりという手段=寒い行動で来た二・二六事件だ、という句。
[point]
1.二・二六事件(1936年)は、北一輝の影響を受けた陸軍皇道派青年将校たちによるクーデター事件で、斎藤実内大臣・高橋是清蔵相などが暗殺された。
[解説]
1.二・二六事件1936年)は、北一輝の影響を受けた陸軍皇道派の青年将校たちによるクーデタ事件高橋是清蔵相斎藤実内大臣、渡辺錠太郞教育総監が暗殺され、鈴木貫太郎(のち敗戦=終戦時首相)侍従長が重傷を負ったが、岡田啓介首相は官邸の風呂桶に隠れて奇跡的に助かった。
2.はじめ「決起部隊」とよばれたが、「反乱軍」とされるに及び意気阻喪(いきそそう)し、原隊復帰をうながす天皇奉勅命令で収束。17人の青年将校・民間右翼(北一輝・西田税(みつぎ)のみが処刑され、青年将校たち以外にも真崎甚三郎荒木貞夫など陸軍上層部や皇族が関与したクーデター事件だったが、陸軍の上層部の皇道派要人に対しては、取り調べも甘く、ことごとく無罪とされ多くの謎を残したまま終わる
3.三月事件(1931年、陸軍がおこしたクーデター未遂事件)以来、国家改造を唱えれば罪は多くは問われないという認識が横行し、これが二・二六事件を生む土壌になる。
4.事件後、陸軍皇道派は勢力を失い、統制派は事件の再発をちらつかせる恫喝(どうかつ)的政治手法で実権を握り、政・財・言論界の反対意見を封殺していった。
5.→◇近現§199.ファシズムへの道の覚え方(1930~36年の10件年代順)◇A参照

2017慶応大・文:「
 次の文章(ロ)を読んで、空欄(F~G)に該当する適当な語句をそれぞれの語群の中から選べ。語群の中に適当な語句がない場合は0を記入しなさい。

(ロ)軍部の内部では、天皇中心に国家改造を説く( F )と、軍・官僚・財界の結束のもと高度国防国家を目指す( G )とが対立していた。1936年には、『日本改造法案大綱』などを著した( H )の思想的な影響を受けた一部の将校たちが、昭和維新を断行すべく、二・二六事件を引き起こし、( I )内大臣、( J )蔵相らを暗殺したが、反乱軍として鎮圧された。この事件をきっかけに陸軍では( G )が主導権を掌握していった。
 1尊王派 2統制派 3石橋湛山
 4石原莞爾 5松岡洋右
 6斎藤実 7犬養毅 8浜口雄幸
 9高橋是清」
_________________
(答:F0皇道派、G2統制派、H0北一輝、I6、J9)〉

2017中央大・文:「
問12.空欄K(浜口雄幸内閣の[ K ]蔵相)に入る人物の説明として正しいものを、次のア~オの中から一つ選べ。
 ア.秘密結社桜会の将校によって暗殺された。
 イ.血盟団員によって暗殺された。
 ウ.五・一五事件で海軍青年将校によって射殺された。
 エ.東京駅において右翼の青年に狙撃され重傷を負い、翌年に死去した。
 オ.二・二六事件で陸軍皇道派の青年将校によって殺害された。
_________________
(答:問12イ ※Kは井上準之助、なお二・二六事件で暗殺されたのは高橋是清)〉

2016明治大・政経:「
 1930年代半ば以降、軍部、とくに陸軍の発言力は一段と大きくなっていった。 1936年の(ア)二・二六事件後に成立した広田弘毅内閣のもと、大規模な軍備拡張が進められ、財政は軍事支出を中心に急激に膨張し、軍需物資の輸入増大により、国際収支は悪化した。
問1 下線部(ア)に関して、この事件を起こした青年将校たちに大きな思想的影響を与えた北一輝とともに事件の黒幕とされ、死刑になった人物はだれか。A~Eから一つ選べ。
 A荒木貞夫 B永田鉄山
 C真崎甚三郎 D西田税
 E宇垣一成」
_________________
(答:問1D)〉

◇近現§203.海軍穏健派内閣2代の覚え方◇B

[ゴロ]サイド目立つおっ母シワ
斎藤実内閣・国際連盟脱退)(田啓介内閣・ワシントン海軍軍縮条約破棄)

[句意]おっ母の顔のシワは正面よりサイドつまり横顔に目立つ、という句。倒置ゴロ「シワ」で「ワシントン」を再現してほしい。「ナニ!」と憤慨する向きもあるかも知れないが、これしきは本書にはよくある技法と慣れてほしい(笑)。

[point]
1.斎藤実内閣のとき国際連盟脱退岡田啓介内閣のときワシントン海軍軍縮条約を破棄通告した。
[解説]
1.五・一五事件の後、二・二六事件まで2代の海軍穏健派内閣が成立したが、急進的国家改造を唱える軍部・右翼が不満で両内閣を圧迫していった。
2.斎藤実内閣は、1932年、前犬養内閣が承認を渋った満州国を日満議定書で承認した。これに対し中華民国が国際連盟に提訴し、1933年2月、リットン報告書に基づく対日勧告案が承認可決された。これに対し日本は、1933年3月、国際連盟脱退を通告した。
3.岡田啓介内閣は斉藤の後を受けて組閣、1934年、ワシントン海軍軍縮条約破棄を通告、また同内閣は天皇機関説問題で屈服して国体明徴声明を出し、天皇機関説を否認した。さらに同内閣は、その後の、1936年、二・二六事件で前首相で内大臣の斎藤実らが暗殺され倒壊した。

2022明治大・文2/13:「
問4 史料A(東海林注:国連脱退通告文)が決定された時の総理大臣と外務大臣の組み合わせとして正しいものを、次の①〜④のうちから一つ選べ。
 ①総理大臣-斎藤実 外務大臣-内田康哉
 ②総理大臣-犬養毅 外務大臣-内田康哉
 ③総理大臣-斎藤実 外務大臣-広田弘毅
 ④総理大臣-犬養毅 外務大臣-広田弘毅」
_________________
(答:問4①)〉

2017南山大・外総合2/13:「
(四)次の文を読み、下記の設問22~29に答えなさい。
 a満州事変での日本軍の進撃により、新聞は号外合戦を繰り広げ、販売部数を急激に伸ばした。第2次[ A ]内閣は不拡大方針を表したものの、新聞はそれを批判し事変の拡大を煽(あお)った。日本政府としては国際連盟の脱退だけは避けたかったが、1933年2月の連盟特別総会で日本首席全権[ B ]が連盟の勧告受諾を拒否して退場すると、部数拡大を争っていた新聞各紙は、彼を稀代の英雄ともち上げ、大喝采を送った。軍に批判的だった信濃毎日新聞も、同年9月、信州郷軍同志会による不買運動の脅しに屈し、主筆の[ C ]記者を退職させた。愛国心に熱狂する国民は、理由のいかんを問わず「日本に正義がある」と妄信するようになり、満州事変以後も、国際社会からの孤立を避けようとする政府を、「弱腰」と糾弾するに至った。その後も、新聞は好戦気分を煽り、世論を誘導していったのである。
問22 下線部a満州事変について述べた文として、正しいものを、下記のア~エから選びなさい。
 ア その発端は、南満州鉄道が通る盧溝橋の爆破事件であった。
 イ 事変当時、満州を支配していた軍閥の長は、張作霖であった。
 ウ 関東軍が現地で戦線を拡大し、満州の制圧を進めた。
 エ 事変勃発の翌年、溥儀を皇帝とする満州帝国の建国が宣言された。
問23 空欄[ A ]に入る語として、正しいものを、下記のア~エから選びなさい。
 ア犬養毅 イ斎藤実 ウ広田弘毅 エ若槻礼次郎
問24 空欄[ B ]および[ C ]に入る語の組合わせとして、正しいものを、下記のア~エから選びなさい。
 アB-永田鉄山 C-桐生悠々
 イB-永田鉄山 C-矢内原忠雄
 ウB-松岡洋右 C-桐生悠々
 エB-松岡洋右 C-失内原忠雄」
_________________
(答:問22ウ、問23Aエ、問24ウ)〉

2016早稲田大・法:「
 次の史料は、吉野作造の日記からの抜粋(一部表記を変更)(中略)。これを読み、後の問に答えなさい。
  5月24日
 新聞を見るとc斎藤子氏は昨日は政友民政両党総裁を訪うて援助を求めて居る。鈴木氏も若槻氏も一党の総裁として自分に援助を求めらるるのは政党政治を認めて居るのだという理屈で党内先輩の入閣を引き請けたようだが、理屈は別として両党とも強て政党主義を貫き得ぬ今日の形勢に屈服したものたるは疑をいれぬ。意気のない話である。

問3 下線cに関して、その結果、成立した内閣に関連する記述として誤っているものはどれか。1つ選べ。
 あ「非常時」を背景として成立した。
 い「政友民政両党」に基礎をおいた。
 う「挙国一致内閣」と呼ばれた。
 え「満州国」を承認した。
 お 国際連盟に脱退を通告した。」
_________________
(答:問3い× ※斎藤実の非政党・挙国一致内閣)〉

2013立命館・文法済営などA方式:「
 五・一五事件によって倒壊した内閣のあとを受けて、海軍大将を首班とする挙国一致内閣が成立した。その内閣の行った政策は何か。もっとも適当なものを下から一つ選べ。
 あ)国体明徴声明 い)金輸出再禁止
 う)国際連盟脱退 え)軍部大臣現役武官制復活)」
_________________
(答:う国際連盟脱退 ※内閣は斎藤実内閣)〉

◇近現§204.盧溝橋事件と日中戦争の覚え方◇B

[ゴロ]一時この絵の/盧溝橋で/日中の/戦成る(いくさなる)
(第1次近衛内閣)(盧溝橋事件)(日中戦争)(1937)

[句意](歴史の授業中盧溝橋の絵を見せながら)一時この絵の盧溝橋で日中戦争が成立した、いう句。

[point]
1.第一次近衛内閣1937年盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が開始された。
[解説]
1.第1次近衛文麿内閣成立直後1937(昭和12)年7月7日北京郊外の盧溝橋付近日中両国軍の衝突事件が発生した(盧溝橋事件)。いったんは現地で停戦協定が成立したが、近衛内閣は軍部の圧力に屈して当初の不拡大方針を変更し、兵力を増派して戦線を拡大した。これに対し、国民政府の側も断固たる抗戦の姿勢をとったので、戦闘は当初の日本側の予想をはるかに超えて全面戦争に発展した(日中戦争)。
2.8月には、上海でも戦闘が始まり(第2次上海事変)、戦火は南に広がった。9月には国民党と共産党がふたたび提携して(第2次国共合作)、抗日民族統一戦線を成立させた。日本はつぎつぎと大軍を投入し、年末には国民政府の首都南京を占領。占領への進軍途中および占領後の翌38年1月まで敗残兵・捕虜を含む多数の中国人を殺害した(南京大虐殺事件)。
3.国民政府は南京から漢口、さらに奥地の重慶にしりぞいてあくまで抗戦を続けたので、日中戦争は泥沼のような長期戦となった。
4.日本政府は、この戦争を当初、局地紛争とみなし北支事変、さらに支那事変と呼んだ。

2020中央大・法2/12:「
問2 下線部②日中戦争に関する次の説明のうち、正しいものには〇、誤っているものには×を付せ。
 a 盧溝橋事件が起きると、近衛内閣は直ちに兵力を増派し、中国軍に対する戦線を拡大する方針を示した。
 b 中国側は、国民党と共産党が提携して抗日民族統一戦線を結成し、日本に宣戦布告をおこなった。
 c 日本は、江兆銘を首班とする親日の新国民政府を南京に樹立した。」
_________________
(答:問2a×、b×、c〇 ※a×拡大方針→不拡大方針、b×宣戦布告なし)〉

2020関西学院大・商人間文法2/1:「
問10.次の文章a・bをよく読み、各々の正誤を判定し〇×で示せ(問題形式変更…東海林)。
 a.第1次近衛文麿内閣は、日中戦争の開始直後に国家総動員法を成立させた。しかしより本格的な戦時体制が必要となり、開戦の翌年から国民精神総動員運動に着手した。
 b.岸信介内閣は、教員の勤務評定を全国的に実施し、また警察官職務執行法の改正により警察官の権限強化を試みたが、後者は世論の反対が高まったため断念された。」
_________________
(答:問10a× ※直後に国民精神総動員運動に着手、翌年から国家総動員法を成立させた、b〇)〉

2017関西学院大・全学部2/2:「
問9.下線部m日中戦争に関して、誤っているものを下記から選びなさい。
 ア.日中戦争は、南京郊外で発生した盧溝橋事件を発端とする。
 イ.戦争が始まると、戦いは上海に飛び火するが、これを第2次上海事変と呼ぶ。
 ウ.日本軍が中華民国の首都南京を占領すると、国民政府は漢口さらには重慶に首都を移した。
 エ.近衛文麿内閣は日中戦争遂行のため国民精神総動員運動を始めた。」
_________________
(答:問9ア× ※南京→北京)〉

2017明治大・文:「
 近現代の政治・経済について述べた次の文章A・Bを読み、下の設問に答えよ。
A.1933年(昭和8)5月の[ a ]の締結によって、柳条湖事件以来の日中間の事実上の戦争状態は停止されたかに見えたが、「満洲国」では内戦状態が続くとともに軍部は華北分離工作を進めた。中国国内では、抗日運動の気運が高まり、1936年12月の[ b ]をきっかけとして国共合作への動きが強まった。1937年7月、盧溝橋において日中両軍の衝突が起こり、現地では停戦協定が成立したが、[ c ]内閣は華北派兵を決定し、全面戦争となった。1938年1月、政府は、「爾後 d せず」との声明を出したが、かえって戦争終結への道を遠ざける結果となった。その後、重慶に首都を移した中国政府は、欧米諸国の支援を受けて抗戦を続けたため、日本軍はその援助ルートを遮断するために南進し、1940年9月、[ e ]に進駐するに至り、英米との対立をさらに深めることとなった。
問1.空欄a~eに入るのに適当な語句を漢字(dは漢字とひらがな)で記せ。なお、cには人名(姓名)を入れよ。
問2.下線部「爾後[  ]せず」との声明は、この内閣が出した「第1次声明」とも呼ばれるものであるが、同年11月に出された「第2次声明」は一般にどのように呼称され、英・米両国はそれにどのような条約に反しているとの反応を示したか。条約名を記せ。」
_________________
(答:問1a塘沽停戦協定(日中軍事停戦協定)、b西安事件、c近衛文麿、d国民政府を対手と、e北部仏印、問2〔呼称〕東亜新秩序声明〔条約名〕九カ国条約)〉

2017立教大・異文化コミュ済法:「
問14.この人物近衛文麿を首相とする内閣に関する記述として正しくないのはどれか。次のa~dから1つ選べ。
 a.国家総動員法が制定され、政府は議会の承認なしに、戦争遂行に必要な物資や労働力を動員する権限を得た
 b.ドイツの駐華大使トラウトマンを通じて和平工作を進め、日中戦争の早期停戦を模索した
 c.満州国や中国(南京)の汪兆銘政権などの代表者を東京に集め、大東亜会議を開いた
 d.盧溝橋事件の発生後、当初とっていた不拡大方針を変更し、兵力を増派して戦線を拡大させた」
_________________
(答:問14c× ※大東亜会議は太平洋戦争中(1943.11)にアジア占領地域の代表を集めて戦争協力をさせるために東條英機内閣が開いた)〉

◇近現§205.第1次近衛文麿内閣の覚え方(戦前個別重要内閣⑥2件と4法)◇A

[ゴロ]国管(こっかん)(わんこ)臨時(資金輸出入)措置は/露骨だとの/声明が/騒動因
(電力理法・第衛)(臨時資金調整法・輸出入品等臨時措置法)(盧溝橋事件)(近衛声明)(国家総動員法)
[句意]国家が管理してる(野良)犬を臨時輸出する措置は露骨(殺処分にかわる措置)だとの(愛犬家などによる非難の)声明が騒動のもと(因)だ、という句。「わん・この」の(わん)は「一」の、「(この)は「近衛」のゴロです。かなり長いので練習をお願いします。まず「臨時措置」から「臨時資金輸出入措置法」へと再現練習を2段階でお願いします。

[point]
1.第1次近衛文麿内閣は、盧溝橋事件後第三次の近衛声明を発表する一方、臨時資金調整法輸出入品等臨時措置法国家総動員法電力国家管理法を制定して戦時体制を整えた。
[解説]
1.第1次近衛文麿内閣(1937.6~1939.1)は、日中戦争勃発(盧溝橋事件、1937.7.7)に不拡大方針をとるものの、大軍を投入を容認し、年末には国民政府の首都南京を占領した(南京大虐殺)。
2.日中戦争泥沼化に対処するためドイツに依頼した和平工作トラウトマン工作を放棄して、1938年1月、第一次近衛声明国民政府を対手(あいて)とせず」を発表(裏でひそかに傀儡政権を樹立せんとする意図があった)し、戦争を拡大。
3.日中戦争に要する巨額の軍事予算をまかなうために、臨時資金調整法輸出入品等臨時措置法などを制定して、直接的な経済統制にふみ切った。さらに、1938年4月、国家総動員法電力国家管理法を制定し国民精神総動員運動を推進し戦時体制構築をはかった。
4.戦時体制を整えつつ、1938年11月に、「戦争目的は東亜新秩序の建設」の第二次、12月にも、善隣友好・共同防共・経済提携近衛三原則をうたう第三次声明を出す。

2022明治大・文2/13:「
問8 史料A(国際連盟脱退……東海林注)以後に起こった出来事I〜Ⅳを古いものから順に並べたものを、次の①〜④のうちから一つ選べ。
 I 国民徴用令の公布
 Ⅱ 国民精神総動員運動の始まり
 Ⅲ 七・七禁令の施行
 Ⅳ 国家総動員法の公布
 ① Ⅱ→Ⅳ→Ⅰ→Ⅲ
 ② Ⅱ→Ⅰ→Ⅳ→Ⅲ
 ③ Ⅳ→Ⅱ→Ⅲ→Ⅰ
 ④ Ⅳ→Ⅲ→Ⅱ→Ⅰ」
_________________
(答:問8① ※Ⅰ:1939年、Ⅱ:1937年、Ⅲ:1940年、Ⅳ:1938年。なお連盟脱退は1933年)〉

2021中央大・経済2/14:「
日中戦争が全面化すると、⑤政府は国民を戦争に協力させるための体制を次々に整備し、「ぜいたくは敵だ」などのスローガンのもと 国民生活の切り詰めを強いた。1940年10月には総理大臣を総裁とする大政翼賛会が結成された。
史料〔B〕
第一条 本法二於テ[ c ]トハ戦時(戦争二準ズベキ事変ノ場合ヲ含ム以下之二同ジ)二際シ国防目的達成ノ為、国ノ全カヲ最モ有効二発揮セシムル様、[ d ]資源ヲ統制運用スルヲ謂フ
第四条 政府ハ戦時二際シ[ c ]上必要アルトキハ、[ e ]ノ定ムル所二依リ、帝国臣民ヲ[ f ]シテ総動員業務二従事セシムルコトヲ得、但シ兵役法ノ適用ヲ妨ゲズ
問5 史料〔B〕は、下線部⑤に関わる中心的な法律である。空欄[c~f]にあてはまる語句の組み合わせとして正しいものを1つ選べ。
 アc国家総動員 d人的及物的 e政令 f雇用
 イc国家総動員 d人的及物的 e勅令 f徴用
 ウc国民精神総動員 d人的及物的 e省令 f雇用
 エc国家総動員 d人的及生産 e勅令 f徴用
 オc国民精神総動員 d人的及生産 e政令 f作業
 カc国家総動員 d人的及物的 e勅令 f作業」
_________________
(答:問5ア〇)〉 

2021青山学院大・全2/7:「
問6 文章Bに関連して、戦前・戦時の電気事業について述べた文として誤っているものを、次の選択肢の中から一つ選べ。
 ① 1887年、東京電燈会社が鹿鳴館の夜会において電燈を点灯した。
 ② 両大戦問期の都市部では家庭用の電気が普及したが、農村部で普及し始めたのは第二次世界大戦後のことであった。
 ③ 1938年。第一次近衛文麿内閣のもとで電力管理法が公布され、翌年に日本発送電株式会社が発足した。
 ④ 1942年には配電事業が、地域別に設立された九社に統合され、電力国家管理が完成した。」
_________________
(答:問6②× ※1927年で既に伝統普及率87%)〉

2020慶応大・商学部2/14:「
 日中戦争の勃発以降、貿易の流れは大きく変わった。軍備拡張を続けるうえで貿易の統制が必要となり、そのために政府は1937年9月に( c )を制定した。
問2 文中の空欄( c )に入る最も適切な語句を漢字で書きなさい。」
_________________
(答:問2c輸出入品等臨時措置法)〉

2019法政大・経済現福社会2/9:「
問2.下線部(b)第一次近衛内閣について、この内閣の時の出来事として誤っているものを、以下のア~エから一つ選べ。すべて正しい場合には、オをマークせよ。
 ア.日中戦争が勃発した。
 イ.日独伊三国防共協定を結んだ。
 ウ.企画院を設置した。
 エ.東亜新秩序声明を出した。
_________________
(答:問2オ)〉

2017明治大・文:「
問2.下線部爾後国民政府を対手とせず」との声明は、この内閣が出した「第1次声明」とも呼ばれるものであるが、同年11月に出された「第2次声明」は一般にどのように呼称され、英・米両国はそれにどのような条約に反しているとの反応を示したか。条約名を記せ。」
_________________
(答:問2東亜新秩序声明、九カ国条約)〉

2017学習院大・文:「
【論述問題】 近衛文麿内閣について、指定された行数(7行)の範囲で述べなさい。
_________________
〔解答例〕第一次近衛文麿内閣の時に盧溝橋事件が勃発。当初不拡大を表明したが、陸軍に押し切られ日中全面戦争へ拡大。第一次近衛声明でこれを追認し自ら和平への道を閉ざした。第二次近衛内閣は新体制運動を推進し大政翼賛会などの戦時体制組織をつくり、北部仏印進駐や日独伊三国間盟を締結して米英との対立を深めた。その一方で日米交渉を開始したが、第三次近衛内閣は南部仏印進駐を強行して米英関係をさらに悪化させ、交渉が進展しないまま内閣は総辞職した。

2016明治大・政経:「
問2 下線部(イ)に関して、第1次近衛内閣によって公布された法律ではないものはどれか。A~Eから一つ選べ。
 A電力国家管理法 B輸出入品等臨時措置法
 C重要産業統制法 D国家総動員法
 E臨時資金調整法」
_________________
(答:問2C×浜口雄幸内閣のとき)〉

2015一橋大・前期:「
 問3 国家総動員法の先駆けとして、1937年に近衛内閣が制定した法律を2つあげなさい。」
_________________
(答:問3臨時資金調整法・輸出入品等臨時措置法)〉

2014立教大・法経済異文化コミュ:「
 下線部11.1930年代には中国での日本の軍事行動が拡大していったに関する出来事について、もっとも古いものから年代順に並んでいる組み合わせはどれか。次のa~dから1つ選べ。
 a.第1次上海事変-塘沽停戦協定の締結一盧溝橋事件-南京大虐殺
 b.盧溝橋事件-塘沽停戦協定の締結-南京大虐殺-第1次上海事変
 c.塘沽停戦協定の締結-第1次上海事変-盧溝橋事件-両京大虐殺
 d.第1次上海事変-南京大虐殺-塘沽停戦協定の締結-盧溝橋事件
_________________
(答:a※第1次上海事変(1932.1)、塘沽停戦協定の締結(1933)、盧溝橋事件(1937.7)、南京大虐殺(1937.12))

2013法政大・法国際文化キャリアデザイン:「
下線部(7)日中和平交渉に関係する説明として正しいものをつぎのア~エのなかから一つ選べ。
 ア アメリカ合衆国が和平の仲介を行った。
 イ 日本政府は東亜新秩序声明を発して交渉を打ち切った。
 ウ 和平交渉打ち切り後、国民政府は重慶へ移り長期持久戦に入った。
 エ この時政権を担当した内閣は、岡田啓介内閣であった。」
_________________
(答:ウ ※ア.仲介はドイツ、イ.近衛首相は「国民政府を対手とせず」(第一次近衛声明)を発して交渉を打ち切る、エ.第一次イ近衛内閣)〉

2012立教大・全学部2/6:「
「日中戦争が始まると、( へ )内閣は経済統制の強化を行い、1938年には、〈 こ 〉を制定した。これにより政府は議会の承認なしに、戦争遂行に必要な物資や労働力を動員する権限をあたえられ、国民生活を全面的統制下においていった。」
_________________
(答:へ近衛文麿、こ国家総動員法)〉

〈2012中央大・文:「
問9 下線部⑥政府の統制に服従するについて、1938年、政府は、議会の承認なしに経済と国民生活の全体にわたって統制する権利を得た。その法律の名称を記しなさい。」
_________________
(答:問9国家総動員法)〉

2012早稲田大・政経:「
下線部7(近衛文麿)に関わる事柄で正しくないものはどれか。
 イ 1919年、パリ講和会議に随員として参加した。
 ロ 1933年、貴族院議長に就任した。
 ハ 第一次内閣において、電力国家管理法を公布した。
 二 第三次内閣において、北部仏印進駐を実行した。
 ホ 太平洋戦争終結直後の東久邇宮内閣に国務相として入閣した」〉
_________________
(答:二 ※北部仏印進駐は第二次内閣)

《付録①》昭和研究会の覚え方(関係者2人)◇D

[ゴロ]昭和研究会で/お先御逗留
昭和研究会)(尾崎秀実・後藤隆之助)

[句意](あのお客様は)昭和の研究会のため一足先に御逗留だ、という旅館従業員の会話の句。

[point]
1.昭和研究会近衛文麿のブレーン後藤隆之助が立ち上げた私的な研究会。
2.同会にはソ連のスパイゾルゲに情報提供した尾崎秀実も参加していた。

2012早稲田大・政経:「
問6 下線部⑥東亜新秩序の「理論的支柱」を提供した政策研究会を、1933年に組織したのは誰か。
 イ 後藤隆之助 ロ 尾崎秀美
 ハ 蠟山政道 二 三木清
 ホ 笠信太郎」
_________________
(答:問6イ〇)〉

2010明治大・政経:「
設問2 下線部(イ)近衛文麿のブレーンらによって組織された近衛の私的な政策検討グループはどれか。A~Eからひとつ選べ。
 A新人会 B憲法研究会 C大日本国粋会
 D昭和研究会 E猶存社」
_________________
(答:問2D〇)〉

◇近現§206.第2次近衛文麿内閣の覚え方(戦前重要内閣⑦7事項年代順)◇A

[ゴロ]不意に/三国体制を/報告後/中立交渉独走
(北部仏印進駐)(日独伊三国同盟・大政翼賛会)(大日本産業報国会)(日ソ中立条約・日米交渉開始・独ソ戦争開始)

[句意]不意に三国体制を報告後、中立交渉が独走した、という言葉つなぎのナンセンスの句。

[point]
1.第2次近衛内閣は、北部仏印進駐→日独伊三国同盟締結→大政翼賛会結成→大日本産業報国会結成→日ソ中立条約締結→日米交渉を開始、と政策を進めた。
[解説]
1.第2次近衛内閣(1940.7/22~1941.7/18)は、成立後、組閣に先立って近衛と陸・海・外相予定者との会談で、欧州大戦不介入方針からの転換ドイツ・イタリア・ソ連との提携強化積極的な南方への進出(南進)の方針が定まった。南進政策には、ドイツに降伏したヨーロッパ諸国の植民地フランス領インドシナ・オランダ領東インド)を影響下におくことのほか、援蔣ルートを遮断して停滞した戦局を打開するねらいもあった。こうして9月、日本軍は北部仏印に進駐(1940.9/23)した。
2.ほぼ同時に日独伊三国同盟(1940.9/27)を締結した。三国は、ヨーロッパとアジアの「新秩序」における指導的地位を相互に認め、第三国からの攻撃に対しては、たがいに援助しあうことを約した。ソ連に対しては除外規定があり、アメリカを仮想敵国とする軍事同盟で、結果的にはアメリカの強い反発を招いた。
3.三国同盟の提携強化のためにドイツ・イタリアを訪問していた松岡洋右外相は、帰途モスクワで日ソ中立条約を結んだ(1941.4/13)。これは南進政策を進めるためには、北方での平和を確保するばかりでなく、悪化しつつあったアメリカとの関係を日ソ提携の力で調整しようとするねらいもあった。
4.第1次近衛内閣の時から進められた新体制運動は、大政翼賛会として結実(1940.10/12)した。しかし、大政翼賛会は当初めざした政党組織ではなく、総裁を総理大臣、支部長を道府県知事とし、部落会・町内会・隣組を下部組織とする官製の上意下達機関となった③。
5.第1次近衛内閣の時から、国家主義・軍国主義を鼓吹し、節約・貯蓄など国民の戦争協力をうながすため、国民精神総動員運動を展開した。総力戦の遂行に向けて労働者を全面的に動員するため、労資一体で国策に協力する産業報国会の結成も進められた。1938(昭和13)年、資本家団体や労働組合幹部を集めて産業報国連盟が結成される一方、警察の指導で各職場ごとに労資一体の産業報国会を組織し、既存の労働組合も一部これに改組させた。連盟が全国組織の大日本産業報国会(1940.11/23)となり、すべての労働組合が解散させられた時には、その単位会数は7万、組織人員は418万人であった。
6.三国同盟の締結は、アメリカの対日姿勢をいっそう硬化させることになった。第2次近衛内閣では、日米衝突を回避するため日米交渉を開始(1941.4/16~11)した。前年末の日米民間人同士の交渉が、駐米大使野村吉三郎とハル国務長官とのあいだの政府間交渉に発展したものである。
7.1941年6月、ドイツが突如(同盟国である日本に通告なく)ソ連に侵攻して独ソ戦争がはじまった。これに対応するためにひらかれた7月2日の御前会議は、軍部の強い主張によって、対米英戦覚悟の南方進出と、情勢有利の場合の対ソ戦(北進)とを決定した。第2次近衛内閣は日米交渉の継続をはかり、対米強硬論をとる松岡外相を除くためいったん総辞職した。

2021関西学院大・教育経済国際社会神総合2/2:「
 1940年に[ k ]が先頭に立った新体制運動が始まると、諸政党は自主的に解散した。さらに新体制運動を推進するために設立された[ 1 ]は、やがて部落会・町内会やさまざまな国民運動団体を下部組織に組み入れ、全国民を組織する巨大組織となった。
問10.空欄k・lに該当する語句の組合せとして、正しいものを下記より選びなさい。
 ア.k:東条英機・l:大政翼賛会
 イ.k:東条英機・l:翼賛政治会
 ウ.k:近衛文麿・l:大政翼賛会
 エ.k:近衛文麿・l:翼賛政治会」
_________________
(答:問10ウ〇)

2021中央大・経済2/14:「
問8 下線部⑦総理大臣を総裁とする大政翼賛会の設立時の内閣総理大臣の名前を1つ選べ。
 ア 平沼騏一郎 イ 近衛文麿
 ウ 鈴木貫太郎 エ 東条英機 オ 広田弘毅」
_________________
(答:問8イ〇)〉

2020立教大・全2/6:「
 1937年に起こった盧溝橋事件は、その後8年に及ぶ日中戦争の発端となった。近衛文麿内閣は、事件の不拡大方針を発表するも、華北に派兵を決定した後、上海に戦線は拡大し、日本軍は国民政府の首都であった南京を占領して、国民政府を南京から重慶に追いやり、多数の捕虜や民間人を殺害する南京事件(南京大虐殺)を引き起こした。1938年、近衛内闇は東亜新秩序建設の声明を出し、国民政府の要人( へ )を重慶から脱出させ、1940年に南京に傀儡政権を樹立させるなど、中国大陸における戦局はますます複雑化した。」
_________________
(答:ヘ汪兆銘)〉

2020津田塾大・学芸2/6:「
Ⅲ 【論述問題】 1940年1月に日米通商航海条約が失効した後、同年9月に日本軍が北部仏印に進駐するまでの経緯について、以下の語をすべて用いて説明しなさい。(250字以内)
 援蒋ルート 石油 第2次近衛内閣
_________________
〈解答例:
日中戦争が長期化する中の1940年9月、新体制運動を唱える近衛文麿の第2次近衛内閣が発足。前年に始まる第二次世界大戦でドイツが欧州を占領。この情勢下で、内閣は日独伊三国同盟を結び、国内では大政翼賛会を結成。そこで日中戦争打開のため、援蒋ルート遮断と深刻化する石油をはじめ軍需資材不足確保を狙う南進論が台頭。手始めに北部仏印進駐を断行した。これが東南アジアに利権を持つヨーロッパ諸国に脅威を与え、英米との対決が決定的なものとなった。(223字))〉

2017南山大・外総合2/13:「
問29 下線部d1941年、日米交渉がおこなわれたについて述べた文として、誤っているものを、下記のア~エから選びなさい。
 ア 日米の衝突を避けるため、第2次近衛文麿内閣の時に、政府間交渉が始まった。
 イ 日本軍の南部仏印進駐を受け、アメリカは在米日本資産を凍結し、対日石油輸出を禁止した。
 ウ 独ソ開戦を受け、近衛内閣は、対米強硬論を主張する閣僚を除くため、いったん内閣総辞職をおこなった。
 エ 中国・仏印からの全面的無条件撤兵等を要求するハル=ノートが提示されると、第3次近衛内閣は、対米開戦を決定した。」
_________________
(答:問29エ× ※開戦決定は東條英機内閣)〉

2017慶応大・文:「
問 次の文章を読んで、空欄(A~O)に該当する適当な語句をそれぞれの語群の中から選べ。語群の中に適当な語句がない場合は0を記入しなさい。
 1937年、( K )をきっかけに、宣戦布告のないまま日中戦争がはじまると、戦時体制の強化をはかった( L )内閣は、国民精神総動員運動を主導し思想統一をはかり、1938年には( M )を制定して物資や労働力編制を行った。1939年には軍需産業への労働力動員のため( N )が定められた。また、労使協調・国策協力のため、各職場に( O )がつくられるなど、総力戦体制が目指された。
 1柳条湖事件 2西安事件
 3近衛文麿 4平沼騏一郎
 5東條英機 6国家総動員法
 7国民徴用令 8隣組
 9大政翼賛会」
_________________
(答:K0(盧溝橋事件)、L3、M6、N7、O0(産業報国会))〉

2017関西学院大・全学部2/2:「
問9 次の文章a・bをよく読み、各々の正誤を判定し〇×で示せ(問題形式変更…東海林)。
 a.ドイツがソ連に侵攻を開始すると、日本は日ソ中立条約を締結する一方、資源確保のために北部仏印進駐を実行した。
 b.日本の南部仏印進駐以降さらに悪化した対米関係について、期限を切って交渉が成功しない場合は開戦に踏み切るという、帝国国策遂行要領が御前会議で決定された。
_________________
(答:問9a× ※北部仏印進駐(1940.9)と日ソ中立条約(1941.4)は、独ソ戦(1941.6)の前、b〇)〉

2017早稲田大・国際教養:「
問1 下線部1Matsuoka Yosukeの人物に関する記述として、間違っているものはどれか。1つ選べ。
 ア 日独伊三国同盟の締結に関与した。
 イ 日本の国際連盟からの脱退を宣言した。
 ウ 第二次近衛内閣の外相を務めた。
 エ 日ソ中立条約の締結に関与した。
 オ 第二次大戦後は、A級戦犯としては訴追されなかった。」
_________________
(答:問1オ× ※ただし判決前に結核で病死)〉

2013法政大・法国際文化キャリアデザイン:「
問8 下線部(8)北部仏印(フランス領インドシナ)への進駐に関係する説明として正しいものをつぎのア~エのなかから一つ選べ。
 ア アメリカ合衆国はこれを非難して石油の対日輸出禁止に踏み切った。
 イ 日本はベトナムの独立と親日政権の樹立を目的としていた。
 ウ 日本はこれに先だって南部仏印進駐を行っていた。
 エ この直後、日独伊三国同盟が結ばれた。」
_________________
(答:問8エ〇 ※ア×石油の対日輸出禁輸は南部仏印進駐(1941年7月)直後の8月、イ×主に資源の確保、ウ×日本に近い北部が先)〉

◇近現§207.第3次近衛文麿内閣の覚え方(戦前重要内閣⑧2事項)◇A

[ゴロ]身近の難物(なんぶつ)は/要領よい抵抗策遂行
(第衛内閣・印進駐実行)(帝国策遂行要領

[句意]身近の難しい問題はいかに要領よい抵抗策を遂行するかだ、という句。なお第2次内閣と第3次内閣は連続しているので区別する必要はあまりないが、しないと多すぎてゴロ句が煩雑になる。2つに分けて覚えることとしたい。

[point]
1.第3次近衛内閣は、南部仏印進駐を行い、和戦両様の準備をする帝国国策遂行要領を決定した。
[解説]
1.第2次近衛内閣は日米交渉の継続をはかり、対米強硬論をとる松岡外相を除くためいったん総辞職した。
2.第3次近衛内閣(1941.7/18~10/18)は、成立直後の7月末、すでに決定されていた南部仏印進駐を実行。
3.これに対してアメリカは在米日本資産を凍結し、対日石油輸出の禁止を決定した。アメリカは、日本の南進と「東亜新秩序」建設を阻止する意思を明確に示し、イギリス・オランダも同調した。
4.日本の軍部はさらに危機感をつのらせ、「ABCD包囲陣」の圧迫をはね返すには戦争以外に道はないと主張した。
5.この情勢下で開かれた、9月6日の御前会議は、日米交渉の期限を10月上旬と区切り、交渉が成功しなければ対米(およびイギリス・オランダ)開戦にふみ切るという帝国国策遂行要領を決定した。
6.日米交渉は、アメリカ側が日本軍の中国からの全面撤退などを要求したため、妥協点を見出せないまま10月半ばを迎えた。日米交渉の妥結を強く希望する近衛首相と、交渉打ち切り・開戦を主張する東條英機陸軍大臣が対立し、10月16日に近衛内閣は総辞職した。

2021関西学院大・教育経済国際社会神総合2/2:「
問10.次の文章a・bをよく読み、各々の正誤を判定し〇×で示せ(問題形式変更…東海林)。
 a.アメリカが日米通商航海条約の廃棄を日本側に通告すると、阿部信行内閣は資源確保のため南部仏印進駐を実行した。
 b.太平洋戦争に際して、政府は国民精神総動員運動を展開して戦時体制の構築をめざした。」
_________________
(答:問10a×阿部信行内閣→第三次近衛文麿内閣、b〇)〉

2021青山学院大・全2/7:「
問8 下線部e石油などの天然資源を確保しようと東南アジアヘ進出に関連して、この時に日本が「南方」に求めた天然資源として誤っているものを一つ選べ。
 ① 天然ゴム ② ボーキサイト
 ③ 錫  ④ ウラン」
_________________
(答:問8④)〉

2020慶応大・経済2/13:「
問9 下線部C抗戦力に関連して、日本の抗戦力が米英よりもはるかに弱いことが明らかになったにもかかわらず、日本は米英に対する宣戦布告へと向かうことになった。これについて、以下の(1)に答えなさい。
(1) 次のa~cはそれぞれ下の年表のどこにはいるか.年表中の空欄1~7の中から選びなさい。(重複使用不可)
 a.アメリカが日本に日米通商航海条約の破棄を通告した。
 b.アメリカが日本にハル=ノートを提示した。
 c.アメリカが日本への石油輸出を全面的に禁止した。
     1
 日本軍が海南島の占領を開始した。
     2
 日独伊三国同盟が締結された。
     3
 日ソ中立条約が調印された。
     4
 独ソ戦争が始まった。
     5
 日本が南部仏印への遮駐を開始した。
     6
 第3次近衛内閣が「帝国国策遂行要領」を決定した。
     7
 日本が米英に対して宣戦を布告した。」
_________________
(答:問9a2、b7、c6)〉

2017同志社大・グロコ2/8:「
 日中戦争の全面化の発端となった盧溝橋事件(1937年7月)から、日本のポツダム宣言受諾(1945年8月)までのおよそ8年間に、首相を務めたのは計7人である。この中で、軍人でないのは、就任直前まで貴族院議長を務めていた近衛文麿と枢密院議長を務めていた( g )である。在任期間で見ると、近衛が最も長く、(カ)東條英機がそれに続く。一方、最も在任期間が短いのは鈴木貫太郎であり、( キ )がそれに続く。( キ )が首相に就任してまもなく、ヨーロッパではドイツ軍がポーランドに侵攻した。これをきっかけに、イギリスとフランスはドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が始まった。
 在任期間の最も長い近衛は、三度、首相に就任した。第1次内閣では、「国民政府を対手(あいて)にせず」や「東亜新秩序建設」などを盛り込んだ三度の声明(「近衛声明」)を発表した。近衛は1939年1月に総辞職し、枢密院議長を務めていたが、1940年6月に辞任した後、7月に第2次内閣を組閣した。近衛は( h )運動を推進し、10月に自らを総裁とする(ク)新組織を誕生させた。なお、この新組織に合流するため、既存政党が7月から8月にかけて相次いで解党した。1941年7月には内閣改造を実施して第3次内閣を組閣したが、閣僚の半数は軍人が占めるに至った。
【問g】空欄( g )に当てはまる人物名(姓名)を記入せよ。この人物は独ソ不可侵条約の成立に衝撃を受け、「欧州に複雑怪奇なる新情勢が生じ、新しい政策樹立が必要になった」と声明して、絵辞職した。
【問カ】下線部カに関して、この人物が首相を務めていた期間の出来事として誤っているものを下記から1つ選び、その番号を記入せよ。
 1.ガダルカナル島撤退
 2.サイパン島陥落
 3.東京大空襲 4.大東亜会議
【問キ】空欄(キ)に当てはまる人物名として正しいものを下記から1つ選び、その番号を記入せよ。
 1.林銑十郎 2.阿部信行
 3.米内光政 4.小磯国昭
【問h】空欄(h)に当てはまる語句を漢字3字で記入せよ。
【問ク】下線部クに関して、この団体の下部組織の名称として誤っているものを下記から1つ選び、その番号を記入せよ。
 1.労働組合 2.町内会
 3.隣組 4.部落会」
_________________
(答:問g平沼騏一郎、問カ×小磯国昭内閣の時、問キ2、問h新体制、問ク1)〉

2017早稲田大・文:「
 1939年、日本が日中戦争を全面化させ、「[ C ]」の形成をすすめると、アメリカは[ A ]条約の廃棄を日本に通告し、1940年、石油・屑鉄の対日輸出を制限して、中国への援助を強化した。日本は武力南進態勢を固める一方、1941年、c外交交渉で日米両国の対立を調整しようとはかった。しかし、御前会議で日米交渉が成立しなければ開戦に踏み切るとの「[ D ]」を決定し、12月8日、アメリカ・イギリスに宣戦布告して、戦争に突入していった。1942年、アメリカは日本に対する反攻作戦を本格化し、1944年後半から日本本土に対する空襲が激しくなった。
問2 空欄Aにあてはまる語句を漢字6字で記入しなさい。
問5 空欄Cにあてはまる語句を漢字5字で記入しなさい。
問6 下線cに関連する説明として誤っているものはどれか。1つ選べ。
 ア 交渉は野村吉三郎と国務長官ハルとの間ですすめられた。
 イ 第2次近衛内閣は対米強硬論の東條英機陸相を除くためいったん総辞職した。
 ウ 交渉を継続しようとする近衛首相と打ち切りを主張する東條英機陸相が対立した。
 エ アメリカ側はハル=ノートで満州事変以前の状態に復帰することなどを要求した。
 オ 日本側はハル=ノートを最後通告とみなし、交渉は不成功と判断した。
問7 空欄Dにあてはまる語句を漢字8字で記入しなさい。
_________________
(答:問2A日米通商航海、問5C東亜新秩序、問6イ×東條英機陸相→松岡洋右外相、問7帝国国策遂行要領)〉

2017南山大・外(英米)総合2/13:「
問29 下線部d1941年、日米交渉がおこなわれたについて述べた文として、誤っているものを、下記のア~エから選びなさい。
 ア 日米の衝突を避けるため、第2次近衛文麿内閣の時に、政府間交渉が始まった。
 イ 日本軍の南部仏印進駐を受け、アメリカは在米日本資産を凍結し、対日石油輸出を禁止した。
 ウ 独ソ開戦を受け、近衛内閣は、対米強硬論を主張する閣僚を除くため、いったん内閣総辞職をおこなった。
 エ 中国・仏印からの全面的無条件撤兵等を要求するハル=ノートが提示されると、第3次近衛内閣は、対米開戦を決定した。」
_________________
(答:問29エ× ※開戦決定は東條英機内閣)〉

2017関西学院大・全学部2/2:「
問9 次の文章a・bをよく読み、各々の正誤を判定し〇×で示せ(問題形式変更…東海林)。
 a.ドイツがソ連に侵攻を開始すると、日本は日ソ中立条約を締結する一方、資源確保のために北部仏印進駐を実行した。
 b.日本の南部仏印進駐以降さらに悪化した対米関係について、期限を切って交渉が成功しない場合は開戦に踏み切るという、帝国国策遂行要領が御前会議で決定された。
_________________
(答:問9a×北部仏印進駐(1940.9)と日ソ中立条約(1941.4)は、独ソ戦(1941.6)の前、b〇)〉

2016早稲田大・法:「
問8 下線e日本経済が受けた打撃の打撃は、原油を中心とする資源小国である日本の弱みを痛切に感じさせることとなった。原油の産出量の少なさは、太平洋戦争とも密接に関連しているといわれている。アメリカの対日石油輸出禁止決定は日米開戦の一因となったが、その決定の直接の引き金となった日本の行為は何か。漢字で記述解答用紙に記入しなさい。」
_________________
(答:問8南部仏印進駐)〉

2013法政大・法国際文化キャリアデザイン:「
問8 下線部(8)北部仏印フランス領インドシナへの進駐に関係する説明として正しいものをつぎのア~エのなかから一つ選べ。
 ア アメリカ合衆国はこれを非難して石油の対日輸出禁止に踏み切った。
 イ 日本はベトナムの独立と親日政権の樹立を目的としていた。
 ウ 日本はこれに先だって南部仏印進駐を行っていた。
 エ この直後、日独伊三国同盟が結ばれた。」
_________________
(答:問8エ〇 ※ア×石油の対日輸出禁輸は南部仏印進駐(1941年7月)直後の8月、イ×主に資源の確保、ウ×日本に近い北部が先)〉

◇近現§208.華北分離工作の覚え方(4事項年代順)◇B

[ゴロ]タンク梅酢を/置きする/貨幣希望
塘沽(たんくー)停戦協定)(梅津何応欽(かおうきん)協定)(貨幣制度改革(幣制改革))(共自治政府)

[句意]タンクいっぱいの梅酢を買い置くための貨幣(おかね)を希望した、という句。

[point]
1.華北分離工作に際し、塘沽停戦協定→梅津・何応欽協定→国民政府の幣制改革→冀東防共自治政府と事態は推移した。
[解説]
1.中国東北地方を満州国(1932年)として割(さ)き取った日本軍部(関東軍)は、さらにその西方の華北を国民政府からの分離工作をすすめた。華北とは日本側の呼び名で、チャハル・綏遠(すいえん)・河北・山西・山東の華北五省をさす。
2.まず塘沽(たんくー)協定(1933.5/31)を結び、柳条湖事件に始まる満州事変の停戦に成功した。蔣介石の国民政府が、国内での対共産党掃討作戦を優先し、満州事変に対しては不抵抗政策をとったため、国民政府が協定に応じたもの。
3.さらに日本軍が軍事的圧力をかけ、支那駐屯軍司令官梅津美治郎が蒋介石の腹心何応欽との間に梅津・何応欽協定(1935.6/10)を結び、国民党勢力と中国軍を河北省などから撤退させることに成功
4.このころ国民政府は、イギリスの支援をうけて地域的な通貨の混在状態の解消をはかる幣制改革(1935.11/3)を断行し、華北を含む全国的な経済統一がなった。これに対し、日本の軍部は華北における国民政府の経済的支配力が強まることを恐れ、華北の割き取りをすすめることに。
5.そこで日本軍は河北省東部に侵入し、冀東(きとう)防共自治政府(1935.11/25)という傀儡政権を成立させ、華北を実質的に支配下に置き、華北分離を更に進めた。

2019早稲田大・文2/17:「
 また満州事変・日中戦争に際しては、多くの大学が戦争遂行を支える国民の育成を強調し、国策への協力の姿勢を強く見せた。また、満州国やf日本の後援により国民政府から分離・設立された政権からの留学生を受け入れた機関も多かった。
問7.下線fに関連する記述として正しいものはどれか。1つ選べ。
 ア.日本は塘沽停戦協定を無視して華北分離工作を強行した。
 イ.冀東地域に何応欽を首班とする冀東防共自治委員会が成立した。
 ウ.蔣介石の国民政府から汪兆銘が離脱し、重慶政府を設立した。
 エ.近衛内閣は日・満・華の善隣友好と共同防共を訴える声明を出した。
 オ.大東亜会議には重慶政府の代表も参加した。」
_________________
(答:エ〇 ※ア×無視強行せず、イ×何応欽→殷汝耕、ウ・オ×重慶→南京)〉

2017明治大・文:「
A.1933年(昭和8)5月の[ a ]の締結によって、柳条湖事件以来の日中間の事実上の戦争状態は停止されたかに見えたが、「満洲国」では内戦状態が続くとともに軍部は華北分離工作を進めた。中国国内では、抗日運動の気運が高まり、1936年12月の[ b ]をきっかけとして国共合作への動きが強まった。
問1.空欄a・bに入るのに適当な語句を漢字で記せ。」
_________________
(答:a塘沽停戦協定、b西安事件)〉

2017関西学院大・文2/3:「
問8 次の文章a・bをよく読み、各々の正誤を判定し〇×で示せ(問題形式変更…東海林)。
 a.五・一五事件は、北一輝の右翼思想に影響を受けた皇道派の一部青年将校たちが首相官邸や警視庁などを襲撃した事件で、首都には戒厳令が布告された。
 b.関東軍によって進められた華北分離工作に対して、中国の民衆の間には抗日救国運動が激化し、盧溝橋事件をきっかけに国民政府は日本への抗戦を決意した。」
_________________
(答:問8a×戒厳令は布かれていない、b×盧溝橋事件→西安事件)〉

2016早稲田大・社会科学:「
 満州事変発生の当初、出先軍部のあいだでは、独立国案はまだ具体的考慮に上っておらず、満州併合論が支配的であった。それから三、四カ月しか経たない昭和六年の暮れには、独立国家案はすでに関東軍の既定計画となっていた。
 満州国独立の結果、地理的つながりや民族的、経済的な不可分の関係からして、華北の問題が重要性をましたことは当然である。ことに張学良政権が京津を拠点に、反満活動に出ていたので、関東軍としても重大関心をいだかざるを得なかった。北方ソ連との関係は幸い北鉄交渉などによって、小康を得ていたが、(4)華北の状勢は久しく不明朗な様相をつづけていた
問4 下線部(4)に関連して、満州事変後の動向についての記述として、適切なものはどれか。2つ選べ。
 イ 日本は北京・天津地区に軍隊を増強した。
 ロ 塘沽停戦協定により、日本軍が河北省東北部の治安維持に当たることになった。
 ハ 関東軍は華東に防共自治委員会を成立させた。
 ニ 日本政府は軍部の華北分離工作に同調した。
 ホ 日本軍は華北における国民政府の幣制改革に協力した。」
_________________
(答:問4イ〇、ニ〇 ※ロ×治安維持には中国警察があたることになった、ハ×華東→華北、ホ×日本軍ではなくイギリスが協力)》

◇近現§209.北部ならびに南部仏印進駐の覚え方 ◇B

[ゴロ]北より逃がそうとして/四囲死闘接近
部進駐・1940年・第次近衛内閣・くず鉄ガソリン禁輸)(第次近衛内閣・部進駐・1941年・輸)

[句意]北より逃がそうとしたが、南の四囲に死闘が接近してしまった、という句。「南」は「3(み)南(なみ)」と読んでください。2次、3次の区別のみで近衛内閣は省略しているので注意して下さい。

[point]
1.第2次近衛内閣のときに北部仏印進駐を行いくず鉄ガソリン禁輸の、第3次近衛内閣のときに南部仏印進駐を実行し資産凍結石油禁輸のそれぞれ報復をうけた。

2021中央大・文2/10:「
 1924年に元老の松方正義が死去すると、西園寺はただ一人の元老となった。その後、③西園寺が存命した1940年までの間は、政党内閣の確立や軍部の台頭といった政治・社会情勢の目まぐるしい変化の時期であったが、西園寺は最後の元老として、その役割を果たし続けたのである。
問5 下線部③に関連して、1940年に起きた政治・社会における出来事に関する記述として正しいものを、次のア~オの中から一つ選べ。
 ア.東条英機が中心となり新体制運動が推進され、ナチ党やファシスト党にならって挙国一致の政治体制の樹立を目指し、大政翼賛会が結成された。
 イ.日独伊三国の相互援助を協定した目独伊三国同盟が締結され、アメリカはこれに対して、くず鉄や鉄鋼の対日輸出禁止といった経済制裁措置をとった。
 ウ.第二次世界大戦への不介入方針をとった平沼騏一郎内閣の総辞職を受けて、海軍出身の米内光政が親英米路線の内閣を組閣した。
 エ.「労使一体・産業報国」をスローガンとして組織された大日本産業報国会は、各職場の労働組合を通じて、労働者の動員や統制にあたった。
 オ.マッチや砂糖などの物資を切符と交換でわたす配給の方法である切符制が導入され、同時に米の配給制も1940年から開始された。」
_________________
(答:問5イ〇 ※ア×東条英機→近衛文麿、ウ×米内光政→阿部信行、エ×労働組合は消滅、オ×1940年→1941年)〉

2020慶応大・商学部2/14:「
 1941年7月の[(105)(106)]によって南進政策が本格化すると、アメリカが対日石油輸出を禁止するなど、経済封鎖が強化された。」
_________________
(答:空欄[南部仏印進駐]※原問には選択肢54語あり)〉

2017慶応大・法:「
 その後、欧州情勢の変化に伴い、その実現に向けた気運が再び盛り上がることになるが、これを外相として推進し結実させたのは、(イ)であった。(イ)は、ソ連まで加えた連携を構築することにより。日本の対米交渉力を向上させ、それが対米関係改善の道につながると考えていたのである。しかし、欧州情勢の変化に伴いアジアに生まれた力の真空に乗じ、9月に日本軍が行った[ 44 ]進駐は、ほぼ同峙に行われた冒頭の外交政策上の決断とともに、米国の反発を招くことになる。(イ)の外交構想とは異なり、むしろ日米戦争への道筋を補強することになってしまったのである。
〔設問2〕
空欄(イ)の人物の説明として適切でないものを選べ。
①.極東国際軍事裁判に際しA級戦犯として起訴された。
②.基本国策要綱を決定した外相時代、大東亜共栄圈の構想を公にした。
③.ポツダム宣言受諾をめぐり御前会議に出席して受諾に反対した。
④.国際連盟の総会で日本を代表し演説した。
⑤.外相として日ソ中立条約の締結を実現した。
_________________
(答:設問2③ ※(イ)は松岡洋右。当時重い結核にかかっていた。空欄44北部仏印 ※原問には56語句の選択肢あり)

2017学習院大・法:「
(5)下線部(5)国外ではナチス・ドイツの勢力が強まりに関し、日本は日独伊三国同盟締結のほぼ同時期にとった軍事行動が、アメリカによる航空機用ガソリン・屑鉄の対日輸出禁止措置をまねいた。この軍事行動を、漢字6文字で答えなさい。」
_________________
(答:北部仏印進駐)

2017明治大・文:「
1938年1月、政府は、「爾後国民政府を対手とせず」との声明を出したが、かえって戦争終結への道を遠ざける結果となった。その後、重慶に首都を移した中国政府は、欧米諸国の支援を受けて抗戦を続けたため、日本軍はその援助ルートを遮断するために南進し、1940年9月、[ e ]に進駐するに至り、英米との対立をさらに深めることとなった。」
_________________
(答:e北部仏印)〉

2017近畿大・全1/28:「
問6.下線部(d)印度支那に関連して、日本軍の北部仏印進駐が実行されたのはいつか。次の①~④のうち最も適当なものを一つ選べ。
 ①平沼麒一郎内閣総辞職前の1939年8月
 ②第2次近衛文麿内閣成立後の1940年9月
 ③第3次近衛文麿内閣成立後の1941年7月
 ④東条英機内閣成立後の1941年9月」
問7.上の問6の正解の当時、仏印の宗主国だったフランスの状況についての文として最も適当なものはどれか。次の①~④のうち一つを選べ。
 ① ドイツとの戦争が目前に迫り、植民地防衛の余裕がなかった。
 ② 日本の同盟国であったために、突然の日本軍の侵入に慌て、仏印の防衛ができなかった。
 ③ 他の植民地で独立戦争が同時期に勃発し、仏印の防衛ができなかった。
 ④ 日本軍の北部仏印進駐時に、すでにドイツに降伏していた。
_________________
(答:問6②、問7④)〉

2016早稲田大・法:「
問8 下線e日本経済が受けた打撃の打撃は、原油を中心とする資源小国である日本の弱みを痛切に感じさせることとなった。原油の産出量の少なさは、太平洋戦争とも密接に関連しているといわれている。アメリカの対日石油輸出禁止決定は日米開戦の一因となったが、その決定の直接の引き金となった日本の行為は何か。漢字で記述解答用紙に記入しなさい。」
_________________
(答:問8南部仏印進駐)〉

2016法政大・法国際キャリア:「
問9 下線部e南部仏印は現在のどこのことをいうか。以下のア~オのなかから一つ選べ。
 ア ベトナム南部
 イ マレー半島
 ウ マーシャル諸島
 エ フィリピン、ルソン島周辺
 オ インド北東部」
_________________
(答:ア)〉

2009慶応大・経済:「
Ⅲ 明治期以降の鉄鋼業の発展に関連した次の文章を読んで、以下の問10~問14に答えなさい。
 明治期には、政府は産業政策を推し進め、そのなかで鉄鋼の国産化もめざした。戦前期の鉄鋼業にとって、C日本の大陸進出は重要な役割をはたしたが、昭和期に入っても日本の鉄鋼業の生産能力には限界があった
問12 下線部Cに関連して、次の問に答えなさい.
 以下の年表は、日本の中国進出と鉄鋼資源をめぐる日本の対外関係に関逓する出来事を年代の古い順に並ベたものである.次の事項a~dは年表のどこに入れるのがもっとも適切か。年表中の空欄0~9のなかから一つずつ選びなさい(重複使用可).

a.アメリカがくず鉄の対日輸出を禁止する
b.鞍山製鉄所が設立される
c.第2次大隈内閣が、大冶鉄山を含む漢冶萍公司を日中の合弁とすることを要求する
d.日本製鉄会社が設立される

  0
南満州鉄道株式会社が設立される(翌年本社が中国大陸の(大連)に置かれる)(注東海林以下同じ:1906年)
  1
第一次世界大戦が始まる(注:1914年)
  2
第1次山東出兵が行われる(注:1927年)
  3
張作霖爆殺事件が起こる(注:1928年)
  4
重要産業統制法が制定される(注:1931年)
  5
(第一次上海事件)にて日中両軍が衡突し、戦死した兵士が「爆弾三勇士」として広く報道される(注:1932年)
  6
満州国建国宣言が発せられる(注:1932年)
  7
第1次近衛内閣、「国民政府を対手とせず」と声明する(第1次近衛声明)(注:1937年)
  8
アメリカが日米通商航海条約の廃棄を日本側に通告する(注:1939年)
  9 」
_________________
(答:問12a9※1940年、b2、c2※21箇条要求は1915年、d7※1934年設立)〉

◇近現§210.国防方針の推移の覚え方(3方針・成立順)◇B

[ゴロ]コックさんが/喜寿の/洋子に/ずっこ要領
国策基準)(帝国国策要綱)(帝国国策遂行要領

[句意]コックさんが77歳(喜寿)の洋子に手抜き(ずっこけ)料理のコツ(要領)を教えた、という句。「コックさん」は3語に共通のゴロです。

[point]
1.日本の国防方針は、国策の基準→帝国国策要綱→帝国国策遂行要領と推移した。
[解説]
1.広田弘毅内閣は1936年、ワシントン・ロンドン両海軍軍縮条約の失効に対応し、帝国国防方針(1907)の改定をおこなった。これを「国策の基準」いう。陸軍は北進論(対ソ戦)を、海軍は南進論(南洋諸島および東南アジアへの進出)を主張したため、両論を併記した。

2.第2次近衛内閣は1941年7月、帝国国策要綱を決定した。すなわち海軍の主張する南部仏印進駐と、陸軍の主張する対ソ戦準備=関東軍特種演習の、2正面作戦(南北併進)を決めた。
3.第3次近衛内閣は1941年9月、帝国国策遂行要領を決定した。即ち、10月上旬になっても日米交渉が妥結しないときは、米・英・蘭との開戦を決めた。

2020学習院大・法国際社学2/10:「
問8.下線部⑧1936年11月に関して、ときの広田弘毅内閣期の五相会議で1936年8月に決定した、従来の北進論に加えて新たに南進論を盛り込んだことで有名な決定を何というか、その呼称を記しなさい。」
_________________
(答:問8国策の基準)〉

2020同志社大・グロコミュ法2/8:「
【設問q】近衛文麿が組閣した第1次と第2次内閣が実施した政策として正しいものを次の1~4のうちから1つ選べ。
 1.日独伊三国同盟の調印
 2.価格等統制令の公布
 3.帝国国防方針の改定
 4.翼賛選挙の実施」
_________________
(答:問q1〇 ※2×阿部信行内閣、3×広田弘毅内閣、4×東条英機内閣)〉

2020慶応大・経済2/13:「
問9 下線部C抗戦力に関連して、日本の抗戦力が米英よりもはるかに弱いことが明らかになったにもかかわらず、日本は米英に対する宣戦布告へと向かうことになった。これについて、以下の(1)に答えなさい。
(1) 次のa~cはそれぞれ下の年表のどこにはいるか.年表中の空欄1~7の中から選びなさい。(重複使用不可)
 a.アメリカが日本に日米通商航海条約の破棄を通告した。
 b.アメリカが日本にハル=ノートを提示した。
 c.アメリカが日本への石油輸出を全面的に禁止した。
     1
 日本軍が海南島の占領を開始した。
     2
 日独伊三国同盟が締結された。
     3
 日ソ中立条約が調印された。
     4
 独ソ戦争が始まった。
     5
 日本が南部仏印への遮駐を開始した。
     6
 第3次近衛内閣が「帝国国策遂行要領」を決定した。
     7
 日本が米英に対して宣戦を布告した。」
_________________
(答:a2、b7、c6)〉

2019青山学院大・全2/7:「
問6 下線部b広田弘毅に該当する人物について、次の選択肢のなかから最も適切なもの一つ選べ。
 ① 初めて外務大臣を務めた内閣は、政党内閣ではなかった。
 ② 外務大臣を務めた内閣は、帝国国防方針の改定に基づき、「国策の基準」を決定した。
 ③ 戦争末期にソ連に派遣され、和平交渉を行った。
 ④ A級戦犯とされたが、獄中で亡くなった。」
_________________
(答:①〇斎藤実内閣のときの外相 ※②×外務大臣ではなく首相、③×ソ連に行っていない、④×絞首刑に処された)〉

2017関西大・全学部2/8:「
問J【(ア)林銑十郎(イ)近衛文麿(ウ)広田弘毅】内閣は、帝国国防方針の改定に伴い、「国策の基準」によって、大陸における日本の地歩を確保する一方で、南方へ漸進的に進出する方針を決定した。」
_________________
(答:問Jウ)〉

2017早稲田大・文:「
 1939年、日本が日中戦争を全面化させ、「[ C ]」の形成をすすめると、アメリカは[ A ]条約の廃棄を日本に通告し、1940年、石油・屑鉄の対日輸出を制限して、中国への援助を強化した。日本は武力南進態勢を固める一方、1941年、c外交交渉で日米両国の対立を調整しようとはかった。しかし、御前会議で日米交渉が成立しなければ開戦に踏み切るとの「[ D ]」を決定し、12月8日、アメリカ・イギリスに宣戦布告して、戦争に突入していった。1942年、アメリカは日本に対する反攻作戦を本格化し、1944年後半から日本本土に対する空襲が激しくなった。
問7 空欄Dにあてはまる語句を漢字8字で記入しなさい。」
_________________
(答:問7帝国国策遂行要領)〉

2017関西学院大・全学部2/2:「
問9 次の文章a・bをよく読み、各々の正誤を判定し〇×で示せ(問題形式変更…東海林)。
 a×ドイツがソ連に侵攻を開始すると、日本は日ソ中立条約を締結する一方、資源確保のために北部仏印進駐を実行した。
 b○日本の南部仏印進駐以降さらに悪化した対米関係について、期限を切って交渉が成功しない場合は開戦に踏み切るという、帝国国策遂行要領が御前会議で決定された。」
_________________
(答:問9a×日ソ中立条約→独ソ戦争の順、b〇)〉

2017立教大・文:「
 盧溝橋は、元朝の開祖であるフビライ=ハンに仕えたマルコ=ポーロによって、賞賛された石橋である。(10)1937年、この橋付近で起きた日本軍と中国軍の衝突事件をきっかけとして日中戦争が始まり、戦争は長期化していった。
問10.これより後の出来事はどれか。次のa~dから1つ選び、その記号を選べ。
 a.第1次上海事変が起こった
 b.国民政府が首都を重慶に移した
 c.張学良により西安事件が起こされた
 d.広田弘毅内閣が北進論と南進論を併記する「国策の基準」を発表した」
_________________
(答:b1937年12月、盧溝橋事件は同年7月7日 ※a1932年、c1936年、d1936年)〉

2016明治大・商:「
 1936年、広田弘毅内閣ではさらなる大陸や南方進出を促進するために、帝国国防方針を改定し、いわゆる「[ オ ]」を策定した。「[ オ ]」には南方資源の獲得のための「南進論」と満州国領上を拡張するため対ソ戦をも視野に入れた「北進論」の両拡張政策が併記されていた。共産主義の影響力増大は日本の「国体」を揺るがすものとして大きな脅威ととらえられた。軍事拡張主義を保持しながらソ連による共産主義勢力の拡大から守るという利害が日独間で一致し、日独防共協定が締結された。さらに「ベルリン=ローマ枢軸」のドイツ・イタリアのつながりから、防共協定にイタリアも加入することにより、1937年、日独伊防共協定が成立した。」
_________________
(答:オ国策の基準)〉

2015関西大・全学部2/8:「
(J)1936年の( 11 ){(ア)帝国国防方針(イ)帝国国策要綱(ウ)帝国国策遂行要領}の改定にもとづいて、広田弘毅内閣は「国策の基準」で従来の対ソ戦略に加え、南方へ漸進的に進出する方針を決定し、軍備増強を推進した。」
_________________
(答:ア)〉 



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