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東海林直人のゴロテマ日本史◇近現6(ノルマントン号事件~2大政党)

◇近現§51.ノルマントン号事件・大津事件の覚え方(2事件年代順)◇B

[ゴロ](いの)青津(あおつ)事件
上馨・ノルマントン号事件)(木周蔵・大事件)

[句意]意味というより、対象4語句を無駄なく結びつけたナンセンスの句。すなわち「祈る大津事件」の大津を青津と造語したもの。

[point]
1.条約改正井上馨外相のときノルマントン号事件青木周蔵外相のとき大津事件がおこり、交渉が頓挫。
[解説]
1.ノルマントン号事件(1886~87)は、横浜出航のイギリス貨客船ノルマントン号(3,000トン)が、1886年熊野灘(和歌山県)で座礁沈没した海難事件。イギリス人・ドイツ人の白人船員20数人は乗客を見殺しにして全員ボートで脱出し救助されたが、置き去りにされた日本人乗客25人およびインド人・中国人火夫10数人は全員水死した
 神戸駐在イギリス領事は領事裁判船長以下を最初無罪とした。これに対し国内世論が沸騰したため、改めて横浜領事で再審されたが、船長が3ヶ月の禁固になったのみで、賠償もないという非道なものであった。この事件で世論は人種差別と不平等条約への怒りを爆発させた。
 税権を回復しても、裁判権を奪われているままでは、麻薬密輸を初めとした経済犯を処罰できない、すなわち税権を回復できても意味がないことがはっきりした。このため法権回復が交渉の主眼となる。
2.大津事件(1891)は、大津事件は1891年、琵琶湖でロシア皇太子(のちのロシア革命で処刑されたニコライ2世)が警備の巡査に斬りつけられ重傷を負った事件。皇太子はシベリア鉄道建設起工式に向かう途中に日本を訪問していたもの。
 このとき大国ロシアが小国日本に対して報復に出るのではないかと、日本中がパニックに陥った。日本政府は皇室に対する罪で巡査の死刑を要求したが、大審院(院長児島惟謙(こじまいけん))はニコライが外国人であるから皇室の扱いは出来ないとして無期懲役の判決を下した。政府の執拗な裁判に対する干渉を排したことで「司法権の独立」としてたたえられることになった。
3.フランス人画家ビゴー(1860~1927)は風刺雑誌トバエ」でノルマントン号事件など条約改正問題を辛辣に風刺した

2016慶応大・商A方式:「
 さて、明治政府は当初より不平等条約改正の交渉を目指していた。1873年に外務卿となった[ 55 ]は、樺太・干島交換条約の締結ののち、条約改正交渉を試みたが、イギリス・ドイツの同意が得られなかった。1879年に外務卿(その後外務大臣)となった[ 56 ]は欧化政策を打ち出し、日本の近代化ぶりを示そうと試みた。その後外務大臣を務めた[ 57 ]が改正案を提示するものの、外国人判事任用問題に際し反対運動が盛り上がり、右翼団体の構成員に襲撃され交渉を中断した。その後外務大臣となった[ 58 ]は、ロシアの皇太子が負傷するという大津事件により引責辞職した。
 [ 59 ]が外務大臣になると、1894年にイギリスとの間に( c )が調印され、領事裁判権の撤廃に成功した。
_________________
(答:c日英通商航海条約、55寺島宗典、56井上馨、57大隈重信、58青木周蔵、59陸奥宗光、※原問には選択肢が69あり)〉

2016立教大・済コミュ福観光:「
問5.この人物(井上馨)に関する記述として正しいのはどれか。次のa~dから1つ選べ。
 a.初代外務大臣として、外国人の内地雑居を認める代わりに領事裁判権を撤廃する条約改正交渉を進めた
 b.第2回総選挙では、内務大臣として激しい選挙干渉を行った
 c.ドイツ人顧問モッセの助言を受けて地方制度の改革を進めた
 d.山口県萩で発生した前参議・前原一誠の反乱に加わるため、政界から下野した」
_________________
(答:問5a)〉

2016立教大・現心社コミュ福:「
2.明治憲法が施行された後の1891年5月に、いわゆる大津事件が発生し、さらに10月には、濃尾大震災という未曾有の試練が政府をおそった。大津事件に対して、政府は4対外関係への配慮から、様々な事案処理策を検討した。
B問4.これ(対外関係への配慮から、様々な事案処理策を検討した)に関する記述として正しいのはどれか。次のa~dから1つ選べ。
 a.外相が引責辞任し、条約改正交渉は一時中止された
 b.政府は、担当裁判官を解任し、司法権の独立に介入した
 c.大審院長児島惟謙は、犯人に日本の皇室に対する刑罰の適用を主張した
 d.大審院に外国人判事が任用されることになった」
_________________
(答:問4a)〉

2013立教大・全学部2/6:「
 条約改正に関する次の出来事
(a.井上馨の外相辞任
 b.大津事件
 c.小村寿太郎外相時の日米通商航海条約締結
 d.ノルマントン号事件
 e.陸奥宗光外相時の日英通商航海条約締結)を年代順に並べよ」
_________________
(答:dabec。「祈る青津」でノルマントン号事件後、井上外相が辞任だからd→a→bが判明し、e→cは基礎で立教大を受けるくらいの生徒なら常識であろう〉

◇近現§52.(近代日朝関係史の覚え方①(日清戦争前・7事件条約年代順)◇A

[ゴロ]閔后(ミンこう)の手記は/人生への/好感展望のみ
氏(ミンシ)政権・華島事件・日朝好条)(午軍乱・物浦(さいもっぽ)条約)(申事変・城条約・津条約・穀令・甲午農民戦争)

[句意]閔后(閔妃(ミンピ))の手記(に書かれているの)は、人生に対する好感の展望のみ、という句。「さあこれから日本の明治維新にならって改革すれば、我が朝鮮はすばらしい近代国家になるだろう」などという、明るい展望で満ち溢(あふ)れていただろうということ。「閔」は朝鮮語では(ミン)。「斉」はゴロのため(セイ)と読んでほしい。

[point]
1.日朝関係史前半(日清戦争以前)は、閔氏政権→江華島事件→日朝修好条規→壬午軍乱→斉物浦条約→甲申事変→漢城条約→天津条約→防穀令→甲午農民戦争と推移。
[解説]
1.閔氏政権成立(1873)。守旧派の大院君(テオングン)政権に替わり、日本の明治維新の影響うけ、親日=開明派政権として成立。
2.江華島事件(1875)。開国を拒む朝鮮に対して日本軍艦が沿岸測量で挑発し、軍事行動で威嚇し開国を迫る。
3.日朝修好条規(1876)。対等関係を崩す不平等条約で、全権は黒田清隆
ⅰ)清国の朝鮮に対する宗主権否定
ⅱ)日本に領事裁判権を与える、
ⅲ)日本に関税免除特権を与えるという不平等条約で、釜山(プサン)・元山(ウォンサン)・仁川(インチョン)3港の開港も決まった。
4.壬午軍乱(1882)。攘夷親清派の大院君(テウォングン)らによる閔氏追放をねらう反日クーデター清国軍の介入で失敗。大院君は失脚し、閔氏事大党政権は清のてこ入れを機に親日から親清派へ転換。
5.斉物浦(チェムルポ)条約(1882)。軍乱の際公使館を襲われた日本は賠償要求をおこなう。朝鮮は日本側に謝罪と賠償金を支払い、公使館に警備兵をおく権利を与える。
6.甲申事変(1884)。日本公使館が支援し、独立党(金玉均(キムオクキュン)・朴泳孝(パクオンヒヨン))がおこした閔氏(事大党)政権打倒のクーデター閔氏政権は清国軍来援で乗り切る
7.漢城条約(1885)。朝鮮が日本側に賠償金・公使館守備軍の駐留権を与える。
8.天津条約(1885)。日中間(伊藤博文李鴻章(りこうしょう))の条約。日清両軍の朝鮮からの撤兵と、出兵時は日中が相互に事前通知すると約す。朝鮮による出兵要請は必要なしとして、両国は朝鮮を無視。
9.防穀令(1889)。凶作で朝鮮の地方官僚が、その地方での大豆・米の対日輸出禁止令を出したのが始まり。朝鮮は日本の圧力に屈し90年解除、日本に賠償金を支払う。
10.甲午農民戦争(攘夷運動、1894)。李朝末期の暴政に加え、日本を先頭に進出してきた外来資本主義による経済混乱が相まって生活苦が増大。反侵略反封建を唱える新宗教東学(トンハク)(指導者全琫順(チヨンボンジユン))の下に朝鮮南部農民が結集し、おこした大農民反乱。日清両軍が出兵。外国軍出兵を見て農民側が譲歩し収束へ。開戦を決意しており、撤兵したくない日本は、清国朝鮮の宗属関係破棄を要求。両国はこれを拒否。

2022大学入試共通テスト・日本史B:「
カ ズ:その後、ハワイ王国と日本とは、1871年に条約を結んでいるね。この条約で、ハワイの人が日本人を労働者として雇うことができる、ということが定められているよ。ハワイ王国では、サトウキビ栽培が盛んで、労働者として日本人移民を求めていたようだよ。
ミ キ:だけど、ハワイへの移民はしばらく行われず、移民事業が本格化するのは、1885年のことのようだね。c1885年からの約10年間、ハワイ政府と明治政府との合意で、約3万人の日本人がハワイに渡航したんだって。
カ ズ:なぜ、そんなに多くの日本人がハワイに渡ったのだろう。このことについて、もっと調べてみようよ。
問3 下線部cに関連して、1885年から1894年までの10年の間に生じた出来事に関して述べた次の文Ⅰ〜Ⅲについて、古いものから年代順に正しく配列したものを、後の①〜⑥のうちから一つ選べ。
 Ⅰ 日本と清国との条約により、両国の朝鮮からの撤兵が定められた。
 Ⅱ 日本とイギリスとの間で、領事裁判権の撤廃などを定めた条約が調印された。
 Ⅲ 朝鮮の地方官が大豆などの輸出を禁じたことに対し、日本政府が朝鮮に損害賠償を求めた。
 ① I-Ⅱ-Ⅲ ② I-Ⅲ-Ⅱ
 ③ Ⅱ-I-Ⅲ ④ Ⅱ-Ⅲ-I
 ⑤ Ⅲ-I-Ⅱ ⑥ Ⅲ-Ⅱ-I」
_________________
(答:問3② ※Ⅰの天津条約は1885年、Ⅱの日英通商航海条約は1894年、Ⅲの防穀令事件は1889年)〉

2020同志社大・全2/5:「
 北方では、j1875年にロシアとの条約が締結され、日露の国境は再編されたが、大国ロシアとの紛争の可能性は低下した。朝鮮に対しては、k岩倉使節団の外遊中に国交をめぐる対立が政府内で起こり、江華島事件を契機に日朝修好条規が締結された。条規のなかでは、l朝鮮が「自主ノ邦」と規定された。
問j.この条約の名称を漢字で記せ。
問k.朝鮮との国交をめぐる対立の際、一部の政治家が下野した。その政変は、[   ]政変と呼ばれた。[   ]に入る言葉を漢字3字で記せ。
問l.日本は、この規定により清が朝鮮に対して保有していた権利を否定しようとした。その権利として適当なものを下記より選べ。
 1.治外法権 2.宗主権
 3.関税自主権 4.統帥権」
_________________
(答:問j樺太・千島交換条約、問k征韓論、問l2)〉

2017早稲田大・国際教養
 1876年のb条約は朝鮮の領土を近代日本の事業に開くと同時に国際舞台へと開くきっかけでもあった。1884年に、一般にはc朝鮮王朝を打倒する企てと見なされている事件がおこったが、日本が期待していたような成果は得られなかった。1885年、d天津で中日間の協定が締結されたが、これは、当時中国がまだ保持していると見なしていた外交上の領土に対する中国の強い姿勢を示していた。その後間もなく1888年にはロシアと朝鮮の間に条約が結ばれ、またアメリカ公使が積極的な動きを見せるなど、ソウルは国際的な競争の場所と化していった。もはやこの勢力争いに決着をつけるのは戦争という手段しかないことは明白であり、1890年以降日本はその準備を進めていったのだ。
 e1894年の反乱は口実であり、中国との戦争は手段でであり、日本はそれによって朝鮮を日本の支配下に移せると信じたのだろう。朝鮮の支配が完了すると、日本軍は満州に侵攻せずそこにとどまり、守りの姿勢に入ったことは、日本の戦略目標が達成されたことを示していた。下関条約はこの事態を公認するものだったが、同時に日朝関係の「ロシア期」とも言える時期を開くものともなった。
問2 下線部bに関する記述として、正しいものはどれか。1つ選べ。
 ア 清と日本はこの「条約」で朝鮮を共同統治すると規定した。
 イ 朝鮮と日本はこの「条約」で朝鮮が自主の国であると規定した。
 ウ 清と日本はこの条約を承認しあった。
 エ 清と日本はこの「条約」で朝鮮の開国を規定した。
 オ 清は朝鮮とこの「条約」を結んで朝鮮の開国を承認した。
問3 下線部cに該当する「事件」名を漢字で記入せよ。
問4 下線部dに関する記述として、正しいものはどれか。2つ選べ。
 ア この「協定」は井上馨と李鴻章との間で締結された。
 イ この「協定」は朝鮮に対する清の支配権を取り決めた。
 ウ この「協定」は日清両国軍の朝鮮駐留を取り決めた。
 エ この「協定」は朝鮮に派兵する際、相互に事前通告することを取り決めた。
 オ この「協定」の規定を根拠に1894年日本は朝鮮に派兵した、
問5 下線部eに関する記述として、正しいものはどれか。2つ選べ。
 ア この「反乱」ほ防穀令をめぐる紛糾をきっかけとしておこった。
 イ この「反乱」は東学の信者を中心とする農民がおこした。
 ウ この「反乱」は日本の朝鮮保護国化に対する不満からおこった。
 エ 日本が朝鮮に出兵したため「反乱」はいっそう激しくなった。
 オ 朝鮮政府は「反乱」鎮圧のため、清に出兵を要請した。」
_________________
(答:問2イ、問3甲申事変(政変)、問4エ・オ、問5イ・オ)〉

2017慶応大・経済:「
 明治維新後、政府の一部にあった征韓論は敗れたものの、1876(明治9)年には、江華島事件をきっかけに、不平等条約である( b )を朝鮮に結ばせた。日本の強硬な朝鮮政策は、清を、つづいてロシアを刺激することになる。D日露開戦の1904年に韓国との間に( c )や第1次日韓協約を結んだ後、1910年には韓国併合を強行し、1945(昭和20)年まで植民地支配を行なった。

問8 上の文中の、b~cに入る適切な条約・文書名を、記述しなさい。なおbについては漢字6字で記入すること。
問12 下線部D日露開戦の1904年に韓国との間に( c )や第1次日韓協約を結んだ後に関連する次の文章を読んで、以下の(1)、(2)に答えなさい
(1)次の史料a~dは、1906年に交わされた条約・協約・協定からの抜粋である(原文の表記を適宜改めた)(ア~ウ)に入る適切な国名を下の1~7から選びなさい。

史料a
( ア )帝国政府は、( イ )政府の承諾を以て旅順口、大連ならびにその付近の領土及び領水の租借権及び該租借権に関連し又はその一部を組成する一切の権利、特権及び譲与を日本帝国政府に移転譲渡す。
史料b
日本国は韓国に於て政治上、軍事上及び経済上の卓絶なる利益を有するを以て、大ブリテン国は日本国が該利益を擁護増進せむが為正当且つ必要と認むる指導、監理及び保護の措置を韓国に於て執るの権利を承認す。但し該措置は常に列国の商工業に対する機会均等主義に反せざることを要す。
史料c
日本国政府は、韓国と他国との間に現存する条約の実行を全うするの任に当たり、韓国政府は今後日本国政府の仲介に依らずしで国際的性質を有する何等の条約若くは約束を為さざることを約す。
史料d
前記の目的〔極東における一般的平和の維持〕を達成するための最善の、かつ唯一の実際的方法は、日本、( ウ )、イギリス三国政府の間に充分な了解を形成することである。…韓国が外国と条約を締結するには日本の同意を要するものとする宗主権を日本が韓国に対しで樹立することは、今回の戦争の論理的帰結であり、かつ、東洋における永久の平和に直接寄与するであろう…           
   〔資料出所〕外務省編『日本外交文書』
 1アメリカ  2イギリス
 3韓国 4清国 5ドイツ
 6フランス 7ロシア
(2)上の史料a~dについて、それぞれの条約・協約・協定の名称を、記述しなさい。ただし、数次にわたる条約・協約・協定の場合には、第何次かを特定すること。」
_________________
(答:問8b日朝修好条規、c日韓議定書、問12(1)ア7、イ4、ウ1、(2)aポーツマス条約、b第2次日英同盟(協約)、c第2次日韓協約、d桂・タフト協定)〉

2016明治大・農:「
 19世紀末に入ると、朝鮮をめぐる日本と清の対立が表面化するようになった。1882(明治15)年には壬午事変が起き、その後の朝鮮政界における開化派の分裂は、エ甲申事変の原因となった。この事変により、朝鮮政界での日本の影響力は失われたが、その後も朝鮮をめぐる日清の対立は続いた。 1894(明治27)年には、日本・欧米による侵略や朝鮮王朝の封建支配に不満を持つ農民蜂起し、オ甲午農民戦争が起きた。朝鮮政府の依頼を受けて、清はその鎮圧のために朝鮮に出兵する一方で、日本も出兵を行い、この出兵はカ日清戦争の引き金となった。
問6 下線部エ甲申事変に関連して、甲申事変での中心人物としてもっとも適切なものを下記から一つ選べ。
 A金玉均 B高宗 C大院君
 D閔妃  E安重根
問7 下線部オ甲午農民戦争に関連して、甲午農民戦争を中心的に引き起こした農民が信仰した宗教の名前を漢字で記入せよ。」
_________________
(答:問6A、問7東学)〉

2013早稲田大・文:「
 朝鮮では1882年、日本の進出に対する不満などからc漢城(現ソウル)で反乱がおこり、1884年にはd急進的な改革をめざすグループのクーデター事件がおこった
問4 下線部c漢城(現ソウル)で反乱がおこりに関する説明として誤っているものはどれか。1つ選べ。
 ア 親日策をとる政権に対する兵士の反乱がきっかけとなった。
 イ 日本は軍隊を派遣し、反乱によって成立した政権を倒した。
 ウ 事件後、首謀者の処罰、賠償金の支払いなどを内容とする条約が結ばれた。 エ 事件後、日本は公使館守備兵を駐留させる権利を手に入れた。
 オ 事件後、清国は朝鮮に対する宗主権の強化をはかり、干渉を強めた。
5 下線部d急進的な改革をめざすグループのクーデター事件がおこったに関する説明として誤っているものはどれか。1つ選べ。
 ア 清仏戦争の時期をねらってクーデターを敢行することが計画された。
 イ クーデターは日本公使・駐留日本軍と結んで企てられた。
 ウ クーデター計画は事前に発覚し、清国の介入で未遂におわった。
 エ 事件後、日本と朝鮮のあいだでは漢城条約が結ばれた。
 オ 事件を機に日本国内では清国に対する強硬論がたかまった。
_________________
(答:問4イ×事件は1882年の壬午軍乱でそのような事実はない、※ウ〇済物浦条約で賠償金と公使館護衛としての漢城での軍隊駐留権を認めさせた、問5ウ×)〉

2012明治大・法学部:「
 日朝修好条規が締結された後、1882(明治15)年に、日本への接近を強める閔氏一族に対して大院君を中心とした勢力が反乱をおこし、日本大使館も襲撃の対象となった。この事態に対し日本政府は厳重に抗議し、結果として、日朝間において、[ 9 ]が締結され、日本は朝鮮に対し、賠償金の支払いと公使館守備兵駐留権を認めさせた。その後、朝鮮における日本と清国との対立が深まるなか、日本にならい国内改革を行おうとする独立党が日本公使館の援助のもとにクーデタをおこしたが、清の干渉により失敗した。この事件によりさらに悪化した日清関係を打開するために、1885(明治18)年には、日清両国間で、両国軍の朝鮮撤退などを内容とする[天津条約]が結ばれた。また同年には、日朝両国間において、朝鮮による日本への損害賠償の支払いや謝罪使の派遣などを内容とする、[ 10 ]が結ばれた。
〔語群〕
 A.乙巳保護条約 B.漢城条約
 C.済物浦条約 D.下関条約
 E.日華基本条約 F.天津条約
 G.南京条約 H.日清互換条款
 Ⅰ.日清修好条規
 J.日清通商航海条約
 K.北京条約 L.北京議定書」
_________________
(答:9C、10B)〉

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