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東海林直人のゴロテマ日本史◇中世7(九条兼実~中先代の乱)

※ 語呂合わせでテーマ史を記憶するので「ゴロテマ」です。

※ S←A←B←C←Dは重要順ランクです※ 「note」は下線を引けないので太字を代用します(以下同じ)


◇中世§61.九条兼実・慈円兄弟の覚え方◇C

[ゴロ]軍艦エンジンに/苦情たまよ
愚管抄・慈円)(九条兼実(かねざね)・玉葉(ぎょくよう))

[句意](我が社製の)軍艦エンジン(機関)に対する苦情はたまにしかないよ、という句。

[point]
1.兄九条兼実は日記『玉葉』、弟慈円は史書『愚管抄』を著した。

[解説]
1.九条兼実(1149~1207)は 関白太政大臣。保元の乱の勝者藤原忠通の子。
2.『玉葉』(1164~1200)は、兼実の日記で、平安時代末期から鎌倉初期の基礎資料。朝廷側の視点で書かれており、鎌倉幕府正史『吾妻鏡』と比較検討する事で、この鎌倉初期の歴史を客観的にみることができる。
3.慈円(慈鎮、1155~1225)は九条兼実の弟で、天台宗の最高位天台座主となった学僧。謚(おくりな)は慈鎮。『新古今和歌集』の歌人としても有名。
4.『愚管抄』(1220成立)は、道理末法思想によって歴史をみている。神武天皇から承久の乱直前までを7期に分けている。承久の乱直前(1220)に著し、後鳥羽上皇に献じて、討幕計画を諫めたといわれる。(従って承久の乱そのものの記述が有るはずがない←2012早大文化構想正誤問題( ✕『愚管抄』は承久の乱について詳しい)。我国最初の歴史哲学書。
5.なお鎌倉幕府の公式史書に上述の『吾妻鏡』(13C半~14C初)がある。編者不詳で、1180年の源頼政の挙兵以後から1266年宗尊親王の帰京までの諸事件を、日記体で記しており、鎌倉時代の最も重要な資料。

2018学習院大・文2/9:「
 比叡山に学んで『往生要集』に触発された[ 5 ]は、鳥辺野の奥の大谷をはじめとする京都の所々で活動し、庶民の教化に努めた。日記『玉葉』を残した摂関家の[ 6 ]にも教えを説いた。その主著『選択本願念仏集』では、念仏を、万人を救済するという阿弥陀仏の本願に応える唯一の往生行であると位置づけ、他の修行では往生できないとまで論じた。修行の簡易化・単一化によって浄土思想が庶民に広まる流れの起点となった。
問5 空欄(5)にあてはまる、僧侶の人名を記しなさい。
問6 空欄(6)にあてはまる人物の兄弟は、後鳥羽天皇(上皇)の信任が篤く、天台座主を務めて天台教学の復興に尽力した。信濃前司藤原行長を庇護して『平家物語』の成立に影響を与え、歴史書『愚管抄』を著したことでも知られる。空欄(6)の人物の兄弟にあたる、この僧侶の人名を記しなさい。」
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(答:問5法然、問6慈円 ※なお空欄(6)は九条兼実)〉

2017関西大・全学部2/8:「
(A)年ニソヘ((添))日ニソヘテハ、物ノ道理ヲノミ思(おもい)ツヾケテ、老(おい)ノネザメ((寝覚))ヲモナグサ((慰))メツヽ、イトヾ、年モカタブキ((傾))マカル((罷))マヽニ、世中モヒサシ((久))クミ((見))テ侍(はべ)レバ、昔ヨリウツ((移))リマカル道理モアハレニオボエテ、神ノ御代(みよ)ハシラズ、人代トナリテ神武天皇ノ御後(おんのち)、百王トキコユル、スデニノコ((残))リスク((少))ナク、八十四代ニモ成(なり)ニケルナカ((中))ニ、保元ノ乱イデキノチ((後))ノコト((事))モ、マタ ①世継(よつぎ)ガモノガタリ((物語))ト申モノモカ((書))キツ((継))ギタル人ナシ。

 (A)の文は、天台座主慈円が、源実朝暗殺後の事態の急変に剌激され、( 1 )の直前に公武の関係が安定することを願いつつまとめた史論『( 2 )』の冒頭である。ここには末法思想を前提としながらも、道理に基づく因果応報が歴史を貫いていくという歴史意識が表れている。慈円の兄であった九条兼実は、源頼朝の支援を得て摂政・関白・太政大臣となったが、源通親の陰謀によって失脚する。彼の40年にわたる日記『( 3 )』は、平氏の最盛期から鎌倉幕府の創設期におよぶ貴重な史料である。下線部①は「世継物語」として有名な『( 4 )』を指すが、藤原氏の繁栄を批判的に叙述した点に特色がある。」
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(答:1承久の乱、2愚管抄、3玉葉、4大鏡 ※原問に選択肢30語あり)〉

2017駒澤大・済仏文法2/6:「
 この史料『玉葉』は[ 3 ]の日記であり、鎌倉初期を知る重要な史料のひとつである。[ 3 ]は、幕府開創期に源頼朝と親しく、頼朝の支援を得て、摂政・関白・太
政大臣に就任した。また、『[ 4 ]』を著し、天台座主の要職についた慈円は[ 3 ]の弟である。」
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(答:3九条兼実、4愚管抄)〉

2016立教大・済コミュ福観光:「
 また同じ鎌倉時代に、天台座主であった慈円は『( ト )』という歴史書を著した。慈円はこのなかで神武天皇以来の歴史を叙述して、道理の推移を読み取ろうとし、貴族が没落し武家政権が皮立した時代のありようを捉えようとした。慈円の兄は、鎌倉幕府と良好な関係を築き『玉葉』という日記を書いた( チ )であり、この関係で慈円は幕府の動静にも詳しかったので、後鳥羽上皇に倒幕の断念を訴えた。しかし後鳥羽上皇はこれを聞き入れず幕府と対立し、7承久の乱が起こった。」
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(答:ト愚管抄、チ九条兼実)〉

2014明治大・情報コミュ:「
 鎌倉幕府が成立すると、将軍家の女性も妻・母として政治への影響力を強めていった。源頼朝の妻( ア )は頼朝死後2代・3代将軍の母として御家人の信頼を集めつつ、幕府政治を安定させ、( イ )の後には、摂関家から幼少の将軍を出しつつも、彼女が政治を左右していた。もちろん、正式に征夷大将軍に任命されていないが、幕府の正史である( ウ )は彼女のことを「尼将軍」と誇っている。
問1 空欄( ア )に入る姓名を記述解答欄に漢字で記入しなさい。
問2 空欄( イ )に入る語句として、もっとも正しいものを、次の1~4のうちから1つ選べ。
 1宝治合戦 2元弘の変
 3承久の乱 4霜月騒動
問3 空欄( ウ )に入る語句として、もっとも正しいものを、次の1~4のうちから1つ選べ。
 1大鏡 2吾妻鏡 3愚管抄
 4十訓抄
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(答:問1北条政子、問2→3、問3→2)〉

2014立教大・現代心理社会コミュ福:「
問6.この鎌倉時代の文化に関する記述として正しいのはどれか。次のa~dから1つ選べ。
 a.西行は出家し、諸国を流浪しながら『東関紀行』を著した
 b.慈円は歴史を貫く原理をさぐり、『愚管抄』を著した
 c.道元はひたすら座禅に徹せよと説き、臨済宗をひろめた
 d.源実朝は万葉調の歌をよみ、『新古今和歌集』を編んだ
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(答:問6b ※a『東関紀行(とうかんきこう)』は1242年成立の紀行文で作者未詳、c曹洞宗の誤り、d『金槐和歌集』の誤り)〉

2013明治大・商:「
〔I〕以下の文章は歴史書『愚管抄』について記したものである。文章内におけるのa~eに入る最も適切な語句を1~5の中から選べ。また空欄[1~5]の中に入る最も適切な語句を漢字で記しなさい。
 鎌倉時代の僧、慈円(慈鎮)は、関白[ 1 ](1149~1207)の弟であり、比叡山延暦寺の最高位[ 2 ]にまでのぼった人物である。その著書『愚管抄』は、歴史を貫く「道理」と末法思想を柱にして。神武天皇から承久の乱直前までのわが国の歴史を叙述した書物であり、とくに901年成立のa[1『日本三代実録』2『続日本後紀』3『日本文徳天皇実録』4『類聚国史』5『日本後紀』]を最後にして勅撰正史がつくられなくなった平安中期以降の歴史を知るうえでは、重要史料とされている。
 類似の書物としては、南北朝時代の北畠親房によって書かれた歴史書『神皇正統記』が有名である。北畠親房はb[1『応安新式』2『樵談治要』3『建武年間記』4『職原抄』5『公事根源』]の著者としても知られているが、南朝の公家であったため『神皇正統記』は政治的には南朝の立場を正統とする思想が貫かれている。これに対し『愚管抄』には、慈円が[ 1 ]の弟であることからもわかるように、過去の摂関政治を肯定する叙述がしばしばうかがえる。
 摂関政治とは、早くは藤原忠平がc[1清和 2光孝 3醍醐 4朱雀 5冷泉]天皇(923~952)の幼少時に摂政、成人すると関白についたように、藤原氏の氏長者が独占的に摂政・関白の任につき、天皇権を代行する政治形態のことである。とくに969年の安和の変で左大臣[ 3 ](914~982)を失脚させたのを最後にして、藤原北家が天皇の外戚の地位を独占し、摂政・関白がほぼ常置される体制が整った。
 たとえば、以下の引用文は後三条天皇の荘園整理政策について叙述した『愚管抄』の有名な一節である。
 延久ノ記録所トテハジメテヲカレタリケルハ、諸国七道ノ所領ノ宣旨・官符モナクテ、公田ヲカスムル事、一天四海ノ巨害ナリトキコシメシツメテアリケルハ、スナハチ宇治殿(藤原頼通)ノ時、一ノ所ノ御領々々トノミ云テ、庄園諸国ニミチテd[1受領 2記録所 3宇治殿 4郡司 5院庁]ノツトメタヘガタシナド云ヲ、キコシメシモチタリケルニコソ。
 ところが、このとき藤原頼通は「ナンデウ文書カハ候ベキ」(なんで文書など持っていようか)と述べて、記録所への公験(権利を証明する文書)の提出を拒んでいる。そのため、最後は後三条天皇が折れ、「前太相国(頼通)ノ領ヲバノゾク」(頼通の荘園は除外する)ということを決定したという。ここの部分の叙述では、摂関家の荘園が他とは異なる由緒をもつものであり、後三条天皇もそれを容認していることが強調されている。
 また『愚管抄』は武士の世の到来を「保元元年七月二日、[ 4 ]院ウセサセ給テ後、日本国ノ乱逆卜云コトハヲコリテ後、ムサ(武者)ノ世ニナリニケルナリ」と表現したことでも有名であるが、一概に武家政治を否定していたわけではなかった。とくに1219年、将軍源実朝が暗殺された後、わずか二歳で将軍後継者として鎌倉幕府に推戴された三寅については、以下のように語っている。
 二歳ナル若公、祖父(西園寺)公経ノ大納言ガモトニヤシナヒケルハ、正月寅月ノ寅ノ歳・寅時ムマレテ、誠ニモツネノヲサナキ人ニモ似ヌ子ノ、占ニモ宿曜ニモメデタク叶ヒタリトテ、ソレヲ、終二六月廿五日ニ、武士ドモムカヘニノボリテ、クダシツカハサレニケリ。京ヲ出ル時ヨリクダリツクマデ、イササカモイササカモナクコヱナクテヤマレニケリトテ、不可思議ノコトカナト云ケリ。
 ここで慈円が、その器量を褒めたたえている「寅月ノ寅ノ歳・寅時」に生まれた三寅こそは、のちに初代の摂家将軍となる[ 5 ](1218~1256)である。慈円は「将軍ニハ摂籙ノ臣ノ家ノ君公ヲナサレヌル事ノ、イカニモイカニモ宗廟神ノ、猶君臣合體シテ昔ニカヘリテ、世ヲシバシヲサメントヲボシメシタル」(将軍に摂関家の若君を立てるということは、皇室の祖先神が君臣一体の昔の頃に帰ってしばらく世の中を治めさせようと、お考えになったために実現したものである)と述べて、自身の血統から出た三寅を必要以上に高く評価し、摂家将軍の誕生に大きな期待をかけたのである。
 なお『愚管抄』は、この摂家将軍を擁立した北条政子についても、「女人入眼ノ日本国イヨイヨマコト也ケリ」(日本国は女性が最後のしあげをする国だというのは本当だ)と高く評価している。こうした女性に対する高い評価がなされる背景には、慈円が生きた当時の社会では、実際に女性が政治や経済に大きな力をもっていたという事情があった。たとえば、内親王e[1障子 2姸子 3得子 4嬉子 5時子](1137~1211)は父母から伝領した膨大な荘園群を管理し、八条女院とよばれ、治承・寿永の内乱の政局にも大きな影響力を発揮している。」
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(答:1九条兼実、2天台座主、3源高明、4鳥羽、5九条頼経〔藤原頼経〕、a1、b4、c4、d1、e1)〉

鎌倉文化4学術書

◇中世§62.鴨長明の覚え方(4件)◇C

[ゴロ]繊細のため/無名(むめい)の方丈が/欲しい(ほっしい)かも(千載集・長明)(無名抄(むみょうしょう)・方丈記(ほうじょうき))(発心集(ほっしんしゅう))

[句意]繊細な鴨のため(隠れ家にする)名も無い方丈つまり4畳半の部屋が欲しいかも、という「カモ」の韻をふんだ句。「方丈」は一丈四方、四畳半ほどの広さ。また、その広さの部屋や建物をいう。

[point]
1.鴨長明の主な著作には、『方丈記』『発心集』『無名抄』があり、『千載集』には一首載っている。
[解説]
1.鴨長明(1153?~1216)は、京都下賀茂神社の神職の家の次男に生まれる。14歳で父を失い、ある神社の神職を一族と争い敗れて50歳で出家するなど、世俗的には一生恵まれなかった。
2.貴族社会の没落と武士の台頭、相次いだ天変地異に、人生の無常を感じ『方丈記』に著した。そのほか説話集『発心集』(編集)、歌論書『無名抄』がある。
3.歌人としては『千載集』に一首おさめられるなど30代から世に知られ、鎌倉時代の代表的歌人となる。源実朝にも歌を講じている。
4.『方丈記』は鎌倉時代初期吉田兼好の『徒然草』は鎌倉時代末期の成立。

2019立命館大・全2/1:「
先輩:そう。[ D ]が著した歌論書『無名抄』に、「田つくるに、葉草をかり入たるがよく出でくる」などと見える、代表的な肥料だね。
問d 空欄[ D ]にあてはまる人物は『方丈記』を著した人物である。もっとも適切な人名を答えよ。」
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(答:問d鴨長明)〉

2019同志社大・グロ地文商心神2/9:「
 中世になると、京都の公家文化に、武士や庶民に支持された新しい文化の要素が加味されていく。文学の分野でも新たな展開がみられ、優れた和歌集や随筆がうみだされた。
 武士であったが、出家して各地を遍歴した西行は、「ア)心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮」や「a何事のおはしますをば知らねどもかたじけなさの涙こぼるる」などをはじめどする秀歌をよんだ。歌人としても知られた鴨長明は、神職の家のうまれであったが、のちに出家隠棲し、b人生の無常や閑居生活のたのしみなどをつづった随筆を残した
【設問ア】下線部アの和歌は、第8番目の勅撰和歌集におさめられたものである。その編纂に携わった人物の自撰家集を次のうちから1つ選べ。
 1.『金塊和歌集』
 2.『拾遺愚草』
 3.『菅家文草』
 4.『梁塵秘抄』
【設問a】下線部aの和歌は、西行がある神社を訪れてよんだものという。その神社は、現在の三重県に位置し、内宮(皇大神宮)と外宮(豊受大神宮)とからなる。天皇家の祖先神として内宮にまつられている神の名を漢字4字で記せ。
【設問b】下線部bについて、鴨長明が著したこの随筆の名称を漢字で記せ。」
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(答:問ア2〇 ※和歌は西行法師、8番目の勅撰和歌集は『新古今和歌集』、よってその撰者とは藤原定家、問a天照大神、問b方丈記)〉

2018学習院大・経済法2/6:「
問7 下線部(7)源頼朝は東国からの年貢納入を約束することで後白河上皇の信用を得てについて、朝廷はこの頼朝の申し入れを受けて、頼朝に東海道・東山道諸国の荘園・公領の取り締まりを命じる「寿永二年十月宣旨」を発令した。その背景には、京都・畿内が深刻な飢饉のさなかにあったことが関係している。『方丈記』にその悲惨な実情が記されている、この大飢饉の呼称を記しなさい。」
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(答:問7養和の大飢饉)〉

2018法政大・経営人間環境文2/7:「 
史料1
 また、[ A ]四年水無月のころ、にはかに都遷り侍りき。いと思ひの外なりしことなり。おほかた、この京のはじめを聞けることば、嵯峨の天皇の御時、都と定まりにけるより後、すでに四百余歳を経たり。                   
  (方丈記)
問1.空欄[A]に入る年号を、以下のア~クのなかから一つ選べ。
 ア.応永 イ.観応 ウ.承久
 エ.治承 オ.永仁 カ.貞永
 キ.嘉吉 ク.正長」
_________________
(答:問1Aエ)〉

2013京都大・前期:「
 問5.1185年、平氏一門は壇ノ浦合戦で滅亡し、平氏が奉じた[ ケ ]天皇も入水した。平氏が東国の源氏に敗北した一因は、西国が大飢饉に見舞われ、兵糧米が欠乏したことにあった。この飢饉の惨状は、[ コ ]が著した随筆『方丈記』に克明に描かれている。」
_________________
(答:問5ケ安徳、コ鴨長明)〉

2013早稲田大・政経:「
下線部c元弘の頃に成立し、作者独特の無常観に基づいて書きつづられた随筆集はどれか。
 ア太平記 イ徒然草 ウ方丈記
 エ風姿花伝 オ更級日記)」
_________________
(答:イ徒然草 ※鎌倉末期の元弘の乱は1331年)〉

2012慶応大・法:「
 神職の家に生まれ育った[ 1 ]は、和歌の道に優れた文化人だった。[ 2 ]の名を受けて藤原俊成が撰上した『[ 3 ]』に若くして一首が入集するなど、地下歌人として才能を認められるようになり、[ 4 ]によって和歌所が再興されると、藤原家隆、飛鳥井雅経らとともにその寄人に任じられた。このときに撰上された歌集にも10首が入集しており、あわせて25首を勅撰集に残している。一方で、神職の地位を得ようとし、河合社(ただすのやしろ)の禰宜になることを望んだが、[ 4 ]の後ろ盾があったものの、一族の反対にあって叶わず、しまいには寄人の職を投げ打ち、50歳を迎えた春、出家して大原の山中に閑居し、しばらくして日野の草庵に移り、そこで『[ 5 ]』を著した。天災や戦乱、飢饉が相次ぎ、社会が大きく変わりゆく時代を生きた[ 1 ]は、……(中略:東海林)……若い時分に京の都で体験した災厄の数々を『[ 5 ]』の中で述懐しており、ここから、中世の人々の災害感を垣間見ることができる。」
_________________
(答:1鴨長明、2後白河院、3千載集、4後鳥羽院、5方丈記 ※原問には選択肢が65語あり)〉

鴨長明と源実朝

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