意図の解釈論と、場の解釈論

イントロダクション

 キリンの首が長いのは、なぜか。

 児童書籍ではこれに対し「高いところの草を食べるため」と回答している。現在では分からないが、少なくとも私が子供の頃はそうだった。

 だが、高いところの草を食べたい、と思って即座に首が長くなることはない。キリンが何を考えているかは分からないが、ひょっとすると「高いところの草食べてえ~」と考えて首が長くなっているのかも知れない。だとしたら、この説明は正しいのかも。

 それはそれとして、もっと普遍的に通用する解釈を求められるなら、それは進化論――自然淘汰――を回答とするのが望ましいだろう。

 キリンと共通の祖先を持つ動物として知られるオカピは首がそれほど長くなく、せいぜいがロバ程度である。発掘されているキリンの祖先、シバテリウムも今の麒麟ほど極端なフォルムではない。つまり、かつてはキリンの首はそれほど長くなかったのだ。

 つまるところ、首が短い遺伝子が淘汰され、首が長い遺伝子が残った。そんな状況になるために考えられるのは、低地の草木が食べ尽くされ、高木だけが残ったときだろう。つまり、結果論だ。高いところの草を食べられる個体だけが生き残れる環境がかつて存在し、その結果、キリンという種は今のかたちになったのだ。

 私はこの「高いところの草を食べるため」という解釈を意図の解釈、「高いところの草を食べられる個体以外は死んだ」という解釈を場の解釈と呼んで区別することにしている。

 先日、友人にこのことを軽く話したが、どうも腹落ちしなかったとのことなので、一度紙幅をとることにした。(自分の思考の言語化も兼ねて)

事実はなく、解釈がある

 解釈とはなんだろう。私は「それは人間が世界を捉える枠組みと、枠組みを通した理解のことである」と仮定している。

 そもそも、「わたし」という考え方はかなり恣意的だ。人間、というよりも生命は「わたし」と「世界」を分かつ仕組みを持っている。「わたし」は本来世界の一部であり、タンパク質やその他の化学反応の連鎖システムのはずだが、「意識」らしきものを持ち、「わたし」と「世界」を別のものと認知し、「わたし」という一人称から世界を覗いているように錯覚している。

 これは当然で、生命には「わたし」と「わたし以外」を区別するシステムが必要だからだ。(むしろ、そのシステムそのものが生命なのかもしれない)

 たとえば、胃液は食べた肉を消化するが、胃そのものは消化しない。わたし以外の血液をわたしに入れると固まってしまうし、わたし以外の髄液はわたしに移植できない。

 わたしと外界とを区別しなければ、わたしという生き物の生命システムに生じたエラーが分からず、修復も保守もできない。だから、「わたし」という本能が生じている。そうでないものは、自分で自分を滅ぼし、淘汰されたのだ。

 つまり、世界は「わたし」のために存在していない。「わたし」という視点で世界を捉えているというのは「わたし」の錯覚である。

 このただ「在る」世界を捉えるために人間は「解釈」を駆使しなければならない。人間の脳という枠組みを使い、その外側の枠組を探し、認知する営みを私は「解釈」と定義している。

 この立場において、人間が認知しうる絶対的「事実」は存在し得ない。なぜなら、世界はただそこに在るだけであり、それに解釈の余地などない。巨大な宇宙がそこにあるだけだ。だが、この巨大な宇宙というシステムを人間が認知しようとした時、これを細分化し、ルール化し、記述可能化しなければならない。

 この、宇宙というただ存在する「場」から認知を得る営みを「解釈」と定義している。

 そしてお気付きの通り、この「解釈」に対する捉え方は私が「場の解釈」と呼ぶものだ。

意図の解釈論

 では、今述べた解釈の概念に反駁を述べるとしよう。

 これらの「解釈」に対する思考は、演繹的解釈――つまるところ、自然科学――的な思考である。少なくとも古典物理学の枠組みでは、同じ条件を整えた時、同じ現象が起こる。この仕組みを用いて、条件を特定し、演繹的に世界を捉えるのが自然科学の手法である。

 だが、これは人間が認知する「場」が実在するものである、という仮定に基づいている。つまり、人間の認知に対する信頼がある。

 仮に宇宙が3分前に生成されたシミュレーターだったとしても、少なくともあるルールに従って稼働する以上は演繹的に認知することが可能ではないのか、との反駁はもっともである。しかし、演繹法には絶対的な弱点が存在する。それは、「いま、この宇宙」だけが例外である可能性を排除できないことだ。

 メガヒットを記録したSF小説「三体」を、みなさんは呼んだだろうか。その中にわかりやすい例えがあったので、私は演繹法の弱点を説明する時、よくそれを引用している。

 それは作中で「農場主仮説」と呼ばれるものだ。

 ある農場で、一人の農夫が何羽もの七面鳥を飼っている。農夫は毎朝11時になるとニワトリに餌を与えている。するとある日、七面鳥の物理学者は何ヶ月もの観察により、驚くべき宇宙の仕組みに気付いたのだ。「毎朝11時になると、餌が出現する!」七面鳥たちはこの驚くべき論文を受けて、何度か同様の実験を行ったが、確かに毎朝11時になると餌が出現していた。そうして彼らはクリスマス・イヴの日も餌の出現を心待ちにしていたが、その日はなぜか餌が現れず、七面鳥たちは皆出荷されてしまう。

 人間が「わたし」を通してしか世界を認知出来ない時、この演繹法の誤謬に対するおそれは、常につきまとっている。ルネ・デカルトが数百年前から指摘している通り、人間の思考において信頼できる部分は「思考」そのものしかない。

 仮に現代の自然科学が完璧に正確だったとしても、少なくとも人間が進化の過程で得た「わたし」の機能によってしか世界を認知できないのであれば、「場」を考えることは無意味だ。

 そもそも、人間は「場」に対する思考に最適化していない。では、何に最適化しているのか? それは「意図」である。

 なぜ、私が幼い頃に読んだ本には「キリンの首が長いのは高いところの草を食べるため」などと書かれていたのだろうか。

 幼い頃に読んだ本には、色々な「間違い」があった。「雷が起きるのは電気同士が喧嘩しているから」「虹が七色なのは、雨の水が光を七個に分けてしまうから」

 これらの「間違った」説明に共通するのは、「誰かの意図」によって現象が成立すると説明していることだ。つまり、まだ未成熟な幼児に対してもっともわかりやすく、広く受け入れられやすい説明が、「意図」なのだ。

 これは人間の「解釈」という機能が、「意図」に最適化されていることを意味している。だからこそ、人間が無意識のうちにする認識には「意図」が含まれてしまうわけだ。

 たとえばよく言われる「ハンロンの剃刀」などはわかりやすい。冷静に考えれば、この世で発生する失敗の大多数が、単なるミスや無能に基づくものであることは予想できる。だが、人間はそういった現場に遭遇した時「こいつわざとやってんのか?」「俺を貶めようとしているのか?」というように、誰かの「悪意」を想定してしまいがちだ。これは「単なるミス」という解釈より「誰かが悪意をもってやった」という解釈のほうが納得できる、という人間の認知を表していると言えるだろう。

場の解釈論

 しかし、デカルトの二元論の欠陥は何度も指摘されている。特にこれは精神的営みが肉体から完全に離れている・あるいは離れうることを前提としていて、精神がそもそも単一であるかどうかや、思考そのものと相互作用する外界の営み(肉体も含む)など、様々なものが無視されている。

 本旨から離れるため、詳しく語ることは避けるが、そもそも精神を前提として世を睥睨する思考の在り方はスタンダードではない。仏教的(より広く取って、アジア的としてもよい)世界観では、むしろ我々の視線は世界という肉体の末端であるかのように認知されていることが多い。

 また、少なくとも演繹的な営みによって世界が発展したことは今現在では私にとっての「事実」だ。今こうして画面の前のキーボードで文章を打てるのは、演繹的に半導体の性質を導き出した誰かがいるからであろう。演繹的手法で絶対的真実に到達することはできないのかも知れないが、少なくともユースフルであることは確かだ。

 さらに、意図の解釈の最大の問題点として、「解釈」以上のことができないという点がある。

 つまり、意図の解釈には「私の思考以外に、絶対的な礎が存在しない」という前提があり、これは逆に言えば、「わたし以外の思考≒意図」の存在すら否定していて、解釈の先に発展がない。これは場の解釈がユースフルである、という点とも対比する。

 人間がなにかを解釈しようとするとき、基本的にそれは理解と、理解による発展を目的としている。「場の解釈」は言い換えれば「自然科学的な解釈」とも読み替えられる。つまり、人間がこの世界を捉える際に生じる根本的な誤謬には一旦目を瞑り、理解による問題解決・思考・行動を目的として、世界を解釈しよう、という営みである。

 前述したキリンの首を例に取れば、キリンの首が長いことを「高いところの草を食べるため」と意図の解釈をしたとき、これに発展性はない。しかし、「高いところの草を食べられない個体は死滅したからだ」と場の解釈をしたならば、「自然淘汰」という普遍的に通用する概念を獲得できる。

 意図の解釈から普遍性のある概念を抽出することは難しい。いわゆる「根性論」のような概念が吹聴されるのにはこういう背景もあるだろう。なんらかの成功ケースから概念を抽出しようとした時、そこに「意図の解釈」だけを適用したならば、そこから抽出できるのは「やろうと思ったからできた」という空洞だけだ。

 「そうなるから、なった」というある種結果論的なアプローチこそが場の解釈であり、逆に言えば「そうなるから、なった」は普遍性を持っている。そして普遍性は再現性であり、再現性とは利便性だ。すなわち、なにか問題↔解決を求めて認知や解釈を行うとき「意図」を観察することに意味はない。

意図と場の解釈を、どう使い分けるか

 もう殆ど話してしまったようなものだが、つまるところ「意図の解釈」は自分自身の思索を深める際は便利だが、わたしに対する外界について思索を巡らせるとき、発展性を得られず、無意味だ。対して、「場の解釈」は具体的な問題解決には便利だが、思考そのものについて考えを深める際は無意味になる。

 これらの類別に自覚的になることで、無意味な悩みを減らし、具体的な思考に割く時間やリソースを確保しやすくなるのではないか、として本論の結びとする。

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