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自分らしい暮らし 選択性の高い復興住宅

#公営住宅 #選択 #東日本大震災 #復興計画
目次
1. 半島部での暮らしと状況
2. 選択性の高い復興住宅の概要
3. 選択性の高い復興住宅の結果
4. おまけの感想

1. 半島部での暮らしと状況
東日本の沿岸部、半島部での暮らしは主屋、倉庫、庭、作業場を持ち、家から一歩出たところには海・山・川・畑などの親んできた豊かな自然環境が広がっていた。
時代と供に様々な人が増えていき、その場所での暮らしが育まれ、何世代も前から人が住み続けてきた場所で、何百坪もある土地に伸びやかに暮らしていた。

東日本大震災により、それらの土地の多くは災害危険区域となり非可住(人が住めない)区域となる。
その結果として多くの人が高台や内陸への移転を予定している。
災害危険区域は土地を自治体(国)が買い取ることで被災した人々の生活再建の頭金になるように意図している意味合いが強い。
買取が出来る敷地は土地の登記上の「宅地」または介在していた農地(宅地に隣接している農地)のみ認められている。
つまり、自宅から離れたところに存在した農地や、駐車場のようになっていた雑種地と呼ばれる土地、事業所を置いていた土地は買い取ることができないルールとなっている。(地目:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E7%9B%AE)
そのため、災害危険区域に指定された場所は買い取れない土地も数多く存在し、点々と民間(被災した人々の土地)の敷地が残り、これからどのようにその土地を使い続けるのかという命題が存在する。
ちなみに、その土地は漁業施設や商業施設の建設は認められているものの、原則論人が長く滞在することは認められていない。
http://www.city.ishinomaki.lg.jp/cont/10185000/8550/8550.html

話を戻すと、新しく住む住宅街を移転団地と呼び、早いところは竣工後の引き渡しが完了している。未だのところは建設工事に勤しんでいる。
移転団地は集落の規模や移転団地の規模にもよるが、5世帯の移転団地から数百世帯に広がる移転団地など様々である。
移転団地の規模は意向調査が基本となり、適切な敷地規模を求めて自治体が用地を買収し整備している。
(https://note.mu/jp_fuukeiya/n/nf1d8fb69f8eb?magazine_key=m4a7f07749059)

被災した人々の視点からの選択肢は以下のようになる(石巻市の場合)。
rS:自力再建
→ 土地は30年無償貸与(購入しても良い)、土地面積は原則100坪、建築は個人
rP:公営(復興)住宅
→ 土地は自治体、世帯人数により1LDK-3LDKが決定し坪数は60-80坪、建物は自治体、10年間の家賃減免

石巻市では公営住宅を復興住宅と名称を変えているため、以下、復興住宅と呼ぶ。半島部の復興住宅は戸建住宅である。
豊かな自然環境のなかでのびのびと生活してきた人たちへの配慮であり、東京などの都心部と比較すれば広い土地の戸建住宅となる。
ただ、決して豊かな環境ではない。
世帯人数分の車+軽トラックなども所持している人は家の周りはそれだけで充足されるし、前述した通り自然環境と供に暮らし、畑や庭木を持っていた人からすればかなり手狭であることは間違いない。
東京の視点では十分でしょう、ということもあるかもしれないが、そこで暮らし続ける人にとってみれば不十分である。
そこで暮らし続けるというのは、持続的にその環境で、その土地らしく、暮らし続ける、という意味である。

とはいえ、国費を用いた復興事業で一人300坪の土地を新たに造成して生み出すなどの離れ業を繰り出すことなどはできないので、rS、rPとなる。
蛇足だが、意向調査の段階から工事完了までに2,3年は時間が経過する。
待っている間に待ちきれずに違う場所へ移転する人も存在する。
そのため、当初建設予定だった住宅が空き画地(土地)となる。
気になる方は「防災集団移転促進事業の現状と課題」と題して、まとめていた記事があったので、ご覧下さい。http://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_8841940_po_076709.pdf?contentNo=1)

計画策定に参加する身としては、狭くなってしまう敷地で、いか豊かに暮らしてもらうか、が命題だと感じている。
そのような背景で実施したのが石巻市の河北団地の復興住宅の計画策定である。

2. 選択性の高い復興住宅
河北団地(通称二子団地)は石巻市半島部最大の防災集団移転促進事業の移転団地であり、約420世帯が入居予定であった。
ちなみに、その他の半島部移転団地は被災元地に近い高台移転であり、数世帯から数十世帯である。
そのうち、240世帯が復興住宅入居希望者であった。

前述した通り復興住宅は行政が建築し、そこに入居希望者が入るというシステムである。
半島部では団地毎の移転戸数の総数が少ないこともあり、主に行政自らが住民へのヒアリングを実施し間取りなどに関する意見交換を行っていた。
河北団地は規模感が10倍以上もあることから、どのように進めるかは悩ましかったと感ずるが、「同じ半島部の団地である」という命に沿って意見交換会の実施に至っている。
意見交換会は入居予定者240世帯を16グループに分けて、各グループで3回づつ、計48回実施した。

プロジェクトの体制は以下の通りである。
事業主:石巻市復興住宅課
基本設計:BAU建築設計室
アドバイザー:中木亨(宮城大学)、小林徹平、今村雄紀(当時:東北大)
ワークショップ支援「かほくら手帖」:
作成:|川の上プロジェクト|(株)コトナ|(株)スタジオテラ|東北大学IRIDeS 災害復興実践学分野(小林・今村)
協力:石巻市集団移転推進課|石巻市復興住宅課|河北総合支所|雄勝総合支所|北上総合支所|BAU建築設計室|宮城大学中田研究室

基本設計業務のなかで住民との意見交換会が含まれており、アドバイザーとして中木・小林が行政側・設計会社から依頼を受けて参画した。
意見交換会では主旨説明や、資料の説明、話し合いのファシリテーション、などなど実施した。
意見交換(ws)を単純に実施しても良い住宅街ができる補償はないので、「暮らしを考える冊子 “かほくら手帖 vol 1, vol 2”」を別途作成した。かほくら手帖は「かほく・くらし・くらしの手帖」という意味を込め、自分たちの暮らしを想像できるような雑誌のような体裁としてまとめていった。かほくら手帖は復興住宅がきっかけではあるものの、かほく団地で暮らす予定者全員へ配布を実施しており、あくまでもこの土地での暮らしを考えるツールとして作成した。

手帖の作成においては、新たなメンバーを招集し、地域:川の上プロジェクト 三浦秀之氏、環境・色彩:(株)コトナ 片岡照博氏、|外構:(株)スタジオテラ石井秀之さん、小林のメンバーで編集・作成した。

手帖、意見交換会の大まかな手順は以下の通りである。
s1:設計方針・手帖の方針協議(手帖作成メンバー)
→ 行政協議(設計条件の緩和を狙った協議)
s2:手帖のコンテンツ・冊子作成;行政文書的、配布文書としての修正協議
→ 行政協議・確認
s3:(s1-s2:ループ)
s4:ws での配布及びプレゼン用資料として作成

手帖作成に当たっての課題と方針
s1:どこにでもあるような「均一的な住宅街を作らない」
po:供用開始段階から、移転元の暮らしを大事にしつつ、住まい手がわかる手垢のある雰囲気を形成する
pr1:住まい手に選択肢のある復興住宅
s:subject, po:policy, pr:practice

協議の結果、以下の選択肢を持って意見交換を実施した。


明らかに出来なかったことは以下の通りである。
s2:エントランススロープの廃止
s3:エントランススロープの勾配を8%→12%への緩和
pr2:結果、前庭でできる限り、と言っても水勾配分程であるが、少しでもスロープの段差の解消
→ 入居予定者からも必要ないという意見は出たが、復興住宅ということで次へ入居される方への配慮としてスロープの整備
→ 裏話1:違う地域でスロープをつけなかった(それ以外も住民の要望を聞いた)結果、住民側から建築が出来上がった段階で当初考えていたことと違う!と不平不満の声が上がり(対応の増工も発生した)、行政側も硬くなにスロープの廃止は認めて貰えなかった。
この事案がなければ、違う結果になっていたと感じている。
→ 裏話1.5:住民を焚きつけた建築家がいたが、選択することによって生まれる差異の説明やアフターフォローをしていなかったため、住民と行政の間に不協和音が奏でられた。本当にやめて欲しい。
中途半端にしか仕事をしてくれない(自分の視点でしかものを考えない)建築家による被災地あるあるである。いい建築家の人もいるので、悪い建築家には捕まらないように気をつけて欲しいと思う。

s4:新建材に頼らない住宅
pr3:小さな取り組みではあるが、2*4材を用いて、希望者に縁台をつくるワークショップを実施。
pr4:新建材の使い方を考慮し、実施・工事段階での建材・色彩検討は行なっている。

ワークショップの各会の内容は以下の通りである。
ws 1:暮らし方に関する意見交換
ws 2:住宅内部に関する意見交換
ws 3:お庭に関する意見交換

2回目、3回目は各世帯の敷地と図面を用意しつつ、一世帯一世帯にヒアリングしながら、その場で赤ペンで変更点を記し最終的には手描きによる図面が完成するように実施した。
、、、瞬発力のいる時間ではあるものの、いい答えが見つかるとみんなで笑顔になれて、語弊を恐れず言えばすごく楽しい時間でした。

話し合う内容や資料は前のws回に事前配布に努め、意見交換終了後にその場でコピーを取り、認印(サイン)をもらうようにした。
世帯数が多いため、できる限りその場で終わらせるのは業務上必須であった。
もちろん、何名かの人は変更願いが出てきてはいるが、全体から見れば数%である。ちなみに、それらの変更対応は窓口・電話にて復興住宅課が担った。

開催場所は参加者がまとまっている住宅団地の場合は仮設団地の集会所を使用させてもらいコピー機を持ち込み実施している。
参加者がばらばらの場合は河北総合支所(旧町役場)を使用し、参加者に足を運んで貰っている。
総合支所での実施の場合はタクシーや親族、同じ仮設団地の人に連れてきてもらっている参加者も見かけることもあった。
一方、仮設団地での実施は移転者が徒歩で来れること、たまに忘れている人を呼びにいけるなど良いことしかなかった。
https://note.mu/jp_fuukeiya/n/nf1d8fb69f8eb?magazine_key=m4a7f07749059

3. 選択性の高い復興住宅の結果
結果としての雑感

r1 |街並み:意図しないで生まれる偶発的な壁面線のズレや、中木・生垣の樹種の選定、ポスト、畑など、が生まれた。

r2 |街並み成長:wsを実施することで「そんなことやっていいの?」という声を何度も聞いた。復興住宅は原則市に還すものではあるため、あんまりいじってはいけないという印象があるのだと思う。
狭い土地ではあるものの自分たちらしい暮らしを育んでいって欲しいと感じています。

r3|暮らしの意識:「うちは子供やおっとうと喋りならがら、ご飯作るから対面キッチンで」というような、自分の暮らし方を確認しながら、間取りや庭を選択していたこと。

r4 |環境への意識:全世帯の9割弱が何らかの緑を住宅内に持ち込む予定である。(維持管理を自分ですることを前提。他の半島部では、その約束ができないため緑は計画段階では殆ど入れれていない)
ちなみに、畑を持っていた約100世帯のうち、100世帯の人、つまり全ての人が畑の大きさは変わるけれども継続の意志を示してくれていた。
こういうことがあると、選択肢をつくってよかったと心から思う。

将来的には、河北団地では空家が増えた際は隣接する家を撤去し、敷地を広げて開放していくことで本来の暮らし方(敷地を100坪以上→300坪位)に戻していくことが持続的な集落形成に向けては重要なことだと感じている。

4. おまけの感想
以下は、ワークショップの最終日にほろ酔いでfacebookに書いた文章です。
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 本日(2016年7月29日)、約400世帯の方が住まわれる予定である団地のうち、240戸の戸建て公営住宅の話し合い(基本設計に関わるヒアリング)が完了しました。

240世帯を16グループに分けて、各グループで3回づつ、計48回行う話し合いは約半年かけて行われました。
本当にやるの?と、個別具体的対応が発生するであろう懸案・事案に対して、復興住宅課は対応する意志を持って実施に至る判断をして下さいました。
英断だと私は思います。
実際市の人が担当しているのは、もちろん設計会社はつきますが、年々人が変わるなかで2、3人です。
市の担当の人はこの業務だけをやっているわけではありません。
240世帯の人の人生を背負うという意味において大変だと感じます。
この話し合いは、8月中旬に市・総合支所が主導する会にて、欠席者のフォローを行い、基本設計は完了します。
その後、実施設計・施工へと移行していきます。ちなみに、本市は4500世帯の公営住宅を建設予定です。

今日の48回目の話し合いのグループはこれから2年程の間、応急仮設住宅に住まう予定です。
工期のずれが1年ほどあり、早いグループは、1年「後」過ぎに移転開始をします。
震災から8年に近い歳月を仮設の仮設住宅で過ごす方もいます。
こうした、震災からの復興計画に関して、本当に正しかったのか?という根本的な問い「こんだけ長い期間を経て移転することの意味や必要性」は、これから問いていかなければいけないと思います。

私は2012年4月に東北に来ました。
そうしたなかで、決められた枠組み、厳しい条件のなかで、少しでも生活や集落・商業環境をよくする・持続可能性を残すために仕組みをつくり、アイディア・計画を考え、実行する人たちと出会う機会に恵まれました。
それは枠組みに捉われている時点で大きな社会変革を生み出すことはないかもしれませんが(SONYの盛田さんの本を読んでいる最中のため余計にそう感じる)、エッセンスを生み出すには十分な機会だと感じます。
そういったことに巡り会うのは、現実では数少ないのも事実としてはありますが、私は東北に移動してから、素敵な人たちと一緒に仕事をする機会を頂いています。

前段が長くなりましたが、今日は48回目の話し合いを終えた感想を書きます。
私は3回ずつ行った話し合いの1回目と3回目はできる限り参加しています。
2回目は建築的な問題が多く、役立た(作業でき)ないこともありそこまで参加しませんでした。

話し合いを始めた1回目はやはり不満が蔓延していました。
自分たちの住む予定の住宅は「いつ」出来るのか、「どんな風」に出来るのか、「こんなことは話したくない」、そして先行して早期に建設されている住宅から出た不満を持って、厳しい「どんな風」にという質問が続きました。
蛇足ですが、取材を丁寧にしないメディアは「こんな〜」を綺麗に取り上げます。
2回目も同様でした。
それでも、3回という回を重ねると、不満的なものは総体として1/20くらいになったと思います。
今日は会の終わりにこんな言葉を聞きました。
「2年後にちゃんと笑顔で会おうね」。
私の心情としては遅くなって申し訳ないという苦しい思いと、移転後に移転先で笑顔で会いたいという思いの二つです。
そして、この話し合いの大きな役割は旧町区分で言うと3町・24集落から人が集まる共同体をこれからつくる過程において、自分の近くに住む人は「〇〇さん」ということを認識してもらるきっかけを少しでも渡せたのが、東北における津波被災地ならではの課題であり、大切なことだったと感じています。
(捕捉:ワークショップは移転予定地が近い人たちでグループを形成して実施している。)

私が3回の話し合いを経て住民の気持ちの変化を見て思うのは2点です。
計画を作る側の人は(が、こそが)、
・できないことを明確に掲げてでも、当事者の話を直接聞く機会を設けること
・不満を言うのがタブーという雰囲気を感じて住民の人たちが「不安」を抱えていることを理解する努力をすること
両者は≒だと思います。計画云々の是非はもちろん大事ですが、仲間外れにされている感覚を住民に与えているという事実が一番良くないと感じます。
そこに住み続けるのは、住民です。
移転者と呼ばれる住民の方々は以前暮らして居た場所を、居住を禁止するという危険区域指定されている方々です。
これから自分が住むことになる土地に対して意見を言いたいとのは人間の真理としてあって然るべきです。

話し合いの1回目は団地全体での暮らし方を考えるきっかけを考える会を企画しました。
「私の家は私だけのものではない」、という、無意識に(私が接する)東北の人が持っている文化を継続する契機を持ってもらいたかったからです。
新しい住まいにおいて、例え敷地面積が今までの暮らしの1/5(大変な人だと1/10になる人もいる)になるにしても、どう適応していくか、それぞれ自身が当事者になって考えてもらう必要があるからです。
「私は被災者」という見えずらい病からの脱却です。
2・3回目は住宅の間取りに関して行いました。
半島部の最終打席に立つ本団地は周回遅れながらもバリエーションをできる限り創出しました。
間取り・キッチン・間仕切り、仏壇・神棚の位置、庭の樹木、生垣、ポストの色などです。それに関してはまた違う備忘録で書きたいと思います。

最後に、実は一昨年度あたりに建築学会学会誌の編集委員会に参画していたことがきっかけで、この団地での、「住まい」・「当事者目線」という大事な、本質的な考えを頂けたきっかけとなりました。
当時、委員会に呼ばれた際は上司である建築・土木・都市計画の先生の下で四苦八苦していました。
学会誌を編集するにあたり、いろいろな先生が色々な視点で話している姿を見て感動していました。
全く役に立たず、足を引っ張り続け、しまいには登校拒否のようにもなりましたが、本団地の計画を考えるきっかけをいただきました。
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