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養老先生と猫

養老孟司先生の事を知ったのは、友達の家にあった「バカの壁」と言う本を読んでから。タイトルのインパクトにやられて読んだその本はとても興味深く、また大変心に響いた。私は常々、日本語が通じているのにも関わらず、話を理解してくれない人が多いのは何故だろうと思って暮らしてきたので、養老先生の説明でとてもスッキリしたのだ。確かに、誰しも経験した事がない、或いは関わりが無いので理解をしようにも全く足がかりもなく、その為に理解しようとする努力自体を端から諦めてしまう事はあると思う。脳の発達障害などの例外はあるが、いわゆる普通の機能を持つ人に限れば、特に難しい事、特定の概念やあり方に捕らわれ毛嫌いしている事、面倒くさそうな事に関しては、養老先生の言う壁は厚い。要するに、「そんな事、知ったこっちゃないわ!」と言う態度の事を言っていらっしゃるのだと、少なくとも私はそう理解した。一つこの本で残念だと思った事は、脳科学的な説明が難し過ぎて、無駄に読者へのハードルを上げている事だ。科学的根拠に基づいて説明されるのは重要だし、大変結構なのだけど、大学で脳科学を勉強した私にも難しい脳細胞同士の情報伝達のメカニズムは、いくら図解付きでも要らないよな、と正直思った。特に、それが無くても十分に話が伝わるのならば、無駄に混乱させる情報は避けるか、或いはあとがきの注釈などで知りたい人だけ読めるようにするのが個人的には好ましいと思う。これがあるために、途中で投げ出してしまう人もいるかも知れないと思うと、面白い本だけに非常に残念だ。

そんな養老先生のお話は、YouTubeでも沢山配信されている。芸術から企業向上まで、実に様々な講演会でお話されていて、どれもとても面白い。日に日に光が乏しくなり、妊娠中で不安が多く、かなり堪えている身には先生の落ち着いた声が耳に心地よく、ついつい聞き入ってしまう。養老先生がたとえ話に良く飼い猫の話をされる事も、猫好きには嬉しい。ただ、ほぼほぼ突っ込みどころがなくてすんなりと聞ける養老先生のお話でも、猫が登場する件は突っ込みたくなる事が多い。勿論、話を親しみ易くするために擬人化した猫の話に突っ込むなんて野暮な事はしない。でも、2018年3月15日発信の広辞苑大学動画レポートの13分25秒から始まる、言葉はどうやってできているのかと言うお話の中で、そもそも何故動物に言葉が無いのかと言う事についての説明として、先生は(そのほかの動物も含めて)猫は絶対音感だから、音程が違うと全く別物と理解するので言葉にならないとのお考えを述べられていた。例として、ウグイスのホー、ホケキョを先生が真似しても、音程が低すぎるからウグイスには仲間と認識されないと仰っていた事については、反論したくなった。養老先生、それは先生の物真似が下手なせいではございませんか。

まず断っておくけど、これは全て養老先生のセオリーと同じ個人的な意見で、双方科学的根拠がないのだから水掛け論になってしまう事は、重々承知している。けど、これまで3匹の猫たちと暮らしてきて言える事は、猫は限られてはいるが、人間の言葉を理解できる。自分の名前には、どんな声の人間が発してもパラボラアンテナの様に耳をねじって反応するし、好きな食べ物の名前も分かる(カリカリとか、ホタテとか)。それは勿論、ご飯の時間ではなくても、ちゃんと反応を示すので、その名前を認識して理解しているのだと思う。受け止める方のみならず発する方も、会話はできなくても、ボディランゲージで殆ど意思疎通が間に合っているので、言葉が無いと断言すること自体間違っているように思える。鳴き声を発する時は感情が乗っている時で、ニャーはニャーでも何が言いたいのか脳を通さずとも心に真っすぐ届いてくる。養老先生が音程で意味合いが違ってしまうと言うのはこの事を言っているとも取られるけど、よく聞くと全く同じニャーではないので、(にゃっ!とか、ミ~とか、ギャーとか、かなりバラエティに富んでいる)やはり先生のお考えは早とちりなのではないかと思えてしまう。人間が認識していないだけで、私たちの耳に聞こえない鳴き声のバリエーションが沢山あって、それらが言葉として使われていても不思議ではないだろう。

しかし、人間が他の生き物と比べて、飛びぬけて沢山の言葉を使っている事は、間違いない。それでは、何故他の生き物達もそうしないのかと言えば、そこまで言葉が必要なように進化していないからだろう。そもそも、自然の中で生き延びるにあたって、大した事でもないのに矢鱈めったら声を出していたら、直ぐに見つかって捕食されてしまったり、獲物に逃げられてしまうだろう。人間の場合、たまたま上手く言葉を発達させる事で栄え、進化してきたのだろうけど、今度は言葉が進化しすぎて弊害になっているのではないか。猫の様に素直に感情を人にぶつける事は人間社会では迷惑とされているけど、上手く感情を言語化するのは難しい。日本の様な階級社会では敬語や謙譲語など益々言葉は複雑化し、多くの人が正解が分からない礼儀やらなにやらに縛られ、余計に意思疎通を難しくしている。そしてメンタルを病み、また訳の分からないモヤモヤを言葉にできず、吐き出せず、益々体調を崩して行く悪循環に陥る。大体、人間は細かすぎる。私は行動や動作はズボラで大雑把だけど、それでも神経質でこうやってごちゃごちゃと生産性のない思想を文章にしていたりする。この文章は、私自身書かなくても全く生存に関して困らないし、誰も読んで得する事もない。養老先生が猫に話しかけても猫が何も言わなかったのは、その時の先生の声からして反応する必要性を感じられなかったからだろう。バカの壁ならぬ、種族の壁。

それにしても、なぜ養老先生は猫に話しかけようなんて思われたのだろうか。ご夫人がお留守で猫と二人きりだったと仰ったが、それでも返事が返ってこないと分かっていて話しかけるのは、余程寂しいからか。実は人間の言葉がここまで発達した理由が、ここにあるのではなかろうか。人間は一人で生き延びられるようにできていないから、群れで暮らす。そして群れが上手く共存できるにはコミュニケーションが大事になる。群れが大きくなると個体の気も大きくなり、益々大声で話し、それが群れをより大きいと錯覚させ敵を怖気づかせ、群れを守ることになる。一方、少人数だと不安になり、それでその不安を吐き出す手段としてまた様々な表現を作り出し、無駄話をしてみたり、お話を紡ぎ出したり歌にしてみたりして益々言葉を発達させていったのではなかろうか。人間の他にひっきりなしに声を発している生き物を見ても、昆虫以外は、ほぼ大きな群れで暮らしているように思える。魚類に関しては、私が知らないだけで実は音声を発しているのかも分からない。

さて、養老先生のお話をもう一度よく聞いてみると、先生の猫は話しかけると勿論人間の言葉では返事しないが、ニャーとは言うらしい。これは、長年一緒に暮らして気心の知れた仲ならではの、「ああ」とか「うん」と捉えても差し支えないのではなかろうか。それはそれで、立派なコミュニケーションの一種だと思うけど。

追伸。後日別の動画(「猫と暮らす」2014年1月20日、動物介在教育・療法学会主催公演 https://www.youtube.com/watch?v=X7EWmk-mMpg)で養老先生は、犬好きの人の自分の飼い犬は家族のだれが呼んでも来るから己の名前を認識していると言う反論に対し、その犬は家族のそれぞれが違う名前で自分を呼んでいると思っているのだと仰っていた。しかしそれでは、初めて会う人間に名前を呼ばれても反応する犬や猫の説明がつかない。人間だって、いきなり全く頓珍漢な名前で呼ばれたら戸惑うだろう。それに、十人十色の声音で呼ばれて、それぞれ別の名前で己を呼んでいると認識しているならば、犬猫の語彙力は半端ないと言う結論に辿り着かざるを得ない。それならば当然自分の名称以外の単語も習得している可能性も大きくなるし、従って絶対音感だから言葉が成り立たないと言う説も危うくなるのでは?


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