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神の社会実験・第20章

気持ちよく目が覚めると、カーテンの隙間から日がさんさんと差し込んでいた。ベッドサイドの時計を見ると、7時半。ほんの昨日まで、窓に猿と泥棒対策の鉄格子が施された空調のない殺風景な部屋で、蚊帳の中で暑さと湿気にうなされながら眠り、雄鶏の鳴き声やアザーンで叩き起こされていた事が、嘘みたいだった。顔を洗って歯を磨いて、昨日の服を着ようかどうか迷った。滅菌って、どの位の時間がかかるんだろう。もう、終わったのかな。少し考えて、用意されている服を借りることにした。第一、わざわざ用意されているって言う事は、使った方が良いって事だろうから。クローゼットの中には、サイズ別で何着かずつ用意されていた。僕はシンプルなデザインのソックスとポロシャツ、それに薄手のハーフパンツを選んだ。仕立ても着心地も抜群だった。靴はどうしようと考えていると、僕の靴が入ったオーブントースターの様な箱の扉が開いていることに気付いた。赤いランプも消えていたので、安心して靴を履いて部屋を出た。

フロントに行ってベルを鳴らすと、はーい、とディルセの声がした。そこで僕は初めて、昨日のイヤーピースの事を思い出した。何と僕は、着けた瞬間からその装置の事をすっかり忘れてしまっていたのだ。それほどまでにしっくりとしていたとは、改めて驚いた。

「おはよう!良く眠れたみたいね、良かったわ。お腹がすいたでしょう、食堂はこっちよ。」

そう言って、また昨日の様に僕の腕を取り、きびきびと案内してくれた。僕の寝ていた部屋を通り過ぎ、左側のドアを開けると、そこが食堂だった。食堂と言っても、ちょっと広いキッチンに4人掛けのテーブルとイスがある、実に可愛らしい物だったのだけど。ドアを開けた瞬間に、焼きたてパンの香ばしい香りに包まれた。途端に、僕のお腹がぎゅるる、と凄い音で鳴った。僕が照れ笑いをしていると、ディルセは嬉しそうに笑った。

「パン、好きみたいね。焼いた甲斐があって、嬉しいわ。コーヒー?紅茶?それとも、ココアがいいかしら。冷たい飲み物は冷蔵庫に入っているから、好きにとってね。それから、卵は食べる?ゆで卵、目玉焼き、スクランブルエッグ、オムレツにポーチド・エッグ。色々できるけど、どれがいい?」

僕は目玉焼きとコーヒーを頼んで冷蔵庫へ向かった。一見他の戸棚のように木製の扉だったが、大きさからして冷蔵庫だろうと思われたので取っ手を引っ張ると、まず、ぷしゅっと言う音がして扉が透明になった。これで、開ける前に中身を確認できるようだ。扉には七色の瓶詰ジュースが揃っていて、僕はオレンジ・マンゴージュースを選んでもう一度扉を引いた。

「あ、ついでにハムとベーコン、好きな方を選んで取り出してちょうだい。それから、レタスとトマトもね。」

僕はジュースとディルセに頼まれた物を取り出して、冷蔵庫の扉を閉めた。扉は閉めてから一分ほどして、元に戻った。キッチンの奥に可愛らしい木製の手押し車兼作業台の様な物があり、その上にパンが入った籠、パン切りナイフ、まな板とトースターが乗っていた。そこで僕は、ディルセがハムエッグを用意してくれているうちに、パンを切った。香ばしいバゲットはまだ温かく、ナイフを入れるとガリッといい音がした。中身がもっちりとして、たまに大きな穴がある本格的なフランスパンだったので、僕は嬉しくなった。一切れはそのまま、もう一切れはトーストにして食べることにした。食卓に戻ってくると、もう湯気の立ったお皿が僕を待っていて、コポコポとマキネッタが音を立て始めていた。この二層式のコーヒー専用やかんのような道具は、コーヒー愛飲家である父が愛用していたものより大分お洒落だったけど、それでも僕は父を思い出して胸が一瞬きりっと傷んだ。僕は、思い切りコーヒーの素晴らしい香りを吸い込んで、心を落ち着けた。何だって、こんなにマイナス思考なんだ。何時だって戻れるって、院長先生が言ったじゃないか。その考えを見抜いている様に、ディルセは向う側の席から優しい眼差しでコーヒーを注いでくれた。そんな彼女の前には、コーヒーが一杯あるだけだった。

「さあ、冷めないうちにお上がり。」

そう言われて、僕は食べ始めた。それはもう、100点満点の朝食だった。全てが新鮮で、風味満点。ジュースは正に搾りたての味で、マンゴーの濃厚な甘みとオレンジの爽やかさが見事に調和されていた。分厚く切ったハムは、勿論プロセスハム何て言う代物ではなくて、筋線維の歯ごたえしっかりのロースハム。卵の焼き加減も絶妙で、ぱらっとシーソルトと黒コショウを振りかけて、トロッと流れ出す黄身を香ばしいバゲットで拭って口に入れると、最高のご馳走だった。そのバゲットも勿論、しっかりと発酵されたもっちり触感に程よい塩味と、噛むほどに甘みが感じられる、期待以上のクオリティーだった。サラダはクルミオイルと塩コショウだけの味付けだったけど、信じられない位美味しかった。トマトは素晴らしく甘かったし、レタスがあんなに風味豊かな野菜だったなんて、生まれて初めて知った。ブラックで飲んだコーヒーは薫り高い事は勿論、酸味が全くなく、その熱い液体が喉から胃へ流れ込んだ瞬間、悪魔院長先生に耳元で何か囁かれたように痺れた。僕が思わずため息を漏らして、その甘い余韻に浸っていると、ディルセが
「そんなに美味しい?」
と聞いた。僕が力を込めて頷くと、ディルセは楽しそうに笑い、「それは良かったけど、私の作った朝ご飯ぐらいで感心していたら、この島で暮らすのは大変よ。」と悪戯っぽく忠告してくれた。

「ディルセはもう食べたの?」

「そうよ、年寄りは早起きなの。」

僕はびっくりした。彼女はどう見てもおばちゃんと言う歳で、おばあちゃんとは程遠く見えたから。

「し、失礼ですけど、お幾つですか?」と、僕が思わず敬語で尋ねると、ディルセは大声で笑った。

「あらあら!こんな顔されたの、久しぶりねえ!でも、この島で年齢を確認しなくちゃいけないのは、年寄りじゃなくて若者よ。特におませな女の子はビックリするくらい綺麗だから、デートに誘うときは気を付けて。さ、食べ終わったら後片付けを手伝って。その後、一服したら、職業適性を調べるから。」

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