白米

”大潮の時は不調になっても大丈夫”という自分ルールを設けている。
海の高さがあんなに大胆に変わるんだから私の気分も浮き沈みが激しくて当然だからだ。
しかしながら今日は長潮。

長潮!!!!

最も干満が緩慢な日だ(つまらん)。

つまるところの気分が非常に芳しくないので困っている。
理由なんて結果の言い訳なので意味など持たない。たぶん。
主観を通した客観的に自分を眺めると、今の苦しみを楽しみたいような、敢えて悲しみに浸っていたいような、そんな行動をとっている。
最近の口癖は「でも、、、」
ありがちな悲観だ。
世の中に溢れすぎている。
人生の比較対象が多すぎるんだ。
そしていつまで経っても競争させられている気分をあらゆるタイミングで痛感させられるのだ。

そういえば大学生の頃はそういう競争社会に辟易して、野生化してやる!!!と思って淡路島に就職した。自由を求めていたのかもしれない。
就活はお遊び程度で大企業のインターンを受けてみて、高倍率に受かったのでそれであっさり社会を舐めてしまった。
そして参加したインターンはそれっぽい学びを与えただけの内容の無いまやかしだったのでさらに舐め腐ってしまった。

哀れな生き物である。

社会人になって4年目。
淡路島からは3年が終わった頃、息をするように引っ越した。
島での暮らしは素晴らしい毎日だった。
命を晒して会話するような友人がたくさんできた。
引っ越すことは川に流されるように自然なことだったので引っ越してみた。

最近、世の中に空っぽなものが多すぎるような気がして、自分が毎日働いていることも幼稚園生が作る砂のお城のようなものに思えて、いかにも浅い発想だが「人生を考え直さねば」と思い始めるようになった。
俗世に戻ったからでしょうか?それもある。

友人とLINEをしていた時に「2〜3年かけて取り組んだ製品開発が結局市場に出回ることなく頓挫した」という話を聞いた。
また新たなプロジェクトを任されているけどそれも同じ道を辿りそうで不安だと聞いた。

我々は大人になってまで”作って崩すことだけが楽しいお城”を必死なふりをして作り続けられるのだろうか。
多分難しいだろう。
少しばかりの年月を生きてしまっただけで強欲になってしまった。
お給料だけでなく成果や名声まで欲するようになってしまった。

これは直感だけど、全てが手に入った時にも根本的な虚しさは埋まらないのではと思う。

でもそれは現状に対する言い訳なのだろうか。


話は変わる。
ここ半年精米が面倒という理由で玄米を食べていた。
あと玄米は身体にいいとも聞いたので精米しない怠惰を美化させていた。
先日友人が家にきた時に玄米を精米してくれた。
炊き立ての白米の「柔らかさ・甘さ・包み込むような優しさ」にひどく感動した。

現状を美化させて、惰性からやってくる”変化の拒絶”を容認してはならない。
ただ精米するきっかけがあるだけで人生とは艶やかに光るものだ。

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