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人生は遠回りしたくなる。


人生は遠回りしたくなる。


僕は現在、ある種の人生における遠回りの道を歩んでいる。いや、歩んでいるように感じている。


高校を卒業して、しばらくしてから、遠回りする道を自ら選択した。決して順風満帆とは言えない道のりであるけど、あの日な決断に後悔はないし、人とは違う道のりを歩んで来れていることを時に嬉しく思ったりもする。

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しかし、一般的には遠回りは“悪”と言う固定観念があるような気がする。高校を卒業したら、その年に大学へ行く(浪人する場合もあるが)。大学を卒業したら、その年に就職する。それが普通とされる日本では、その道から一歩でもはみ出ようものなら、直ぐにドロップアウト(脱落者)の烙印を、社会という目に見えないものから押されてしまうのだ。


僕は日本という国が好きだし、文化や慣習も好きだ。そして、日本人であることに誇りを持っている。しかし、そこからはみ出すことを許さないような慣習は嫌いだ。日本は海外と比べると圧倒的に融通が利かないと感じるし、列からはみ出すことを許さない。もちろん、そのキチッとしたところが日本の良さでもあるのだが、、、。とにかく、横一列でスタートし、横一線でゴールすることを好むのだ。


幼い頃から、そんな慣習に嫌悪感を示してきたし、どうしても理解できなかった。そういった意味では学校という社会にも嫌悪感を示してきたし、敵対視してきた感がある。


なぜ、はみ出すことが日本では許されないのか、遠回りが許されないのか、そんなことを考え続けた日々もあったのだが、ただはみ出した自分を肯定したいだけなのではないかとも思ったりもした。


そしてやっと一つの答えのようなものに到達したのだ。実は近道も遠回りも、結局は同一のワンウェイなのではないかと。遠回りに思える先の見えない道は、近道を歩いている(普通の道を歩いている)と思っている人には感じられないことを感じながら、見えないものを見ながら、そして、多くのものを得ながら、歩みを進められているのではないかと。

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そういった意味では、遠回りするのも悪くないと思える。

もちろん、遠回りした分、どこかで同点に、そして、どこかでひっくり返していかなければならないのだが。


おそらく、僕らが歩いている人生という道の、その先にゴールはない。ゴールのように見えるチェックポイントがあるだけなのだろう。そして、そのチェックポイントをいくつも通過していくのが、人生なのだろうと思う。

僕は人生という道においては、遠回りした方が通過できるチェックポイントが多いような気がする。そのチェックポイントの数はその人の価値を高めているような感覚がある。


だからこそ、人生は遠回りしたくなるのかもしれない。



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