見出し画像

〈遠隔対象性〉、または「敵はとなりのハゲオヤジ問題」について

 子供の頃、「仮面ライダーV3」の替え歌があった。ちょっと調べてみたら若干の地域差があるようだが、だいたいこんな感じだ。

 赤い赤い 赤い仮面のV3
 ダブルハリケーン おもちゃのベルト
 一日使えば電池が切れる
 父よ母よ電池を買ってくれ
 そんなお金はありません
 自分のお金でお買いなさい
 敵はとなりのハゲ親父
 戦え正義の
 仮面ライダーV3

 この替え歌は、ぱっと見以上によく出来ている。というのもそこに批評の萌芽が見られるからである。一言で言えば、仮面ライダーV3に熱中するそこらへんのガキ――おそらくは歌い手自身――を冷ややかに見つめる第二の自我の立場で歌われており、そのような、自分をも含めた周辺世界を対象化し、客観視する視点を獲得し始めているのである。
 それだけはない。

 敵はとなりのハゲ親父

 いやー、この箇所にシビレますね。
 この部分の元歌は「敵は地獄のデストロン」であり、デストロンとは例によって例のごとく世界征服をもくろむ悪の組織なのだが、「そこらへんのガキ」にとってデストロンに代替される、この世で最も邪悪な存在は「となりのハゲ親父」なのである。
 この感覚が伝わるだろうか。

ゆんフリー写真素材集

 ちなみに筆者は幼少期、この世で最も邪悪な存在は叔父だと思っていた。
 
この叔父がとにかくもうめちゃくちゃに憎たらしいやつなのである。全宇宙を捜しても、この叔父ほど邪悪な存在はいない、と幼い僕は強く確信していた。
 大人になった今は叔父をどう思うかって? そりゃもうどこからどう見ても普通の人なんですね(ま、多少は偏屈だけど)。

 *

 こういういかにもガキらしいあるあるは、しかし案外大人になっても続くものであり、吉本隆明の言葉でいえば〈遠隔対象性〉ということになる。
 〈遠隔対象性〉とは吉本によれば、

「人間は、観念の過程にあるかぎり、つぎつぎに、より〈遠隔〉にあるものを、対象として志向する」

吉本隆明『書物の解体学』p.8

 とのことだが、こんな難しい言葉で言わなくても、吉本は次のようなわかりやすい例を挙げている。

 ある一定の年齢に達した人間は、まず、近親のところで、親や、親の世代と葛藤し、見くだしはじめる。これは、まず親からはじまって、親の世代の全般にわたるから、父系と母系の親族一統が、親等の近いところ、あるいは接触の頻度が高いところから、観念的な見くだし、あるいは葛藤の対象になっていく。つぎには、教師がいわば知的な近親としてその対象に択ばれる。
 (中略)
 親はくだらない、のつぎには、学校はくだらない、教師はくだらない、ということになるが、この時期(青年前期)の人間にとって、くだるような親や教師でありうるものは、どこにもいるわけがないということになる。

(同書、p.8)

 こうなると、ガキの発達過程あるあるに巻き込まれた周囲はいい迷惑であり、吉本も「都合のいい供犠」つまりイケニエだと述べている。

 したがって、仮面ライダーにハマるような年齢から(最近では大人もハマるようだがそれはそれとして)盗んだバイクで走り出す頃までこの〈遠隔対象性〉は続くというのだが、じつはこれ大人になってもそこそこの人が抱きがちな想念なのではないか、と思いもするのである。

 *

 今朝、ネットで注文していた『精神医学と文化人類学』という本が届いたのでぱらぱら眺めていたら、大平健「精神科外来の文化人類学序説 診療の先着順制をめぐって」というタイトルの論文があり、そこで、ほんの話のマクラではあるけれど、ある日の大平氏とイギリス人患者とのやりとりが紹介されていた。

 大平氏によれば、そのイギリス人患者はsocial phobia(社交不安障害)から母国の人々に馴染めずに日本へ渡って来たのだが、彼の抱く「暖かい日本人」というイメージは、母国の人々へのうらみつらみを引っくり返して作り上げた幻想であった。それゆえに、

 現実の日本社会、とは言っても英語学校の生徒たちとの交流にかぎられるが、ともあれ彼の日本での生活の中で二転三転の揚句に日本人一般への不満と返じざるを得なかったのだ。 

(『精神医学と文化人類学』所収、大平健「精神科外来の文化人類学序説」p.114)

 という至極当然の結果になる。
 そのイギリス人患者が、大平氏のことを「あなたのように気持の暖かい精神科医に会えてよかった」と言った、というのである。

 やばい。

 これはやばい。

 おそらく、近い将来に必ず大平氏のことを見損なった、オマエも所詮はうんたらかんたら~という流れになるやつだ、と予期させて不穏なものがある。

My social phobia found a cure in an unlikely place—death metal shows

 このイギリス人患者もまた、〈遠隔対象性〉によってそのつど身近なものを否定し、遠くにあるものに理想を投影しているのだと僕は感じる。
 そして、実際に遠くのものが手元にやって来たとき、ほどなく「(・A・)コレジャナイ!!」が発動するのである。いわばその繰り返しといっていい(一応、イギリスでも日本でも行った先々でことごとく冷酷で裏切り者のサディストばかりと遭遇した、という可能性もあるにはあるけれど)。

 〈遠隔対象性〉は身近なものを軽蔑すると同時に、遠くにあるものに理想を投影する。吉本の挙げる例でいえば、

 大抵気に入るのは、ドストエフスキーだとか、ランボーとかいう、まあ滅多にあらわれそうもない例外的な天才である。けれど〈かれ〉は、ただひとつのことに気付いていない。もしも、ドストエフスキーだとか、ランボーとかが、〈かれ〉の身近にいたとすれば、賭博の好きな飲んだくれ、どうしようもない、鼻もちならぬ文学少年あがりの商人として、まっさきに〈かれ〉の否定の対象となっただろうということである。

吉本隆明『書物の解体学』p.8-9

 これは「従者の目に英雄なし」という諺にも通じますね(どんな英雄も身近な者から見ると低俗だったりだらしなかったりして、到底英雄とは思えなくなるという諺。下記記事でそこそこ詳しく考察しているのでよかったらお読みください)。

 *

 それにしても、こうしたことは誰にでもある心だとは言いつつ、やはり強弱の個人差はあって、これがかなり強い人だと結構厄介なことになる。

 以下は複数の経験から思うことだが、最初に「あなたはとても素晴らしい人ですね」というような感じでくる人は後々、「幻滅した、やっぱりこいつはクズ」みたいなことになりがちなのである。
 一時期、あまりにそのパターンが続いたのですっかり警戒するようになってしまったが、ふと何かの本で「出会ったばかりの相手をべた褒めするのは大人の態度ではない」みたいな話を読んで、あーやっぱりね、そうだよねと思ったことがある。
 すぐ他人を買いかぶるのは、安易に理想を投影する幼さ、経験不足からくる視野の狭さ、不安定さ――往々にして後から幻滅した、見損なった、裏切られた的な展開になる危険性――を感じさせ、つまるところ距離を置くほうが賢明、と見做されてしまうのである。

 こういう人は、この腐敗した世界に堕とされており How do I live on such a field? 的な状態なので、どこかに自分にふさわしい、素晴らしい人がいるはずだと無意識で求めている。それで新しく知り合った人の第一印象がちょっと良いと「自分が心を許すべき人についに巡り会えた!」と舞い上がってしまう。
 そして後は言うまでもない。もとより相手はたまたま第一印象が良いだけの普通の人なので、ほどなく理想と現実の違いに気付くと、こんどは「いままでの奴らと同じクズ」という箱にぶち込まれてしまうのである。人類の圧倒的大多数を占める「普通の人」という箱がない、と言ってもいい。まさに吉本のいうような、都合のいいイケニエである。

Longing, Me, Graphite, 2020 : r/Art


 そんなわけで僕は、どうやらそうした投影を受けやすいタイプらしく、つとめて「ただの低俗なおっさんですよシグナル」を発する習慣が身についたのだった。
 僕が下ネタや不謹慎なジョークを定期的に言うのにはそういう深い理由があるので、本当はすごく品行方正なステキなおじさまなのである。そこらへんをわかってクンニ(・ω・)ノ

 *

 まあ、最後の個人的な話はそれって単なる感想なので、何かを証明したり意見したいというわけではない。ただ、一度この話は文章にしておきたかったので、ちょうどいい他の材料とともに語ってみたのでした。
 さて今日はこのくらいにします。それではまた、今後もザイールもどんどん書いてゆきたいと思うので、次の記事もよろしクンニ~~~(・ω・)ノシ



 なお当記事は単行本版『書物の解体学』を参照して書いております。あしからず。


もしサポートしていただける方がいたら、たぶん凄いやる気が出て更新の質・量が上がるかも知れません。いただいたお金は次の文章を書くために使わせていただきます!