ほらあの、「座談会」とか「対談」とか「共同討議」といった、言論誌の目玉となる、論客を招いて議論させるああいうコンテンツ。僕などは格闘技を観戦するような感覚で、それ目当てで雑誌を購ったりするのでれっきとしたファンである。 さて、その最初期の代表たる『新潮』の「新潮合評会」は、ある時期に注目すべき変貌を遂げたという。 大澤聡『批評メディア論』によれば、一九二〇年代後半に、いくつかのメルクマールとなった回を経て「《誰を論じるのか》から《誰が論じるのか》へと重点が移行している
百目鬼恭三郎『奇談の時代』は、なかなか直接読むのは敷居が高い古典文献を膨大に読みこなし、そこから現代の読者に向け、面白い奇談をテーマ別に次々紹介してゆくという、大変お得な本である。 これ自体で楽しむもよし、ちゃんと各話に出典がついており、巻末にはそれらの出典の簡単な解題も乗っているので、自ら古典世界に分け入るガイドにするのもよし、ぜひ座右にお勧めしたい一冊だ(ちょいちょいタネ本にするのであまり教えたくないまである)。 * さてその中に「奇行」という一章がある。タイ
さて、この春からばりばり書くぞ、と意気込んでいたのだが、「ものを書く」ということをあまりに本質的に考究した結果、ついに一丁字も書けなくなってしまったので慌てて路線転換する。ぐっと敷居を下げて適当に書いていこう。 * しかし、この間考えていたこともまったく無駄ではないと思うんですよね。まずはそれについて述べますと、 だいたいこういうことになります(念のために言っておくとこれは批評的文章、あるいは何かしらの思想性や作品性のある文章についての話ですのであしからず)。
窮鳥懐に入れば猟師も殺さず。 『顔氏家訓』「省事」にみる「窮鳥入懐 仁人所憫」を原文とするこの成語は、私見ではたいへん普遍的な人の心を言い当てている。 猟師は鳥を殺して暮らしを立てている。平素ならば、彼が鳥を殺すことになんの躊躇もないだろう。だがそのような猟師でさえ、いきなり(他の獣などに?)追い詰められた鳥が懐に逃れてきたならば、これを殺すことは出来ない。そればかりか、彼はこの鳥を救おうとさえするかも知れない。 先日、下記noteで「人の優しさや残酷さの発露の
川端康成の弟子筋にあたる文学者、桝井寿郎の身辺に起こったという怪談のなかに、とても短いが印象的な話がある。短いといっても6頁ほどあり丸ごと引用するわけにはいかないので、僕なりに要約して話すと… 日光の深い山中に、先祖代々庄屋をつとめていた旧家があり、そこには二尺ほどの大きな天狗の面があった。 雪子というこの旧家の娘は、幼い頃から、この天狗の面が怖くてしようがなかった。友達と校庭で遊んでいても、ふと気付くと物陰から天狗がこちらを睨んでいるのだった。ただし天狗は、雪子以外
仕事がら、いわゆる「読書家」という人種とよく接する。するとやはり「最近は若い人が本を読まなくなっちゃって…」というれいのぼやきを耳にすることが多い。たぶん、僕はフォロワーさんの誰よりもそういうぼやきを日常的に耳にしているんじゃないかと思う。 しかし、そういう物言いにはあまり共感できない、というか疑問山積なのである。なにぶん接客なんで「そうですねー」なんてニヤニヤと曖昧な受け答えをせざるを得ず、余計にモヤモヤが溜まってゆくのでこのさい吐き出してしまおう。今回はそういうエント
『日本全国酒飲み音頭』、あれちょっと変なんですよね。「一月は正月で酒が飲めるぞ」「二月は豆まきで酒が飲めるぞ」「三月はひな祭りで…」と続いていくわけですが、酒ならべつに毎日飲めるじゃん、と思った事はないですか。 でも本当はべつに変なわけじゃなく、ようするに日々の晩酌は数に入っていないわけです。そりゃお勤めしたあと、寝るまえに手酌でちょっと飲むということはあったでしょう。しかし「酒が飲めるぞ」というのはあくまで大勢で集まってワイワイ飲むことを言っているわけです。柳田國男も次
きょうは今後の思考のための、ちょっとした覚え書きです。 * このところ東浩紀の初期のテクストを読み返していた。そこでしきりに彼は、次のような話を繰り返している。 僕なりの言葉で要約させてもらうと、いわく、今は「大きな物語」(リオタールの言葉で、人々が共有する世界観や価値観のようなもの)が失われ、文化全体を見渡せるような特権的な視点が不可能になった。浅田彰の『構造と力』は、あたかもそのような視点が可能であるかのような幻想を人々に与えて熱狂的に支持されたが、83年時点
日曜日の夕方に愛聴している、一話完結の大河ラジオドラマ『NISSAN あ、安部礼司 〜 beyond the average』、通称「安部礼司」は、前半はまったりした笑い(ゲラゲラ笑うものではなくおなじみのキャラがおなじみのボケやツッコミをする程度)、後半になると泣かせる、エンターテイメントのツボを抑えた逸品だ。 「前半は笑い、後半は涙」というと吉本新喜劇を思い浮かべるが、涙(感動)の方向性がちょっと違う。吉本新喜劇の場合は人情、とくに親子の情に落とし込む場合が多いが、安
「ペンは剣よりも強し」というのは、通常は「言論は暴力に勝る」という意味に理解される。だが「ペン」もまた暴力になりうる。 つまり、「ペンは剣よりも強し」というのは、必ずしも善悪や倫理的な次元を含意していない。たんに「剣」が表象する軍事力からゲンコツに至る直接的暴力よりも、「ペン」が表象する論争からお前の母ちゃんデーベソといった言語的暴力(ここでは「暴力」という意味を極力ニュートラルに理解していただきたい)のほうが力が強い、と言っているのにすぎないのである。 言論はしばしば
noteをやっているとこれはこれで、Twitterとは別の川が流れているのを感じるときがある。noteにもそれなりに他の人の気配というのはあって、何人かTwitterからは姿を消した人がnoteで発信していたりする。またTwitterをやりながらnoteでは少しキャラを変え、別の話題を書いている人もいる。 もちろんTwitterに比べると人が少ないのは否めない。まあnoteにかぎらず、ブログ全体が流行っているとは言えない。ブログの全盛期はゼロ年代で、10年もしないうちに
いまではもはや珍しい話ではないが、我々の社会にはたまにインターネットを使って公開自殺をくわだてる者がいる。 たとえば2013年――当時はかなり衝撃を巻き起こした――スティーブンと名乗るカナダの学生が、画像掲示板サイト4chanで自殺を宣言し、それを見ていた別のユーザーが提供したビデオチャットルーム(最大200人視聴可能)で、「死の生配信」を行なった。 〝僕は最後に最善の方法でコミュニティに仕返しする。僕は進んでみんなのためにカメラの前でヒーロー(自殺)する〟 そう告
以前、このようなブログを書いた。 このブログの内容をかいつまんで言うと、2011年に職場に入ってきたおばさんが、たちまちのうちに雌ボス猿のように従業員間に君臨し、誰も面と向かっては逆らえない異様な事態が生じた(裏ではみんなボロクソ言ってたけど)。そして僕は、その雌ボス猿に嫌われてしまい、連日ひじょうに手の込んだいやらしい精神的迫害を受け、すっかり心を病んでしまった。そういう嵐のような一年の話である。 けっきょく雌ボス猿は一年きっかりで、僕ではなく別の従業員とケンカして
昨日のnoteで言い忘れてたんですが、 みなさん明けましておめでとうございます!!! 本年もよろしく御願いします(🐲ω🐲)ノ🎌🎍!!!!!! で、ですね。 昨日の話から続くんですが、万一昨日の記事を読んでいない人のためにAIに要約してもらいました(もちろん最終的に手を加えてます)。つまり今日の記事を読めば二つ読んだも同然! というわけです。お得ですね。 さて昨日の記事の内容は。 そういう話になったところで、「あれ、これって岡田斗司夫の『オタク学入門』みたい
1000字ていど、ね。久しぶりなんで。 ロラン・バルトの写真論『明るい部屋』に、ストゥディウム/プンクトゥムという二項対立が出てくる。 一応、ストゥディウムは「文化的コードに従った写真受容」であり、プンクトゥムはそれに対し「刺す」もの、「点」など説明される。しかし前後の文脈から切り離してこのように書いてもおそらく何を言っているのかわからないので、僕なりの言葉に要約します。 ようは「可愛い犬の写真」なら、写真中央に犬がいて、吠えたり人形にじゃれついたり、いかにも可愛
今日は自分のなかで好きな流れでツイートできたのでnoteにまとめておきます。Twitterのモーメント機能ってなくなったんですね。 きちんとした美術書をふまえた話ではなくあくまで僕が感じたことなので、そのへんはご了承ください。 まず手始めに、この短い動画を観てもらうといいかも知れない。クービンの作品のスライドショーだが、音楽もなんだか雰囲気にそぐっており、思わず引き込まれる。 そうやって考えると、このあたりの作品は母への愛と父への憎しみ、早すぎる母の死、といった象