喪失とエウレカ

エウレカとは

今更だが、「交響詩篇エウレカセブン」という、ロボットアニメにはまっている。

内容としては、要はセカイ系ロボットアニメとでもいえばいいのか、ボーイミーツガールとでもいえばいいのか、

まだ全編を視聴したわけではない(全50話のうち、25話までしか見ていない)のでなんとも言えないが、

要は、男子中学生(レントンという名前の、主人公である)が、ある日ロボット(ニルバーシュという名前の、非常に強力な人型ロボット)に乗った、嘘みたいに可愛い謎めいた女子(エウレカという名前)と出会い、ロボットに乗って何やかやと活躍したり悩んだりするという筋書きである。

要素としては、先述した通り、そのロボットの存在によって、少年少女の心象セカイが物理世界に影響を及ぼすという、典型的なセカイ系な枠組みの中で、宗教とテロ、戦争や人のエゴ、環境問題といった、社会派なテーマも盛り込みつつ、主人公レントンとヒロインであるエウレカの交流や、精神的な成長を描いている。

その中で、エウレカというヒロインは、乱暴に言ってしまえばエヴァの綾波レイ的なキャラクターで、あまり感情を表に出さず言葉少なで、しかし強力なロボットを乗りこなして残酷に戦う。ロボットに乗り続けると体調が悪くなるというのもなかなかエヴァ的だ(実はエヴァは何一つ見たことがないので、実はそんなことなかったらごめんなさい)。

そしてさらなる要素として、彼女は戦災孤児を拾って育てていて、かれらから「ママ」と呼ばれているのだ(作中では、彼女は15,6歳ぐらい)。「ママ」て。こんな細くて若くて可愛いのに、「ママ」て。

そんなエウレカだが、主人公のレントン少年と出会ってから変わっていく。簡単にいえば、要は明るくなったり、惹かれていったりするわけだ。レントン少年は、まずそもそもとしてなぜかニルバーシュに同乗するだけでロボットの性能が上がるという謎の能力を持っており、(その設定の真に意味するところなどは、いったんこの際どうでもいい)本人はただの元気な中二のガキなので、失敗やへまばかり繰り返すのだが、それでも「いるだけでロボットの性能を上げられる」という設定と、「エウレカは失敗やへまを特に気にせず、ただひたすらにレントンに惹かれている」という心象とが、これまたオーバーラップして、結果的にエウレカは「無条件に好いてくれるヒロイン」でいてくれる。

先述したが、乱暴に言ったならば綾波レイのようなキャラクターではあるのだが、比較的エウレカはかなり素直というか、感情を出さないわけではないのだ(若干矛盾するものいいになるが、頑張ってついてきてくれ。)。彼女自身、それをうまく自覚したり、コントロールしたり、表現するすべを持っていないので、結果としてレントンと衝突したりすることもあるのだが、そこは冒頭でも述べた通り少年少女の精神的成長というテーマに包摂されつつ、また強い魅力として輝くのである。

ここまで紹介しただけでも、要はこういうことでしょ、と、僕という一人のオタクが(言っておくが、僕はほとんどアニメやゲームの類をやらない。ただし、精神的にはバッチシ、オタクなのだという自覚はある)、オタク受けする要素にみごとにやられているという構造を分析することはできる。

話は単純だ。要は、強いバブみを持った、都合のよいヒロインに、自身の欲望をただ投影しているだけなんだろ?

ある意味ではそうだ。確かにエウレカは可愛いし、なんというか、ブヒッ・・・という気持ちになる、それは否定しない。

しかし、それを越えて、僕はエウレカというヒロインから、いろいろなものを得ることができた。

そのいろいろなものについて、少しだけ書いてみようと思う。

風前の灯

先述したように、エウレカは割と素直なキャラクターである。ストレートに好意を伝えるし、あるいはストレートにやきもちを焼いて衝突したりもする。本人としては、それに自覚的になったり、コントロールしたりすることができないが、それはそれで、純粋であるということのあらわれともとれる。

そして、そんなエウレカは、そのままストレートに主人公レントンに惹かれていくのである。そこには特に根拠は無い。むしろ、根拠が見えないように描かれているとさえ思える。

そこでは、我々は、「人を好きになること」の、あまりにも童貞的な、しかし純粋なかたちをその向こうに透かして見る。

それはあまりにもまぶしいが、確実に、我々の忘れていた、あるいは捨ててしまった、顧みなくなった何かを思い出させてくれる。

夕暮れに望郷が蘇るように、その美しさは連想を呼ぶ。つまり、言い方としては陳腐だが、我々はエウレカのその純粋な好意の表出に、「人を好きになること」のイデアを垣間見るのである。

ここで、我々はエウレカ自身の可愛さ ― 驚異的なキャラデザで、他を圧倒するルックスの可愛さがある。声も嘘みたいに可愛い。動きももちろん可愛い。ブヒッ ―に対する、童貞的な、あまりにも低俗な劣情を勘違いし転倒させて、郷愁の中にそれを肯定することができる。

分かりきったことだが、ロマンティック・ラブの罠において、我々のような童貞マインドの人間が、惚れた対象の内面を神聖化してしまうのは、結局のところ対象の外面に対して単純な劣情を抱いているにすぎないからである。

その誤謬、転倒を乗り越え、ついに対等な精神的交流を異性と行えるようになったはずの僕であったが、それにより、原初抱いていた、そのような神聖化された劣情を、結局のところ抑圧することとなっていたのだった。

これは悲しむべきことだろうか?童貞マインドを卒業したと思っていた僕だったが、結局のところ卒業したのではなく、単にものわかりがよくなって、童貞マインドを抑圧していたにすぎなかったということは?

しかし、しかし、エウレカの美しさは、それを再び表出させ、肯定させてくれる。つまり、エウレカは可愛い。それは劣情と呼んで間違いない。冒頭で論じた通り、エウレカは当時および現代にも通用する萌え要素をふんだんに取り入れた、単なる都合のよい工業製品のようなアニメキャラクターである。僕はそれに単にストレートにやられているだけの萌え豚である。それは議論の余地なくそうである。しかし、その劣情は、彼女自身の純粋性により、再び転倒され、肯定される。

つまり、人を好きになるっていいなあ・・・まぶしいなあ・・・みたいな、寝ぼけたことを言い出すようになるわけである。

それはあまりにもキモいことではあるのだが、そこに我々は、知らず知らずのうちに抑圧された、外面に対する単純な劣情を転倒させた「純粋性」と、その対象であるはずのキャラクターがみせる「純粋性」のようなもの(当たり前だが、二次元のキャラクターに純粋性もくそもない。それらしき演技や動画があるにすぎない)とを、歪に同化する。たとえるなら、夜に室内の窓ガラスから、夜景を見ながら、窓に映る己と窓を通して見える夜景とを重ねて見るがごとくである。

喪失とエウレカ

続いて、本稿のタイトルにもあるが、喪失という、僕のライフワークともいえるテーマである。

ごく簡単に言って、僕は「喪失」というものに強く執着して青年時代を過ごしてきた。これは先述した童貞メンタルと遠からぬ位置にある価値観だとは思うが、喪失感、センチメンタル、みたいなものに対して、マゾヒスティックなこだわりを持っていた。

結局のところ、失ったものはいつまでも美しいとか、感傷はいつでも甘いとか、そういったものたちなのだろうが、とにかく、「喪失すること」については、僕はなみなみならぬ執着を持っていたことは、間違いがない。

無職だった時代には、僕は舞台の振付や演出を主にやっていたのだが、「たくさんの喪失について」という、これまた直球なタイトルの、「喪失すること」に対する憧憬をこれでもかと詰め込んだ作品を作ったことがある。それに至るまでも、街の幻肢をテーマとした「呼吸する街、ないはずの家」という作品や、旅行することを喪失の連続ととらえた「ミス・ユー・オール」など、とにかく「喪失すること」をメインテーマとして、作品を作り続けてきた。

なので、自慢ではないが、「よい喪失」「甘美な喪失」には、人一倍強い嗅覚を持っている自信がある。

その観点からいって、エウレカは、純粋性と同時に「喪失」そのものであるとも感じられた。

それもとびきりに甘美な喪失である。

それはなぜか。
喪失とは、意外と難しい。失うためには、それを得なくてはならない。強い喪失感を覚えるためには、まず錯覚しなくてはならない。

その錯覚とは、それを「得た」と思い込むこと、そしてそれが「得られている」ことが当然であると思い込むこと、つまり強く足場を踏み、そこに体重をあずけることである。

エウレカは先述した通り素直である。それによって、それを窃視する我々は、彼女のことをわかったような気になることができる。まるで恋人のように、彼女の葛藤を知っているし、まるで家族のように、彼女の生活を知っている。

なぜなら、それは窃視であるからである。舞台芸術と比較する必要もなく、わかりきったことだが、エウレカはけっして画面の向こう側を意識しない。つまり、我々はエウレカに相対しない。それはつまり、より「素」の彼女を見ているはずの位置にいるということである。これは非常に効果的に、我々が彼女のことをわかったような気になることができる。「客観」を錯覚することが可能になる。

しかし、彼女は実在しない。

彼女は崇高なる二次元のアニメキャラクターにすぎず、我々は現実世界に生きる猿の末裔にすぎないのである。

そこに我々は強い喪失を覚えることができる。我々は彼女がレントンの前でどんな表情を見せるかを知っている。ロボットをうまく乗りこなせないとき、どういった葛藤をしているかを知っている。しかし、彼女はいない。日々、観察者ではなく一人の人間としてしか、人と接することができず、そして人と接さなければその人を見ることができない我々にとって、取り繕ったり、取り繕われたり、見えなくなったりする他者と比較して、全てを窃視することができるキャラクターの方が、より見えているはずである。にもかかわらず、いや、であるからこそ、彼女はいない。実在しない。その事実が、甘く、強烈で、きらめくような喪失感を僕に与えてくれるのだった。

思えば、彼女が画面上に登場した瞬間から、淡い喪失感を僕は抱いていた。それは、彼女は主人公を、つまり「僕」を、好きになってくれるだろうが、しかし彼女はいないのだということを感じてしまったからなのかもしれない。

終わりに

それはまるで、夏の午睡から醒めたときのようだ。

どこか遠い夢の中で、だれか知らないがとてつもなく可愛い女の子に、無条件で好かれていた、そういうキモい夢を見ていた、それはキモかったが幸せだった・・・

そんな夢を見ていたことだけを思い出して、なぜか枕を濡らしてしまうような、そういった漠然としていながら、しかし強烈な喪失感。

ひょっとしたらだが、確実にキャラクターが存在しないことが保証されている、二次元のアニメやゲームは、そういった「喪失感マニア」にとっては、実は宝の山だったりするのかな、などと思いを馳せてしまう。

ひとまず、「交響詩篇エウレカセブン」は、TVシリーズが全50話、後日談的なシリーズが13話あり、さらに劇場版も公開済みのものと未公開(今年、来年と公開予定)のものとがあり・・・と、まだまだ楽しめそうだ。

これからも楽しみたい。

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