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右がわからないこと

右と左がよくわかんなかった時期ってありましたよね。


よく、「右と左を宇宙人に説明するのは難しい」と言われたりします。
すなわち「定義するのが難しい」ということなんでしょうか。
たしかに、わかりやすく左右を説明しろといわれたら、ちょっと苦労するのかもしれません。

「右」「左」という概念を理解するのに、私も子供の頃少々苦労したような記憶があります。
どうやら、おとなになってもこれを瞬時に判別できない方々もいるらしい。大変ですね。(別に大変ではないのかもしれない)

でもこれ、べつに宇宙人に対して左右を説明することが問題なわけじゃないと思うんですよ。

私がちょっと思うのは、こういった当たり前の概念の共有に関する認識についてです。(何言ってるのかわからないね)



どういうことか、話してみます。左右は良い例です。

右左、という概念を聞いたことがない日本人はいないでしょう。(多分)
99.9999…%の日本人はこの言葉を聞いたことがあります。

しかし、子供はまだその判別がおぼつかなかったり、大人でも「あぁ、、えっと?」となる人がいるわけです。

しかし、わかる人は「わからないわけがない」と大抵認識しています。
左右がわかるのなんて当たり前、そんなのわからないことあるの?と思っているわけです。

「いや、べつにおもってないけど、、、」と思うかもしれませんが、左右がわかっている人は、全員「左右の判別はできて当然」思っています。
わざわざ思っている訳じゃないんです。
とっさの指示や道案内の時、「画面左の、、、、」「二つ目の信号右に、、、」と何の抵抗もなく発言します。

このとき、相手が左右の判別がつきにくいと考えていますか?

考えていないはずです。

これは多分、人間の性格の問題とか、配慮の問題とかではありません。
「左右」という概念が意外と複雑で練習と慣れが必要なものであるが故でしょう。また一度認識すれば、そのあとその判別ができなくなることはない不可逆性によるのかもしれません。


ほかにも、「あるく」という動作も、以外と複雑で練習が必要な技能です。
昔アシモというロボットがいましたよね。東京科学未来館に見に行った覚えがあります。

HONDAのHPより引用


彼は「歩けること」を一つのステータスとして生まれたロボットです。
二本の足だけでバランスを取りつつ重心を中心に据え、そこそこの速度で前進および後進する動作は、結構大変なんですね。

人間が発明した「車輪」のほうが、遙かに使いやすい技術なわけです。
多分、歩く動作も「左右」と同じように人間の感覚を基盤としたものなのでしょう。そこに難しさがあるのかもしれません。



話を戻します。
当たり前に感じられる、いみじく日常的な「左右」という概念。
しかしこれが苦手な人もいる。
そして、左右が当たり前すぎるあまりに、それが苦手な人の存在を創造できない。それが「左右」という概念の特性だ。

そういう話でした。

何が言いたいかというと、そういう概念が結構世の中にはあるんじゃないかと言うことです。
自分は簡単、当たり前だと思っていたことが、他人にはすごく難しく、苦手なものだということがある、というわけです。

よく「常識を疑え」という言葉を見ます。
この言葉は、「世の中にはびこる伝統的な因習や、むだな習わしを改革しよう!世の中の異常さに気づこう!」みたいな意味に解されやすいです。

ただ、常識というのは自分の中にあるものです。他人の常識をはじめから理解している場合などありません。まして世の中の常識なんていったら、どれだけ複雑なものなのか、全く想像もつきません。

きっと「常識を疑え」の本当の意味は、
「自分が思ってもいなかったことが世の中には多くある。それに耳を傾ける覚悟を持とう」ということなのではないでしょうか。

でも自分の中の当たり前を疑うことができている人なんて、どれくらいいるんですかね。
ほとんどいないんじゃないでしょうか。おわり。




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