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生成AI画像の話(その2)

4月21日に書いた「写真か否か」の続きです。

前回は(写真家ではない)写真を撮る者の視点で生成AI画像についての意見を書きました。この時は記録かアートかという分類しか思いつきませんでした。
しかし写真を生業とする写真家の視点、あるいはそれを見る側の視点に立つと、生成AI画像には記録でもアートでもないメディア(たとえば商業目的のイメージ)としての可能性が非常に大きいと思い至りました。

映画では、CGを使ったものが既に普及してきています。ドキュメンタリー映画以外は、架空の世界を描いたり、脚色し、意図的にデフォルメしているわけですから、これだけCGが使われていてもそれに文句はほとんど出ません。(総て実写でやってほしいという意見は勿論あるでしょう)
それから「実写版」の範疇にCGを使ったものも含まれているのは興味深いですね。

閑話休題

これまでスチル写真が担っていたポスターや雑誌などのメディアについても、映画におけるCGと同じように、生成AI画像を含む写真以外のものに次第に取って代わられるんでしょうね。
そして映画にCGが進化した生成AI動画も使われるようになってくるんでしょう。
個人として簡単にそれができる時代が来るのは非常におもしろいですが、それはクリエイターにはより高い創造性が求められる厳しい時代です。
そこで写真家と生成AI画像クリエーターは区別されるのか、同じ土俵での戦いになるのでしょうか。

僕はコミュニケーションツールとして、出会った人・場面の記録としての写真が大好きですので、これを手放して生成AI画像に行くことは(今のところは)ないでしょう。しかし対話型生成AIの可能性をいろいろ試してみているように、生成AI画像も食わず嫌いにならずに使ってみたいと思います。

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