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BLOW THE NIGHT!

浅き夢見しストリート・スライダーズ
「40th ANNIVERSARY Hello!」に思うこと。


1983年(はるか昔だ)。
大分のライブハウスにストリート・スライダーズがやって来るという情報をどこかで聞きつけ、彼らの発売されたばかりのファースト・アルバムにイカれていた大学浪人の僕は受験勉強そっちのけ(て、元々やってないのだが)で観に行った。

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同行したのは高校3年の時に一緒にパンクバンドを結成し、自主映画を作り、高校の卒業式直後にそのライブと上映会を一緒にしたちょっとしたフェス(イベント名は『バナナブレッドのプディング』だった。もちろん大島弓子の漫画から)をボウリング場内にある卓球場を借りて開催した、その首謀者の見来(みく)だ。

見来とは同じクラスになったことはなかったが、同じ小・中学校に通い、中学の3年頃、つるむようになった。何故つるむようになったのか全く覚えていない。高校は別だったのにも関わらず、さらにつるむようになっていた。

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見来の実家は江戸時代創業の造り酒屋で、酒蔵には年が開けてしばらくすると杉玉がつるされ、学年末が近いことを教えられた。
見来は店の衆から「若旦那」と呼ばれていた。

見来は当主であり、地元の名士でもあった父親に「新酒のお披露目会で流す良い曲はないか?」と聞かれ、ギル・スコット=ヘロンの「ボトル」(アルコール依存症の人たちを描いた歌)を流させた馬鹿者である。

使わなくなっていた酒蔵にアンプやドラムセットを運び込み、見来がベースを弾き、僕はドラムを叩いた。ジャー・ウォブル直伝のベースが低音でブオンブオン響きまくるオリジナル曲をエンドレスで演奏した。蔵の構造がちょうど良いエコー空間を作り出し、僕たちは演奏に没頭、ドーパミンが出まくり、とても気持ちが良かった。
演奏が終わって青りんごの匂いが残っている暗い蔵から外に出ると、休憩中の職人等にきつく睨まれた。悍しい爆音にうんざりしていたのだ。一度、見来のいないところで中年の職人に「へたくそが煩いんじゃ」と胸ぐらを掴まれたことがある。僕は「酵母に聞かせてあげとるんじゃ」とびびりながら言い返した。

若旦那ではあったが見来はなぜか、貧乏な僕らと一緒に放課後、夕刊の新聞配達のアルバイトをやっていた。給料をもらってはパンクやニュー・ウェイヴのレコード、映画やマンガ(創刊したばかりのビッグコミック ・スピリッツとヤングマガジンをお互い買っては交換して読んでいた)につぎ込んでいた。「若旦那」の自分に馴染めなかったのかもしれない。

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地元の映画館サンケイ2で「さらば青春の光」を観たその日、見来は「俺はジミーになる!」と宣言。放出品のモッズコートをどこからか安く入手して細身のパンツ(学生ズボン)にそれを羽織って新聞を配っていたが、スクーターは本場物の高級ベスパであった。学生カバンには自作の「THE WHO」のロゴを印刷し颯爽と登校したが、それを見咎めた教師に殴られた。

また見来はクラッシュの来日公演に行くために上京費用を貯め込んでいた。出発当日、興奮しすぎたのか、原因不明の高熱に襲われ、泣く泣く、生「ロンドン・コーリング」は諦めたのだった。
しかし、体調が回復すると突然「俺はスコセッシになる!」と宣言、クラッシュのライブで使わなかった金を製作費に回し、「タクシー・ドライバー」にインスパイアされた自主映画「幻想のサンバ」を監督し、「バナナブレッドのプディング」で公開したのだった。

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当時の見来の将来の夢は「ビッグコミック ・スピリッツ」に連載していた漫画「ぼっけもん」の主人公 浅井義男と同じく「シアタービル」を建設、スコセッシやコッポラの作品に混じって、自分の映画をそこで上映することであった。

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高3の大事な時期にそんなことをやっていたのだから、当然2人とも受験に失敗した。そして浪人生の身でありながら、見来は予備校の寮から、僕は地元から鈍行列車で2時間をかけ、大分市内のライブハウスに勇んでやってきたのだ。
入口の前には10人ほどの観客が開場を待っていた。列に並び、見来と近況など交換しつつ入場を静かに待った。開場時間が過ぎ、開演時間も過ぎて(!)も入場出来ず「何かがおかしい」気はしても、そもそもライブハウスになど来たことがないので遅延するのが当たり前なのか、どうして良いのかわからないまま(他の観客もみんな途方にくれていた)悶々としていた。
陽が暮れてきた頃、ようやく無愛想なバンドマン達(見た目がいかつく不良で怖かった)がやってきて、待ちくたびれて涙目になっている僕達には目もくれず、さっさと店内へ消えていったのだった。それがストリート・スライダーズだった。

そこからさらに待つこと小一時間(バンドマン達はたぶん楽屋でくつろいでいたのだろう)して入場が許された。観客は20人くらいだっただろうか、疲労と不穏な空気の中、小さなステージに無愛想なバンドマン達が登場。そのキレキレな佇まいがまた怖く、怯えきった子犬のような僕達観客に一瞥すると、無愛想だけどルーズで強靭なグルーヴを叩き出した。
僕達は今まで味わったことのないロックの凄さにあっけにとられ(ライブでどう振る舞ってよいのかわからないこともあり)パイプ椅子に座ったまま呆然としていた。しかし興奮が段々と高まり、内なるヴォルテージが臨界点を超えた瞬間ほぼ同時に観客は立ち上がり、ライブハウスは騒乱状態となった。その集団ヒステリーぶりは本当に凄かった。

ただ見来だけは終始椅子に座っていたので「どうしたのか」と終演後に訊ねると、彼の目の前、本当に手が届くところで蘭丸がジャギジャギ、ギターをカッテングしているその姿のあまりの猥褻さに腰が抜けて立てなかったそうだ。

そんな強烈な夜だったが、その後の記憶がまったくない。

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見来は翌春、大学に進学。自主映画を撮りながらも無事卒業し、家業は継がず、優秀な銀行マンとなった。

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このライブから15年後、大分から遠く離れた東京で、そのライブハウスにいた数少ない観客のうちの一人と知り合うことになるのだが、それはまた別の話である。

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その後、ストリート・スライダーズは意固地で決して売れ線ではない音楽を作り続けたが、メジャーの第一線で活躍するようになった。僕はアルバムが発売される度に聴いていたものの、なかなかライブには行くことが出来ず、2000年の武道館での解散ライブもチケットが取れず、結局ライブを観たのは大分でのライブ一度きりであった。

そして2023年、ストリート・スライダーズが23年ぶりに再結集ライブを行うとアナウンスされた。当然僕もチケットを入手しようと躍起になったのだが、プレオーダーは1次、2次とも外れ、一般発売は数分で完売。結局チケットを取ることができなかった。
あきらめの悪い僕は、新曲が1曲もないことから買うのを躊躇していた新譜「On The Street Again -Tribute & Origin-」の特典にスペシャル・プレヴュー・ギグの抽選券が入っているというのでネットで注文。公開リハーサルが結構な代金でちょっと嫌な気持ちになったが、応募。結局それもハズレてしまった。翌日は朝早い用事があるのでまあいいんだけどさ……。

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見来と僕がバンドの練習をしていた蔵は老朽化のため取り壊して、しばらくの間は空き地だった。

見来は父親から相続したその土地を地元に寄付をした。現在、跡地にはカフェを併設した小さな劇場が建っている。奇しくも見来の夢がある意味叶ったことになる。

今度帰郷した際に行ってみようと思っている。当時蔵の中で失くしたドラムのチューニングキーが今もひっそりとどこかに落ちていないか探してみたい。

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