とある宗教の親に育てられた自らの半生⑤

子供は親を選べないとよく言う。
親も子供を選べないとも言えると思うのだが、自分が親になって、子供に対してこんな子は嫌だ、隣のあの子と変えたいなんてことは1度も思ったことはない。
しかし、親に対してはわたしはいつも思っていた。
どうしてうちはエホバなんだ?
友達の家のお母さんが優しくて、その家の子供になりたいとすら思っていた。
いわゆる、わたしは親ガチャに失敗したのだ。
親にこうして欲しかったと思うことがたくさんあるので、自分が親にして欲しかったことを子供にしてあげたいと真剣に思う。
ただ独りよがりになってはダメだ。
それは自分のエゴになってしまう。
子どもが何を望んでいるのか?を思ってあげるだげでほとんどのことは解決すると思っている。
その望みを知る術が意外と難しかったりするのだが。

わたしの父親は、わたしが家を出るまでは信者ではなかった。
むしろ積極的な反対者だった。
そのためわたしの両親の間には、喧嘩が絶えなかった。
週末になれば険悪な雰囲気が漂い、口を開けば罵詈雑言の雨嵐であった。
夜通し喧嘩が続いたりしたので、眠れない夜も幾度か過ごした。
わたしは、2階の自分の部屋で寝ていたわけだが、下から本当に大きな声が響き渡るのだ。しかもたまにガチャーン!と何かを投げつけるような音も聞こえたりした。

それでもわたしは、母親が大好きだった。
母親に嫌われたくない。その一心で母の言うことに従い続けてきた。
だから母の敵は、わたしにとっても敵であった。
ゆえに、エホバの教えに理解を示さない父親は敵だったのだ。
わたしは、父親に対して好きという感情を持った記憶がない。大きくなるにつれて憎悪の気持ちの方が強くなっていった。
なんで一緒にいるんだろう?
こんなに辛辣な言葉をぶつけあって、家族でいる意味があるんだろうかとずっと思っていた。
だから、正直離婚して欲しかったのだ。
そうすれば平和に生活できる。
そう思っていた矢先に、父親は会社の出向を理由に一時的に家を出ていった。つまり単身赴任である。週末には帰ってくるわけだが、それでもそのおかげでわたしの精神衛生はいくらか改善された。
一旦離れて暮らしてしまうと、もう元にはなかなか戻れないものだ。
いないことに慣れてしまうと、いる時が余計に窮屈に感じるのだ。
だからわたしが堂々と家の外に出られる理由は宗教活動しかなかった。
だから、父と過ごしたくない、あるいは父と母が一緒の空間にいるのを見たくないという理由から、その活動に力を注ぐようになったのだ。

あまり正確には覚えていないのだが、小学4年生あたりには、エホバの証人の正式な信者となるための第一歩、神権宣教学校に入校した。
学校といっても別の教育施設があるわけではなく、外に出てエホバの教えを人々に伝えるための訓練を受けるということ。
週に3回ある集会のうちのひとつが神権宣教学校で、そこで友達にどうやって教えを伝えるのか、または営業活動のように家から家へ回って、どのように教えを伝えるための糸口をつかむのかなどを学ぶ訓練。
その集会で割り当てと呼ばれるものがあって、2ヶ月に1回くらい自分の割り当てがやってくる。
その割り当てでは、信者同士が配役を決めて、例えば自分が伝える人、相手は学校の友達になりきって、5分程度の軽いショート劇場みたいな台本を考えることが要求される。
それを実際に集会でみんなの前で披露するわけだ。
この神権宣教学校には、監督がいて、監督はその信者が披露する割り当てを見てから、感想を言うのだ。そしてもっとこうすればいいんじゃないかとか、適当なことを言ってくる。
というのも素人が考える脚本で芝居とも言えない実演を聞いて、実生活に役立てるわけがない。
いま思うとなかなかシュールで不毛な時間だったなと思う。
まあ、信者であった期間全てが不毛なわけだが…

この割り当てを2回~3回こなすと、今度伝道者と呼ばれる立場になることができる。
わたしは確か伝道者になったのは小学6年くらいだったと思う。
伝道者になると、実際に外に出て家から家へチャイムをならし、ものみの塔の雑誌を持って家の人に話をして、いわゆる布教活動に参加できるようになる。
この布教活動は、基本的に毎日午前中行われている。
週末になると午前も午後も、時には夜の布教活動もあった。
この布教活動のことを、野外奉仕と呼んでいた。
熱心なエホバの証人は、この野外奉仕を朝から晩までひたすらやるのだ。
教団からは報酬は一切ない。
これが恐ろしい。
報酬なんかいらないくらいの喜びを感じていると真剣に思ってしまうと、ここから抜け出すのはかなり難しい。

わたしは実際に信者になったのは中学一年の時だった。
次回はその事についてお話ししようと思う。

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