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【試し読み】 クレイジーDの悪霊的失恋-ジョジョの奇妙な冒険より-

『クレイジーDの悪霊的失恋-ジョジョの奇妙な冒険より-』発売を記念して、本編冒頭の試し読みを公開させていただきます。

あらすじ

一九九九年。ひとりの男がエジプトを発った。ホル・ホース......。かつて『DIO』の配下であり、『皇帝』と呼ばれたスタンド使い。
現在、探偵業を営む彼の目的は、『DIO』が飼っていた一羽の鳥だった。
ボインゴの予知が示した地・日本へ向かったホル・ホースは、ひとりの少年・東方仗助と出会うことになる――。
これは、なくしたものを探し求めている者たちの物語である。
『恥知らずのパープルヘイズ』の上遠野浩平先生が描く、3部と4部の狭間の物語!! カバーイラストは荒木飛呂彦先生描きおろし!!

それでは物語をお楽しみください。

クレイジーDの悪霊的失恋

『……君は死んで燃え尽きるときに自由になるんだろうか? 生きた証はすべてなくしてしまって、後にはきっと、乱雑に散らかった混沌と、くすんだ灰が残るくらいなんだろうし、ああ――もし永遠の勝利なんてものがあるなら、そいつはきっと積み重なった灰の底の底に隠れてる、星のように輝く、砕けないダイヤモンドみたいな……』

――チプリアン・カミュ・ノルヴィッド〈舞台裏にて〉

 一九八八年、エジプト――ナイル川沿岸都市のひとつ、ルクソール南市街地の路地。
 その日の夜は暗かった。
 観光地であり、表通りにはまだまだ人通りも多く、雑踏のざわめきが周囲に充満していた。
 だが――その建物と建物のあいだの、ほんの小さなかんげきでは、異様な気配が充満していた。
「ううう……!」
 少女は全身に鳥肌を立てて、がたがたと震えていた。寒いのではない。陽が暮れたとはいえ気温はまだ二十五度以上ある。それなのに今、彼女は身も凍るような気持ちにさせられていた。
「いいか、決してここから出るんじゃないぞ!」
 少女にそう言い聞かせているのは、彼女の従兄弟いとこの少年だった。いつも、とても落ち着いていて、頼りになる優しいおにいちゃん……だが今は、その彼の顔にも緊張があり、眉間に深いしわが寄り、ほおっている。
 恐怖で。
「お、おにいちゃん、怖い――」
「大丈夫だから、絶対に顔を出すなよ!」
 少年はそう言うと、彼女を押し込めた建物のくぼみから飛び出していった。
 通りに出た少年は、通りの向こう側からこっちに歩いてくるひとつの人影に、きっ、と鋭い視線を向けた。
 するとその人影は、すうっ、と手を胸の上に上げて、ぱちぱち――と小さく拍手をした。
「見事なものだな――きょういんのりあき
 少年の名前を、ひどく馴れ馴れしい口調で呼びかけてくる。
「やはり君自身を襲うのではなく、君の家族を狙うのが適切だったな――助けに来ると思ったよ、必ずな」
 その男は――ああ、しかしそいつは本当に男なのか。いや、人間なのか。
 他の何者にも似ていない、しびれるようなあやしい色気がある。ついふらふらと吸い寄せられてしまうような、魅惑的でさえある気配が漂ってくる。
 ただ――冷たい。
 とてもとても冷たい――まるで死体のように、その気配からは体温がまったく感じられない。
「くっ――」
 ひるみそうになる花京院に、その影はさらにゆっくりと近づいて来ながら、
「大したものだ――このの視線を正面から受け止められる者はほとんどいない。やはり優秀なスタンド使いだ」
 と言った。
 花京院は眉をひそめて、
「スタンド……?」
 と訊き返した。するとDIOと名乗った影は、かすかにうなずいて見せて、
「そうだ――そういう風に名付けたんだよ。君に存在している、その〝操作可能な守護霊〟のような現象を、私はスタンドと呼んでいる。言い得て妙だと思わないか? 人のかたわらにあらわれ〝立つ〟から〝スタンド〟だ――特別な能力だ。君は生まれついて、それを持っているんだろう――そして、私も持っている」
 ゆらり――とDIOの周囲の空気が揺らめいた。その身体からだからなにか濃密なものが噴出して、その周囲を、世界をDIOの影で塗りつぶしていくかのように……迫ってくる。
 花京院の身体が、ぎしっ、とこわった。
 圧倒されていた。
 彼にはわかったのだ――そう、同じスタンド使いとしての感覚で、エンジン音を聞いただけでそれがブルドーザーだと直感できるように、本能で悟っていた。
 パワーが違いすぎる。
 彼に備わっている能力とは、根本的に桁が違っている――どうあっても敵わない。
「ぐ――」
 喉元に苦い酸味が突き上げてきた。吐きそうになっていた。内臓が、骨格が、細胞が――肉体があまりの恐怖にパニックを起こしかけていた。膝ががくがくと震え出しそうになっている。
「ぐぐッ――」
 後ずさりしそうになる。だが後退はできなかった。彼の背後には、彼の小さな従姉妹いとこが震えているのだ。逃げることだけは絶対に――と花京院が決意を固めた、そのときだった。
 にいっ――とDIOの紅い唇が吊り上がった。その恐ろしい微笑ほほえみの向こう側から、声が響いてきた。
「ゲロを吐くぐらい怖がらなくてもいいじゃあないか――安心しろ、安心しろよ。怖がることはないんだよ、花京院――友だちになろう」
 それは心に直に染み込んでくるような柔らかさと、底無しの安らぎがある響きだった。花京院は一瞬だけ、その声に……
(あ……)
 彼の口から息がれた、その瞬間だった。
 DIOの姿が目の前から、ふっ、と突然に消失した。
 はっ、と我に返ったときには、もうDIOの気配は花京院の背後に立っていた。耳元でささやかれる――
「安心したな、花京院――一瞬だけホッとしたな。一瞬――それで充分ッ……!」
 DIOの髪が逆立って、そして波打つ。それ自体が生きているかのように動く先端が鋭いとげとなり、花京院に襲いかかった。
 その脳天に深々と突き刺さって――絶叫がとどろいた。
「――うわああああああああ…………ッ!」
 花京院典明の悲鳴はどんどん弱くなっていき、ねじ込まれるようにして夜空に消えていく……。
 その声がかすれていくのを、物陰から出られないままの少女は、どうすることもできずに、我が身を抱えて動けない――。
「ああああ、ああ……」
 あふれる涙が地面にぽたぽたと落ちる。それは恐怖のためか、それとも無力さ故の無念からか――震える彼女の耳に、奇妙なものが聞こえてきた。
 もうとっくに夜になっているはずなのに、上から羽ばたく音が聞こえてくる。あり得ないことだった。それは日光がないところでは活動を停止するはずの生き物だったからだ。こうもりでもふくろうでもない、それは特徴的なシルエットだった。
 夜空に、おうが飛んでいる――。

 人は、失ったものを取り返すことはできるのだろうか。
 もはや原型をとどめないほどに粉々になってしまったものを、元のように戻すことは可能なのだろうか。
 これは、なくしたものを探し求めている者たちの物語である。彼らが失ってしまったものはあまりにも大きくて、自分でも真に何を失ったのか自覚できていない――そのために空回りの人生を送らざるを得なくなっている……その中で彼らが何を見出すのか。バラバラになってしまった世界の中で、その破片をかき集めて何になるのか、その残酷なる意味に直面させられたとき、彼らはどのように生きることになるのか――しかしながら、ここで軸となるはずの少年は、この問いにまったく興味がない。
 人生とは日々、せっかく組み上げた幸福が徐々に破壊されて、じわじわと失われていくことだ――このような真理を突きつけられても、彼はきっとこんな風に応えるだろう。

「あぁ~ん? いや、別にどーでもいいんじゃあないッスかねぇッ。いったんブッ壊れても、どーにかなるんじゃないッスか? なんとかなるって。きっと。適当にいじってりゃあ勝手になおったりするモンだからよォッ。たぶん」

 ひがしかたじょうすけ
 それが、その少年の名前である。
 彼にいた悪霊がクレイジー・ダイヤモンドと呼ばれるようになるのは、この物語が終わった後のことになる――。

Dの壱――”Dire straits"

『僕がどっちを目指してるかって? そりゃあ君、人間はいつだって未知なる恐怖にこそ惹き付けられるものだよ、NiNiNi』

――岸辺露伴〈ピンクダークの少年〉

1.
 一九九九年、三月――エジプト。
 その日はいつもにも増して、やけに太陽がぎらぎらと輝いてみえる陽気だった。
 カイロ市内の中心近くにあるその通りは、ウィルソン・フィリップス・ストリートと呼ばれている。正式な名前ではない。だがここを知る者は、たいていその名で呼ぶ。
 十年前に、この通りで惨劇が起こった。通商協議に参加するためにこの国を訪れていたアメリカ上院議員ウィルソン・フィリップスが、突如として乗っていた車を暴走させたあげく、歩道にまで車を突っ込ませて、女子供を含む五十三人もの死傷者を出し自身も死亡するという悲劇的な事件があったのだ。彼を警護していたはずのSPは、事件後に腕の骨がバキバキに砕けた状態で発見されたが、精神の均衡を失っており、そのまま精神病院に入院したという。上院議員が何を考えてそんなことをしたのか、未だに判明していないとされ、その謎と不気味さが、十年も経った今なおその通りをその名で呼ばせているのだった。まるで呪いに掛かったままであるかのように。
「…………」
 一人の男が、その通りの前に姿を現した。カウボーイハットを被っていて、その口には長い棒をくわえている。煙草ではない。禁煙パイプでもない。あくまでもただ長くて細い棒だ。
 男の名はホル・ホース。
 現在は私立探偵だが、十年前までの彼の職業は――。
「――――」
 彼が通りの一角の、裏に通じているらしき路地に足を踏み入れようとしたとき、
「おい、そこのヤンキーのおっちゃんよォ!」
 と背後から声を掛けられた。ホル・ホースが振り向くと、地元の子供がニタニタ笑いながら彼を見つめていた。
「ヤンキーは間違いだ。アメリカ人じゃあねェ」
 ホル・ホースがそう応えると、子供はさらにけたけた笑って、
「じゃあなんでそんなカウボーイ気取りなんだよ? まあいいや。でもあんた、そこの道には入れないぜ」
 と言ってきた。ホル・ホースは口元の棒を上下に揺する。
「ほう? どういう意味だ」
「入ってみれば嫌でもわかるよ。とにかくよォ、あんたは俺をガイドに雇いなよ。そうしないと絶対に困ることになるぜ」
 意味ありげに言われる。ホル・ホースは肩をすくめて、そのままその道の奥へと入っていく。
 子供は、きしししッ、と笑っている。すると一分と経たない内に、ホル・ホースがふたたびその道を逆戻りして帰ってきた。
「――――」
 ホル・ホースは少し首をかしげている。そこに少年の笑い声が響いてきて、
「だから言ったろ? あんた気がついたら、また元のところに戻ってきちまってたんだろう?」
「…………」
「ここはそういうところなのさ。呪いが掛かってんだよ。抜け出すには俺のガイドが必要なのさ。道案内して欲しけりゃ、とっとと前払いで金だしな」
「おまえの?」
「ああ、そうだよ」
「ほんとうに、おまえのか?」
 ホル・ホースが念を押す。少年が少しいらって、
「しつけーなァ! いいからよォ――」
 と彼が言いかけたところで、ホル・ホースは奇妙な行動に出た。
 右手を前に突き出して、何かを握っているようなジェスチャーを取る。人差し指だけ、かぎ状に曲げている。
「――? 何してんだ?」
「拳銃を握っている」
「……は?」
「正確には、おまえには見えない拳銃を握っている」
 ホル・ホースは真顔で言った。子供は、ぷっ、と吹き出して、
「なんだよ? あれか、馬鹿には見えないナンタラ、ってヤツなの? 何マヌケなことを抜かして――」
 子供が喋っている途中で、ホル・ホースは突き出した腕を今出てきた道の方に向けて、人差し指を何回か、ひくひく、と動かした。
「――何してんだ?」
 子供の、明らかに怒り始めている声をよそに、ホル・ホースは涼しい顔で、
「だから、おまえには見えない弾丸を発射したんだ。聞こえるヤツには聞こえる銃声で、合図を送った――」
 と応えた。
「おいッふざけんなよッ! いい加減に――」
 子供が腹を立てて立ち上がろうとしたところで、周囲の光景に異変が起こり始めた。
 かげろうが立ちのぼってきて、通り全体の空気が大きく揺らめいた。それはホル・ホースの身体からだを包み込んで、そして……その姿がどんどん薄れていく。
 風景に溶け込むようにして、消えていく――。
「……え?」
 子供は眼をぱちぱちとしばたたいた。その間にもどんどんホル・ホースの姿は見えなくなっていく。やがて完全になくなってしまう。
「え、えええ――え?」
 子供はしばし呆然としていたが、やがて悲鳴を上げて、その場から大慌てで逃げ出していった。

 そしてホル・ホースは――彼の耳にも、もう子供の声は聞こえなくなっていた。
「――――」
 ぜんとしている彼が立っているのは、古代遺跡のような神秘的な空間の中だ。どこまでも続く通路に、無限に連なる扉が延々と並んでいる――この迷宮を見るのは、ホル・ホースにとって初めてではなかった。
 それはかつて、の館に存在していた幻影の迷宮だった。
 十年前の、ホル・ホースの雇い主――いや、支配者だった男が、己の館に侵入してくる者を排除するための防衛機能のひとつ――懐かしい光景だった。
「おい、ケニーG――能力を解除しろとは言わないが、せめて目印を出せ」
 ホル・ホースがそう言うと、迷宮の中の扉のひとつが、ぎいいっ……とひとりでに開いた。ホル・ホースはそっちの方に向かう。しかしひたすらに奥が真っ暗な扉の前に立ったところで、ため息をついて、
「だから、本物の扉の方も開けろってーの。入れねェだろーが」
 と言った。すると、
〝スタンドを解除しな――念のためよ〟
 と女性の声がどこからともなく響いてきた。神秘的な声ではなく、音の割れた質の悪いスピーカーを通したような声だった。
「へいへい」
 ホル・ホースは右手を挙げる。そこに握られていた拳銃が、すうっ、と消える。一般人の少年には見えなかった拳銃が、ホル・ホース自身の視界からも消える――武装解除する。
 ぎぎぎぎ、と金属がきしむ音がして、扉の奥に広がる暗がりが下から明るくなっていった。
 シャッターが開いたようだった。その向こう側の光景は、迷宮とは似ても似つかない、ふつうの内装になっている。
 ホル・ホースがそのシャッターをくぐると、自動で閉まっていく。
「電動か――当然、自前なんだろ」
 ホル・ホースがそう言うと、薄暗い室内の方から、
「当然でしょ――電線を引いたって、この辺はどうせ停電ばっかりなんだから」
 という女性の声が聞こえてきた。
「おれを〝ビリリィッ〟としびれさせるのはやめろよ、マライア」
 ホル・ホースがそう言うと、ふん、という鼻を鳴らす声がして、次々と照明が点いて明るくなる。
 元はカフェとして使われていたらしい部屋の、カウンターだったところに一人の女がほおづえを突いている。
 マライアと呼ばれた彼女は、どこか寝ぼけたような眼でホル・ホースを見つめてきて、また「ふん」と鼻を鳴らした。
「それって命令のつもり?」
「まさか。お願いだよ――おれが絶対に女を傷つけないのは、おまえも知ってるだろう? 世界一女に優しい男だからな、おれは」
 ホル・ホースの言葉に、マライアは顔をしかめて、
「あんた、まぁーだ、そんなこと言ってんの――もういい歳でしょうが」
 と呆れたように言う。ホル・ホースは周囲を見回して、
「おまえの旦那はどこだよ? ケニーGは。噂じゃあ、すっかりせて今じゃ仙人みたいになってるらしいじゃあねーか」
「あの人は出てこないわよ。あんたらが嫌いだから」
「ま、いいさ――用があるのはおまえら自身じゃなくて、この〝隠れ家〟屋の、利用客の方だからな。いるんだろ? ここにあの兄弟が」
「ふつうならノーコメントなんだけどね。ま、スタンド使いのあんたに隠し事をしても無駄だろうから教えてやるわよ。4U号室よ。金も払わずにもう一ヶ月も居座っているから、そろそろ出ていって欲しいトコだったし。あんた、二人とも連れ出してくれない?」
「おれが用のあるのは弟だけだよ――4U号室だな?」
 ホル・ホースは店内を横切り、廊下に出た。また無限に並ぶ扉が続いているが、ホル・ホースは今度はかまわずに進み、4U、と書かれた札の下がっている扉のノブをつかんで、勢い良く開いた。
「おいボインゴ! いるんだろうッ!?」
 大声で呼んだ。しかし返答はない。ホル・ホースはずかずかと遠慮なく室内に踏み入る。
 高級ホテルのような立派な部屋である。窓の外には海が見える。幻影で造られた部屋であることは歴然としている。
 このケニーG&マライアの〝隠れ家〟屋は治安の決して良くないこの地域にいて、とても貴重な絶対安全のセーフティハウスなのだった。どこの組織にも属さず中立を守れるのは、呪われているとされるストリートに位置し、幻影のスタンド能力で近づく者を迷わせることで、追っ手を完全に遮断できるからである。当然、とても高額の宿泊料を払うことになる。
 現在、ここにどれくらいの数の客がいて、どれだけ地位のある者が隠れているのか、ホル・ホースに興味はない。彼が用があるのは、かつてチームを組んで共に戦った昔の仲間だけだった。
「――おーいおいおい、おーいおいおいおい……」
 奇妙なうめき声が奥のベッドルームから聞こえてくる。
 野太い男の泣き声だった。そっちに行くと、ベッドに突っ伏して泣いている者がいる。訪問者がいることがわかっているはずなのに、お構いなしで泣き続けている。ホル・ホースは「ちっ」と舌打ちして、
「おい、オインゴ――弟はどこだ」
 と訊いたが、オインゴと呼ばれた男はさらに泣きわめいて、
「ホル・ホースよぉ――おれはもう駄目だぁ――もう何も信じらんねーよぉ――」
 と情けない声をあげた。
「オメーが駄目なのは前からだよ。なんだよ、また女に振られたのかよ」
「運命の相手と思ったのによぉ――店を出したいって言うから金出したら、出店場所は日本だとかヌカしやがってよ――逃げられたぁ――」
「また顔面マッサージ術の弟子に手を出したのか。懲りねーなオメーは」
「おれはもう女なんか信じねーぞぉ――」
「いいから、弟はどこだよ――おれが来ることはもうわかってたんだろ?」
「おーいおいおいおいおい――」
 ホル・ホースがたずねても、オインゴはまた泣き始めてしまって言葉にならない。ホル・ホースはため息をついて、室内に眼を向けた。指を立てて、それを様々な箇所に向けていく。
「ふうむ――ベランダ、バスルーム……」
 指をちょん、ちょん……と動かしていって、ドアを指差す。
「……と見せかけて、クローゼットだろッ!」
 言うと同時に飛び出して、一気に扉を開いた。
 すると中から黒い縮れた髪の小柄な男が転がり出てきた。子供のような顔と体格をしているが、一応、成人である。
「わ、わわわ、わ……ッ」
 彼は手にしていた本を取り落としてしまい、慌ててそれを拾おうとする。それを横からホル・ホースがすかさずカッさらう。
「だから見えてんだよボインゴ――クローゼットの下からオメーの服のすそがよ。どーしてオメーは何かに隠れるときに、どっかハミ出さずにはいらんねーんだよ? ったく……」
 つぶやきながら、ホル・ホースはその本をぱらぱらとめくっていく。
 それは奇妙な絵が描かれたマンガ本である。しかしちょっとページをめくってみたところで、ホル・ホースは顔をしかめて、
「なんだよ、まだ次のページが浮かんできてねーな。もうちょっと待たなきゃならんのか。ホレ、返すよ」
 と言ってマンガ本を彼に――持ち主のボインゴと呼ばれた少年のような男に返した。
「ぼ、ぼぼ、ぼくは――で、出掛けたくない……」
 ボインゴはおどおどした表情で言った。しかしホル・ホースはフン、と鼻を鳴らして、
「それを決めるのはおれでもオメーでもねーな? その〝予知の本〟だろう?」
 と言い捨てると、部屋からふたたび出ていった。
「う、うううう……」
 ボインゴは胸元に本を抱きしめたまま、その場に立ちすくんでしまう。

「ったく――」
 ホル・ホースはまた迷宮の廊下に出た。するとそこにマライアが待っていた。
「会えた?」
「まあな。説得にゃもう少し時間が掛かりそうだから、ビールとかもらえねーか。もちろん金は払うからよ」
 ホル・ホースがそう言っても、マライアはその場から動かず、彼のことをじっ、と見つめてくる。
「なんだよ? さすがのおれも、旦那がどっかに隠れている家で不倫はできねーぞ」
 冗談めかして言ったが、マライアは真顔のままで、
「あんた――今でも夢とか見る?」
 と質問してきた。
「なんの夢だ?」
 ホル・ホースがそう訊き返しても、マライアは何も言わずに、彼を見つめ続ける。ホル・ホースは、ふう、とため息をついて、
「――悪夢にうなされてる、って言って欲しいのか? そこまでヒドかねーよ」
「でも、起きたときに冷汗をびっしりかいてる、みたいなことはあるんでしょう? 夢に出てくるんでしょう、今も――DIOの姿が」
「…………」
「あたしも時々、夢の中で必死であやまっている――DIOが出てきて〝マライア、何をグズグズしている。はやくジョースターどもを始末してこい〟って命令するのよ。あたしは何も言い返せずに、ひたすらにすみませんすみませんってあやまり続けるだけ――何も言えないのよ。何も」
「…………」
「どうしてなのかしら。もうあいつが死んでから十年も経っているのに――心酔していた頃の印象なんか、後からスピードワゴン財団の人たちから聞かされたあいつの過去の所業の数々の話で、すっかり消し飛んで嫌悪しか残っていないはずなのに――それでもまだ、あいつのことを夢の中では〝DIO様〟って呼んでる……」
「…………」
「今でも信じられない。あいつって本物の〝吸血鬼〟だったんでしょう? いや、そりゃあ十字架もニンニクも効かないから、伝説の魔物そのものじゃあないけど――でも百年以上も若々しいままの不死身の肉体と、他人から生命を吸い取るっていう性質を持っていた……どうしてあんな不気味なヤツに、あたしたちって忠誠を誓えていたのかしら?」
「……別に魂まで売っていた訳じゃあねーだろう、おまえもおれも。ヤツが途方もなく強かったから、それに便乗しようとしていただけだ。単なる打算だ」
「どうかしら――あんた、自信を持って言える? DIOに魅了されたことなんか一度もありません、って。あたしは無理――ジョースターさんたちと戦ったときも、彼らの不屈の精神に圧倒されながらも〝でもこいつらではDIO様に遠く及ばない〟って決めつけていた――」
 マライアは力なく首を横に振る。
「――そんなことはなかったのに、ね。ジョースターさんたちは、犠牲を出しながらもDIOを倒した。そしてあたしたちもヤツのじゅばくから解放された……そのはずなのに」
 ぶるるっ、と彼女は身震いして、自分の身体を自分で支えるように抱いた。
「まだあいつが、すぐ近くにいるような気がしてしょうがない……路地を曲がると、そこに立っているような気がして仕方がない――」
「あんまり深く考えんなよ。おれたちは助かった、運が良かった。それでいいじゃあねーか」
 ホル・ホースは極力、軽薄そうに言おうとしたが、しかしその語尾がかすかに震えていた。
 そのとき――彼らの背後の扉が開いた。
「ン?」
 とホル・ホースが顔を向けると、そこにはボインゴが立っていた。ドアに半分身を隠して、びくびくしながらも自分から出てきた。
「どうしたボインゴ――ははあ、新しいページがあらわれたな?」
 ホル・ホースが訊くと、ボインゴはうなずいて、
「へ、変な地図が出てきた――知らないところで――」
 と言った。どれどれ、とホル・ホースは差し出されたマンガ本を受け取って、ぱらぱらとめくる。
 さっきはなかった絵と文字が、白紙だった頁に浮かび上がっていた。そこに記されている地点を、ホル・ホースは読み上げる。
「ええと――この位置はユーラシア大陸の東端の列島――日本だな。東北の方で――その中心都市がある辺りじゃなかったか。名前は確か――」
 一九九九年のM県S市――そこにホル・ホースの目的とするものが紛れ込んでいるのは間違いなさそうだった。

2.

 時代は変わっていき、世代も移っていき、同じままでいられるものなど何もない、ということなのだろう。
(――でも、私は嫌だわ……)
 きょういんりょうは、とても不快だった。
 学校で、級友の男子からは〝冷たく、気取っている〟と思われ、女子生徒からは〝いつも冷静で頼りになる〟と思われている彼女は、一人でいることが多い。
 そのひたいの前で、長く垂らした前髪が揺れている。右側だけ下ろしていて、しかもゆるいウェーブが掛かっていて頭から浮き上がっているので、親しい友人からは〝虫の触角の大きなヤツみたい〟とからかわれる奇妙な髪型だ。しかし彼女はその髪型を変えようとは思わない。
 学校一のモテ男を自称していて女子人気の高かったサッカー部のキャプテンにも〝花京院さんってさ、その髪型がなんか取っつきづらいんだよ。左の前髪も下ろすか、あるいは逆に額を全部出しちゃうとかすれば、もっと可愛くなると思うんだけどなあ〟とか言われたこともあるが、冷たく無視してまったく反応しなかった。
「…………」
 彼女は今、墓前に立っている。
 花京院家代々の墓だ。そこには彼女の従兄弟いとこだった花京院のりあきも葬られている。あの優しかった〝おにいちゃん〟が死んでから、もう十年にもなる――。
「――――」
 墓参りに来ているのは彼女一人だけだ。時々、彼女はこうやって家族にも内緒で、この墓に参りに来る。
 しかしそれももう終わりだった。墓参りそのものはこれからも続けるが、それはこの場所ではない。都市再開発、という名目でこの墓地は離れた郊外に移されることになったから従ってくれという指示が役所から出ているのだ。花京院本家はそれを素直に了承したので、ここに墓があるのも今のうちだけなのだった。まもなくこの周辺は、見る影もなく山が削り取られて、平板な道路が敷かれて、無機質な建物が並ぶことになる。
(そんな勝手に――せっかくおにいちゃんが、この町に帰って来れたのに……私は嫌よ、絶対に――)
 ほんとうなら今日は、大学受験に合格したことを典明おにいちゃんに報告するつもりだったのに、そんな嫌な話を聞かされてしまったために、涼子はひたすらにやりきれない気持ちだった。
「ごめんなさい、おにいちゃん――私は、やっぱり全然おにいちゃんの助けにはなれないのね……」
 彼女は墓の前で座り込んでしまって、がっくりとうなだれていた。
 しばらくそのまま動けないでいた彼女の耳に、そのとき――その音が聞こえてきた。
 空に羽ばたく、鳥の飛行音が。
 耳の奥にこびりついている――まわしい音だった。
「――――ッ!?」
 彼女はばっ、と顔を上げた。だが鳥の姿はどこにも見つからない。しかし音は聞こえる。彼女はその音の方に向かって走り出した。
 墓地から飛び出して、市街地の方に向かう。ぜいぜい息が切れるが、それでも彼女は必死でその音を追う。
 空の向こうに、ちら――とその姿が見えたような気がした。
 頭部の大きい、丸まったくちばしが特徴的な姿が――おうのシルエットが。
「うううう……ッ!」
 彼女の喉から、悲痛な呻き声がれた。あの鳥を捕まえなければ、という切迫感が湧き起こってくる――今さらなんのために、という問いは心の中にはなかった。
 しかし、彼女の足はもつれて、転倒してしまう。
 鳥の音はどんどん遠くなっていって、そして聞こえなくなった。
「ああ――」
 彼女は弱々しく呻いた。立ち上がろうとする気力も湧いてこなかった。その彼女の指先に、何かが触れた。路面とは異なる紙の感触だった。
 なんとか身を起こして、それを拾ってみる。奇妙な絵が載っているマンガ本だった。
〈OINGO BOINGO〉
 という変な題が表紙に書かれている。
 なんだこんなもの、と投げ捨てようとした彼女の眼に、その中身の一文がちら、と見えた。

〝DIO〟

 そう書かれていた。それは彼女が決して忘れられない名前だった。
「――――ッ!」
 彼女は投げ捨てようとした本を戻して、その中身を熟読し始めた。

(ちくしょう、あの馬鹿はどこに行きやがったんだ?)
 ホル・ホースは焦っていた。
 せっかく日本に来て、目的地のM県S市についたは良いものの――駅から出たところで、連れてきたボインゴが突然に姿を消してしまったのだ。
 迷子になったとしか思えないが、どこに行ったのかとなると、見当もつかない。不慣れな土地でもあるし、そもそもボインゴを連れてきたのも、彼の〝予知の本〟の能力が探し物をするのに最適な才能だからで、その本人がいなくなってしまっては話にならない。
(アレほどおれから離れるな、って言っといたのによォ――ッ。どっかでぴいぴい泣いてるんだろうが……)
 ホル・ホースはS駅からケヤキの木が並ぶ表通りに出ていった。周囲を見回して、あらためて思う。
(しっかし日本ってのは……やはり繁栄してんだな、この国は――なり空港やら新幹線に乗るときに寄った東京駅の規模にもびびったが、地方都市だっていうこのS市も充分に大都会じゃあねーか――エジプトやインドとは比べものにならねー……通行人がみんな小綺麗に着飾ってて、町全体が大金持ちの屋敷みてーに整理されてやがるぜ……オイルマネーもねーのに、なんでこんなに栄えてやがるんだろうな? 理解できねーぜ――)
 いかんいかん、完全にお上りさんになってるとホル・ホースは反省しながら、ボインゴを捜す方法を思案した。
(コネがねーからな――情報屋とか日本にもいるのか? 人捜しをしたいときはどうすりゃいいんだ……)
 警察に相談する、という発想は彼にはない。そういう常識がそもそも彼の生きている社会にはない。
 やはり自分で見つけだすしかないか。ボインゴに渡している日本円は大した額ではない。そもそもあいつは見知らぬ外国で買い物ができるほど神経が太くない。というか完全に対人恐怖症なのだ。
(ああまったく……だからオインゴも連れてきたかったんだが、あの野郎〝世界中の他のどこよりも、今はあの女がいるはずの日本には行かねー〟とか言い張りやがって――)
 しかし、どっちにしろ無理だったろう。ボインゴの〝マンガ本〟には彼の兄が同行するとは予知されなかったからだ。ボインゴだけがホル・ホースと行く――そう記されていたからだ。
 ボインゴは自分の〝マンガ〟の予知能力を百パーセント絶対だと信じている。その正確さはかつてホル・ホース自身が身をもって体験したからよく知っているが――逆に言うと、ボインゴはいくら自分の気が進まなくても、予知に出てしまったことを実行しないわけにはいかないのだ。しかしその内容はなんとも理解に苦しむあやふやな形でしか示されないので、解釈を間違えるとえらいことになる。
(だからきっと、この迷子になったのも〝マンガ〟に振り回された結果なんだろうが――ったく、絶対に読み違えてやがるぞ、アイツは)
 ホル・ホースは頭をがりがりといてから、帽子を被り直した。
 あれこれ考えていてもしょうがないので、彼は道行く通行人の一人に、
「あー、ちょっと訊ねたいんだが――」
 と話しかけた。ちゃんと日本語で言ったのだが、相手は彼の方をちらとみて、すぐに足早に去ってしまった。
「あ?」
 聞こえなかったのかな、とホル・ホースはさらに別の人に、
「なあ、ちょっと――」
 と呼びかけたが、やっぱり反応してくれずに、さっさと立ち去られてしまう。
「えーと、すみませんが、その――」
 呼びかけを変えて色々と試してみるが、やっぱり誰も返事をしてくれない。
(な、なんだこの国は――これがインドだったら、呼びもしないのに物売りが押し掛けてくるもんなんだが……他人に関心がないのか?)
 彼が世界で会ってきた日本人は基本的に人なつっこくて色々と話がはずんだものだったので、この国内外の態度の差には少しショックを受けた。
「やれやれ――」
 と彼が帽子をちょいちょい、といじっていると、車道を挟んだ通りの向こう側から、
「ねえねえママ、あそこにカウボーイがいるよ?」
 という小さな女の子の声が聞こえてきた。顔を向けると、好奇心いっぱいという表情でこっちを見ている子供がいる。
 ホル・ホースが「ヘイッ」と手を上げてみせると、子供はきゃっきゃっと喜んで、
「ヘイヘイッ!」
 と返事をしてきた。やっと応じてくれる人間が現れたな、とホル・ホースは思ったが、すぐに子供の母親が「見るんじゃありませんッ!」と強い口調で言って子供の手を引っ張って去っていく。
 ホル・ホースは肩をすくめて、しかたないので自力でひたすら歩き回ろうかと考えた……そのときだった。
 ふいに、どこからともなく声が聞こえてきた。雑踏の中でも急に誰かが言った単語が聞き取れることがあるが、まさにそういう感じで耳に忍び込んできた。

〝歩道が広いではないか――行け〟

 背筋が凍りついた。それは彼が知っている声だった。とてもよく知っている――身に染みついていて、心にこびりついて離れない声だった。
 DIOの声だった。

「――――ッ!?」
 ホル・ホースは周囲を見回した。だが当然のことながら、DIOの姿などどこにもない。そもそも今は昼間なので、仮にDIOが生きていたとしても吸血鬼のヤツは日光の下に出てくることはあり得ない。
(そうとも――あり得ない……)
 だがそのホル・ホースの判断をあざわらうかのように、さらに声は聞こえてきた。

〝関係ない――行け〟

 その声がどこから聞こえてくるのか、それを確かめる余裕はホル・ホースにはなかった。
 続いてすぐに、隣接する車道の方から激しい音が響いてきたからだ。それは探るまでもなく、あからさまに周囲を引き裂くような鋭い騒音だった。
 車のタイヤが路面に激しくこすりつけられる音。あまりの急加速にグリップが追いつかず、アスファルトの上で空転するときの悲鳴のような音。
 振り向いたときには、もうその車は全速力でこっちの方に突進してくるところだった。
「な――」
 ホル・ホースは驚愕しつつも、運転席の中を観察していた――運転手の顔にあるのは、どこまでも深いおびえ、ただそれだけだった。恐怖に駆られて、アクセルを踏み込んでいる……歩道に向かって。
 車のコースは、ホル・ホースから見てやや斜めになっていた。突っ込んでくるのは彼の方ではない。
 さっきの子供連れがいる方向だった。
 彼女たちは呆然となってしまって、その場に立ちすくんでしまっている。
「ぐッ……!」
 ホル・ホースの手の中に〝拳銃〟が浮かび上がった。
 車に向けて狙いをつける――だがどこを狙う?
 運転手の額をぶち抜くか? いやそれでは踏みしめた状態のアクセルを解除できないだろう。前輪を破壊して停めるか?
(いや――勢いが既につき過ぎている。タイヤを射抜いても慣性でそのまま突進してくる――どうする?)
 ホル・ホースの手は小刻みにぶるぶると震えていた。あれから、いつもこうだ――あやまって自分のことを自分で撃ってしまって以来、真面目に何かを狙おうとすると手が震え出すのだ。
 どうせ発射すれば〝弾丸〟もスタンドなのでどんな体勢で射とうと狙ったところに飛んで行くから関係ないのだが――それでも震えが止まらないのだった。
 しかし今は、そのことを気にしている暇はない。決断しなければならない。
(――ええいッ!)
 ホル・ホースは引き金をひいた。
 車の前輪を狙って、弾丸を発射した。
 ただし両方とも、ではない。左側の前輪だけだ。
 外れるはずもなく、タイヤは破壊される――すると車は大きく傾いて、コースがずれた。子供連れの方ではなく――ホル・ホースの方へとねじ曲がった。
 逃げる――のは微妙に間に合いそうもなかった。射撃していたから、その体勢になっていなかった。
 どうしようもなく、目の前に車が迫ってくる――。
(ううううっ――!)
 ホル・ホースは思わず眼をつぶった……だがその瞬間だった。

 ……ごん、

 という鈍い衝突音が先にした。まぶたを開けたホル・ホースの視界に飛び込んできたのは……車が、宙を舞うところだった。
 こっちに突進してきていたはずの車が、いきなり横っ跳びに弾かれて、宙を舞っている――その車体の横面が、大きくへこんでいる。まるでとんでもない怪力で、そこをブン殴られたような形の損傷があった。
 車はそのままホル・ホースの前を横切るようにして飛んでいき、建物のショーウィンドウの中へと突っ込んでいった。マネキンがばらばらになるが、そこには他に誰もいない。
 車輪が空転する音ばかりが、虚しく響く――車は停止した。
 周辺が大騒ぎになっていく。事故だ事故だ警察を呼べいや消防車だ救急車だ、と騒ぎがたちまち拡大していく。
「…………」
 ホル・ホースはぼうぜんと立ちすくんでいる。
(い、今のは――)
 突然に横から現れて、車を吹っ飛ばしたパワーは――。
「――――」
 絶句しているホル・ホースの方に、近づいてくる人影がある。
 車道を横切って、大騒ぎになっている周囲をよそに、落ち着いた物腰で静かにこっちに歩いてくる。
「あんた――その〝拳銃〟――」
 そいつはホル・ホースの手を指差してくる。
「どーも他の人には見えてねえよーだな――つまり、あんたは〝おれと同類〟――そう判断していいってことだな?」
 まだ十代なかばという風の、その少年は静かにそう話しかけてきた。
「でもよォ――気にいらねーな。いきなり町中でブッ放すのは感心しねーよ。どういうつもりだよ、あんたは?」
 その声には明らかな敵意がみなぎっているのを、ホル・ホースは感じていた。
 これがホル・ホースとその少年――ひがしかたじょうすけの出逢いだった。

3.

(な、なんだコイツ――この髪型はッ?)
 ホル・ホースは世界中を旅してきている。色々な人間たちと会ってきた。不思議な風習の数々に遭遇してきた。
(だがこんなヤツは見たこともねえッ――こんな奇妙な髪を頭に載っけて、それで町ン中を平気で歩き回っているよーな常識を超越したらちがいの人間はよォ――ッ)
 前髪を大きく前に突きだした形にまとめている――その大きさからして、髪自体は相当な長髪のはずだった。男の癖にかなりの時間と手間を掛けて髪を伸ばして、それでわざわざこんなハンバーガーみたいな形にするというのは、どういう精神構造なのだろうか――これがジャポニズムというものなのだろうか?
かぶもの、ってゆーヤツなのか……?)
 しかしいくら異様な姿をしていても、それは現在においては重要なことではなかった。
 問題なのは――こいつが敵意をしにして迫ってきていて、かつ……
(スタンド使い……!)
 だということだった。しかも車を一撃で吹っ飛ばしたことから見て、とんでもなく強力な……
(ストレートなパワー型――あからさまに戦闘的なタイプだ……ッ!)
 ホル・ホースは車を撃つためにかまえていた〝拳銃〟を下げられない。少年――東方仗助の方に銃口を向けたような形を維持し続けている。
「なあ、カウボーイのおっさんよォ――ッ……どういうつもりか、って訊いてんだけどな、こっちはよォ――ッ……」
 言いながら、仗助は近づいてくる。その両眼が異様だった。
 冷たく凍りついているようにも、激しく燃えているようにも見える。
 その眼で睨まれた者はただではすまない――そういう不気味な光を放っている。
「う――」
「アレか? なんか自分に酔ってる、ってヤツなのか? ガンマンの格好をして調子に乗って、西部劇気取りでバンバンぶっ放したい、っていう――そういうはた迷惑なマヌケなのか、あん?」
「――――」
「馬鹿みたいだって思わねーのか、そんな格好は――その帽子、そんなもん被っているヤツがこの辺にいるか? 客観的に自分を見れねーんじゃあないのか?」
 ホル・ホースは思わず、テメーに言われたくねーよ、と言い返しそうになる。しかしそこはぐっ、とこらえて、
「おまえは――おまえが今の暴走の原因か?」
 と、できるだけ冷静そうに訊いた。内心の不安を押し殺して、クールな態度を装う。
「ああ?」
 仗助の眉がひそめられる。ホル・ホースはひるまず、
「あの運転手――すさまじく恐怖におののいていた。あれはおまえのせいか。おまえが、そのスタンドでおどしたのか?」
 とさらに問いを重ねる。仗助はますますいぶかしげな顔になり、
「スタンド――?」
 と訊き返してきた。ホル・ホースは、そうか、こいつはスタンドという名称を知らない……他のスタンド使いに遭遇したことがないのか、と悟った。
「おまえのその、常人にはない特殊な〝能力〟のことだよ――」
 ホル・ホースはそこで、ちら、と吹っ飛ばされた車に視線を向けた。仗助から眼を離せないので横目で見ただけだったが――それでも、あれ、と思った。
(ない――ぶん殴られたような、車体側面の凹みがないぞ……?)
 確かにそこにあったはずだった。横から突っ込まれてえぐられていたはずだった……だが今はその痕跡がまるで残っていない。
 なおってしまっている。
(どういうことだ……どういう理由なんだ、あれは――)
 いったん壊れたはずのものが、そこだけ修復されている――しかしホル・ホースが射抜いたタイヤやショーウィンドウに突っ込んだときの損傷などはそのままである。
(こいつの――このガキが攻撃したところだけ、まったく痕跡が残っていない、っつーのか……?)
 能力の性質が読めず、ホル・ホースはさらに戦慄した。そんな彼を前に、仗助は、
「スタンド――っていうのか?」
 と呟いた。それから唇をとがらせて、
「もしかして、そばに幻影が現れて立つから、スタンド――なのか? なるほど……考えたヤツは冴えてるな」
 うなずきながら言う。それからホル・ホースをあらためて睨みつけて、
「で――運転手がどーしたって?」
 と訊いてきた。かくされっ放しである。
(くそッ、舐めるなよッ、おれは自慢じゃないが、大した実力もねーのに口先のハッタリだけで他の超強力なスタンド使いたちの間を渡り歩いてきたんだぜえーッ――会話の主導権だけは絶対に譲らねーぞッ)
 ホル・ホースはなんだか訳のわからない闘志を燃やして、
「――勘弁してやるよ」
 と不敵なみを浮かべて言った。
「あん?」
「頭を撃ち抜くのは勘弁してやる――その格好いい髪型を乱すのは悪いからな。ブチ抜くのは心臓の方にしてやるよ。せめてもの情けだ――」
 自信たっぷりな様子を演出しながら、芝居がかったことを言う。
「墓に入るときには、綺麗な姿のままだ。それなら安心して死ねるだろう?」
 ホル・ホースは挑発したつもりだったが、日本では火葬が一般的で、遺体は残らないことを知らないので、そういうズレたことを言ってしまう。だがこれに仗助の方は言い返さず、
「――ちょっと待て」
 と、眉の辺りに指をあてて、何かを考えるような仕草をする。
「あんた、今――なんて言った?」
 その声に変化がある。威圧感も何もなく、ただ質問しているだけ、という軽いものに変わっている。迫力がなくなっている。ホル・ホースは、む、と訝しんだが、一応、
「だから、ブチ抜くのは心臓の方で――」
 と繰り返そうとしたが、これに仗助は、ばっ、と手を上げて遮り、
「いや、そうじゃなくて――その前だよ。なんて言ったんだ?」
 とさらに訊く。ホル・ホースは少し混乱してきたが、仕方なく、
「あの運転手は、おまえが脅したのかって質問したんだが――」
 と言うと、さらに仗助は首を横に振って、
「いや、それの後だよ。その間だよ――あんた言ったよな? 確かに言った――なんて言ったのか、もう一度はっきりと口にしてくれねーかな?」
 と変な真剣さを伴って、懇願するように訊ねてくる。ホル・ホースはもう何がなんだかさっぱりわからず、何を言ったっけ、と少し考えてからやっと思い出す。
「えーと、だから――頭を狙うのは勘弁してやる、格好いい髪を乱すのは悪いから、って言って――」
 とホル・ホースが喋っている途中で、突然に仗助は、
「――そうッ! それ! それだよッ!」
 と大声を上げた。それは、事故で集まってきていた野次馬が驚いて、二人の方を一斉に振り向いたほどに大きかった。
 ホル・ホースは戸惑ったが、仗助はまったくおかまいなしで、そして急に満面の笑みを浮かべて、ずかずかと無遠慮にホル・ホースのところに歩み寄ってきた。まったくスタンドを出さずに、無防備に来た。あまりにも開けっぴろげなので、ホル・ホースには攻撃のタイミングがまるで摑めなかった。
「え、え――」
 動揺しているうちに、仗助は彼の前に立って、そして突き出したままのホル・ホースの手をがっちりと摑んで、大きく上下に振った。
「いやあ、わかってるねえ、あんた! 格好いいっしょ? そうっスよねえッ? この髪の毛って最高にクールでグレートだって思うよなぁッ? いやいや話がわかる男っスよ、あんたは!」
 底無しの陽気な声で話しかけられて、握手されて、しまいには肩を叩かれる。
「え? えええ?」
「いやあ悪かったっス! ちょっと勘違いしてたよォッ。あんたが悪いのかと疑っちまってた。しかしそいつはおれの勘違いだったみたいっスねェッ。あんたはいい人だよ。間違いねー」
「えええ? ええええ?」
「あー、あとそれから、あんたの格好もグレートだぜ。いやあ良く似合ってるっスよ、そのカウボーイの姿。最高にクールっスよ。うんうん」
「――えー……」


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