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三本矢まういの短編小説『エンドロールの最後まで』

好きだった人が死んでしまった。けれどまた会えた、ゲームの中で……。『ゴースト』と呼ばれる、レースゲームでアタリ判定を持たない走行記録の再現。好きだった人が残したゴーストとあうため、ゲームセンターに通う青年。コロナ禍の中のゲームセンターを舞台に描かれた恋愛短編の佳作。著者の三本矢まうい先生はジャンプ小説新人賞出身の新人です。


エンドロールの最後まで
 


 ゲームの中に先輩がいた。
 筐体(きょうたい)に背を預けながら、その事実にハンドルを握る手が止まった。
 あまりにも呆然としすぎていたからか、いつのまにかレース画面に移っていた事に気がつかなかった。ゲーセンのゲームは問答無用で画面が切り替わるからいただけない。僕は慌てて足下のアクセルを踏み彼女の後を追いかけた。それにしてもいやいや、まさかこんな事があるのだろうか。思わず画面に釘付けになる。
 ハンドルネーム、NANA。プレイヤーランクはSS。僕の前を走る彼女の車の上には黄金色に光る王冠のマーク。このコース店内最速の証が記されている。
 その車種も名前も称号も、コーナーすれすれを攻める正確な走りの癖も。
 画面から目に飛び込んでくる全ての情報が、彼女の存在を間近に感じさせていた。
 ゴースト。
 これはプレイヤーの走行データを残し、いつでも対戦できるようにするレースゲームの標準的な機能だ。勿論本当にゲームの中に彼女がいる訳ではない。何せ先輩は先月事故で亡くなったばかりだ。今僕の目の前にあるものは生前の彼女が残したデータの一欠片(ひとかけら)に過ぎないのだろう。そういう意味でゴーストという名は実に皮肉が効いていると思う。
 しかし、こうして先輩の車が目の前で走っているのを目にすると何だか先輩と隣で一緒に対戦しているような心地になってくる。思えば僕の横にはいつだって先輩がいた。
 「――でも結局の所、全ては愛だよ、佐藤くん」
 一つ思い出すと、立て続けに色々な記憶が奔流となって蘇ってくる。
 「そして愛は細部に宿る。例えばエンドロールの最後とか、ね」
 あの日も彼女は天真爛漫でどこか浮き世離れしていて、僕の少し先を走っていた。
 
***
 
 この業界で、先輩の名前を知らない人はいない。
 それは誇るべき事ではなく、「この業界」の方が地方の町役場ほど狭いからである。
 僕が物心つく前ではあるが、華々しい時代もあったらしい。
 インベーダーゲームから始まり、90年代の格ゲーブームには大勢の人が押し寄せた。2000年からは少し勢いは弱まりつつも、プリクラの流行やカードダスなどのヒットでこれまでゲームセンターに足を運ばなかった人たちも来るようになった。
 しかしそんな栄華も遙か過去、今やソーシャルゲームの台頭や増税による影響、そして新タイトルの不発で開発費も雀の涙だ。地方の路面店によっては店舗自体がが閉まったりとめっきり元気が無くなっているのが現状である。
 そんな時代に取り残されたアーケードゲーム業界の中に、僕と先輩はいた。
 2019年。12月。
 まだ出社という言葉に対して、何の違和感も持たなかった時代の話だ。
 
 先程、業界が狭いから先輩の名前を知らない人はいないと言ったが、あれは半分嘘だ。
 もしそれが事実であれば僕の名前だって知れ渡っているはずだ。だが僕は至って普通のいち開発者であり、ひょっとすれば同じ会社の別のプロジェクトの人間でさえ僕の事を知らないかもしれない。
 彼女が名を馳せているもう半分の理由は単純。彼女が普通じゃないからだ。
 先輩は僕が入社した時から、既に大勢の輪の中心にいた。
 入社一年でメインプランナー、僅か二年でディレクターとなり、このゲーセン氷河期の中で売上げ昨年対比150%を叩き出した文字通りの非凡。それが彼女だ。
 とにかく先輩には企画力、運営力、組織の統率力などゲーム作りにおける全ての資質が備わっていた。野球であればピッチャーで4番。もしくは監督をしながら選手だろうか。水が下へと流れるように、或いは煙が上に上がるように、先輩はタイトルの顔として自然と人々に認知されていった。
 ただ何よりも称えられるべきはその人間性だろう。その証拠に彼女と仕事をした9割の人が彼女の事を好きになり、残りの1割は大好きになる。ちなみに僕は文句なく1割側だ。
 皆彼女の事が好きで、彼女も皆が好き。
 基本殺伐とする開発現場では異例と言える磁場が、彼女の現場では形成されていた。
 
 そんな会社のスターには、仕事以外にも様々な雑務が舞い込んでくる。
 代表的なのは取材だ。
 「――佐藤くん、もう少し右、あとちょっと、うん。そのまま真っ直ぐ」
 今日はとある経済誌のインタビューだった。
 『美人過ぎるゲーム開発者が業界を語る』とまあ即物的な内容ではあったが、彼女は基本大抵の取材は断らずに受ける。だがその度に割を食うのは下の者。つまりは僕だ。
 「ちょ、ちょっと待って下さい。腰が・・・・・・」
 僕は今、会議室に自分よりも遙かに大きなアーケード筐体を運んでいた。
 大きさにして2m。重さにしておおよそ100㎏余り。ローラーがついている為転がす分には問題ないが、台車から筐体を降ろす際には純粋な腕力勝負となる。
 おまけにこのドライブゲームは最大4人の対戦ゲームだ。そうなると必然筐体も4台が必要になってくる。つまりこの作業を4回繰り返さなければいけないという事になる。
 正直3台目にして腰が限界だ。ゴルゴタの丘で十字架を運んだキリストの気持ちがこれほどまでに理解できた日はない。僕がひいひい言いながら腰をと叩いていると、先輩はばつが悪そうに両手を合わせて僕を見上げた。
 「ごめんね。取材の人がどうしても筐体を背景に写真撮りたいって言うからさ。いる?って私はずっと思ってるんだけど」
 見た目の印象とは違った落ち着いた声が、僕の目線のやや下から聞こえてきた。
 二重のくりっとした目は黒目の割合が大きく、顔の輪郭は少し丸みを帯びている。肌も瑞々しく潤っており、羽毛のように柔らかそうな髪は彼女が小刻みに動く度に毛先の部分がふわりと揺れた。
 今日も相変わらず愛らしい。上司に抱いていい感情ではないが彼女を前にしてしまえば誰だってそう思うだろう。僕は腰の痛みも忘れ「全然大丈夫です!」と胸を張った。
 「先輩の頼みとあらば倉庫にある全ての筐体持ってきますよ!」
 「うーん、特にメリットないしいいかなぁ」
 あっさりと断られた。だがそういうそっけない所も好感が持てる。「承知ですっ!」と明るく敬礼する僕に、先輩は手元の資料と周囲を照らし合わせ納得したように頷く。
 「でも、これで取材の方は大丈夫そうかな。佐藤くんは本業の方に戻っていいよ。まじでありがとう助かった」
 「いえいえ、暇なんでいつでもお声がけ下さい!」
 「いや暇なのはだめでしょ」
 けたけたと先輩が白い歯を見せながら笑っていると、ふいに先輩の胸元の携帯が震えた。先輩は通話を繋ぐと、いつもの緩い口調から仕事用に切り替えて短く言葉を交わす。こういった切り替えも格好良いなとにやけていると、先輩は通話を切って僕に目を合わせた。
 「記者さんが入口に来たっぽい。迎えに行ってくるね。後はいい感じで頑張るよ」
 「承知しました! でもかなり俗物そうな特集なので、その、気をつけて下さいね」
 何せ『美人過ぎるゲーム開発者が業界を語る』みたいなものを題目に掲げる雑誌なのだ。我らの先輩がどこぞの週刊誌よろしく、あることないこと書かれないかそれだけが心配だ。
 もしそうであれば自分の想像しうる限りの手段を用いて発禁に追い込んでやる、などと一人薄暗い決意をしていると、先輩は「俗物上等だよ」と再び白い歯を見せた。
 「私というアイコンでターゲットじゃない人が界隈に興味を持ってくれるなら、それはもう私たちの勝利じゃん? まあ美人かは知らんけど」
 彼女は言葉を濁したが、これが彼女がどんな取材も受ける理由なのだ。
 いつだって先輩は自分ではなく誰かの為に行動している。それがプロジェクトであったり業界の未来であったりする。さっきの台詞が複数形だった事が何よりの証明だ。
 だから僕は彼女が好きだ。勿論この好意は仕事によるもので、決してそういうものでは―――あるけれど、あくまで自分は仕事をしている無邪気な先輩が好きなので余計な事を言って困らせるつもりはない。
 「じゃあまた後でね、佐藤くん」
 こうして彼女の一歩後ろを歩きながら、じゃあねって言われる仲で充分だ。
 
                ***
 
 僕たちがよく行くゲームセンターは、小学生の頃に埋めたタイムカプセルに近い。
 薄暗い店内にはどことなく煙草の匂いが充満し、壁に貼られたポスターはすっかり色あせてぼろぼろになっている。メダルコーナーでは60代ほどのシニアが無心にコインを投入しており、ときおり学校帰りの男子グループが対戦ゲームで盛り上がっていた。
 唯一違うのは人だろうか。いつも店の奥で新聞を広げている老齢の店長の白髪が増えたような、それくらいの変化だ。
 きっと10年前もこの店はこんな感じだったのだろう。そして恐らく10年後も変わらないと思う。悲しいかなここにはもう新しさは無く、いつだって懐かしさがある。
 「佐藤くんは、次にどんな仕事したいとかってあるの?」
 先輩と横並びに自分たちのゲームをしていた時だった。
 僕が彼女とのレースに集中していると、先輩はぽつりとそう呟いた。
 次、とはいったいどういう事だろうか。僕は質問の意図が分からず目を丸くする。
 「ホラ、このプロジェクトが終わった後だよ。もし他にやりたい事があれば私の方から上に言っておくよ」
 そういう事か。ようやく理解したが今まで考えた事がなかった。そして今後も考える事はないだろう。
 「いいえ、先輩と定年までこのゲームを盛り上げていく所存です!」
 お世辞では無く本心だったが、何故かツボに入ったらしく先輩は軽く噴き出した。
 「嬉しいよ? 嬉しいけどさ」
 やや上ずった声で、先輩は手をひらひらと左右に振る。
 「現実問題、何事にも終わりがあるからね。この場所だって時間が止まってる気もするけれど、あくまでそう見えるだけで実際は緩やかに終わっていってる。そしてきっとそれは佐藤くんの終わりよりは早い」
 「・・・・・・」
 「その前に、佐藤くんには次の目的を探して欲しいなーって」
 僕があまりにも寂しそうな顔をしていたからだろうか。先輩は再びからっと笑いながら「まあ気が向いたらでいいよ」と僕の背中をぽんと叩いた。
 しかし何事にも終わりがある、か。冷静に考えると残酷な話だ。我が儘を言っている訳ではない。今以上を望んでいる訳でもない。ただ今日みたいな時間がずっと続いていけばいいだけなのだが、どうにもそれは叶わないらしい。
 「――でも結局の所、全ては愛だよ、佐藤くん」
 ゲームセンターからの帰り道。
 何故か卒業式の二日前のような心地になっていると、先輩の声が届いてきた。
 顔を上げると、やや前方で先輩がこちらに横目を向けている。
 「よく創作で炎上するのは、大抵そいつがないのが原因だったりするでしょ? 私たちみたいな商売してる人種には尚更だよ。それがないとユーザーに見透かされちゃうからね」
 12月の東京は夜が長い。吐く息が白く濁り、駅へと続く通りは週末というのもあり混み合っている。
 先輩は雑踏の中で、掌を重ね合わせながら少し僕の前を歩いていた。
 「そして愛は細部に宿る。例えばエンドロールの最後とか、ね。全てが終わる最後の最後まで手を抜かずに拘り続ける。これから佐藤くんがどんな仕事をしようが、それだけは貫いてほしいなぁ」
 普通、日常生活で「愛」なんて言葉は出てこない。あったとしても一種の共感性羞恥というか、小っ恥ずかしくなって目を背けてしまうだろう。
 しかし不思議だ。彼女があまりに真面目に言うからか。それとも元々彼女が持つ気質によるものなのだろうか。彼女の小さな背中に視線が釘付けになっている自分がいた。
 「・・・・・・そもそもゲーセンのゲームに、エンドロールも何もないですよ」
 それを誤魔化すように茶々を入れた僕に、彼女は「作ればいいじゃん」と目を細めた。
 「ほら、ストーリーモード全てクリアした後とかに入れとくとか」
 「100話の後ですか? 誰が見るんですかそんなの」
 「そうやって見ないっしょと思って手を抜くのは愛がないよ? 愛は」
 「細部に宿る、ですよね」
 「むう、そんな食い気味に」
 不満げな先輩であったが、それさえ可愛らしくて思わず笑ってしまった。
 正直な所、この先の事は分からない。彼女の言う通りいつかはこの先の事を考えないといけないのかもしれない。
 ただ、今はその背中を追いかけていきたい。少なくともこの日常がエンドロールの最後に行き着くまでは客席で座ったままでいたい。それくらいの我が儘は許されるはずだ。
 僕にはこれからも、先輩が必要だ。
 駅が見えてきた。遠くから電車の車輪音が聞こえ、巨大なビル群が空を覆い隠す。僕と先輩は違う路線なのでここでお別れだ。
 少し名残惜しいが、どうせ週明けにはまた顔を合わす。それまでの辛抱だ。
 「では先輩、また」
 当たり前のように言った僕に、先輩は「うん、またね」と言う。
 先輩が事故で亡くなった事を知ったのは、それから三日後の事だった。
 
***
 
 人が人の死を実感するのは、いったいどの瞬間なのだろう。
 その人の訃報を聞いた時だろうか。それとも葬式会場だろうか。不思議と僕はその両方でも無かったようで、未だに先輩の永遠の不在を実感できなかった。
 式場にいた先輩は、まるで眠っているようだった。
 沢山の献花と大勢のすすり泣く声に囲まれながら目を閉じる先輩は、生きている訳でも死んでいる訳でも無く、ただ狭間の中でゆらゆらと眠っているように思えた。ほんの少しのきっかけで目が覚めそうな、そんな錯覚さえ感じてしまう。
 ここで涙を流さない自分は非情なのだろうか。
 どうしても、目の前で起きている出来事が現実のものとは思えなかったのだ。まるで映画を見ているような、画面一枚を通して現実が存在している心地。ひょっとすれば自分は人間としてどこか欠けているのかもしれない。
 ただ確かに分かっている事は、事実はどこまでも事実であるという事。
 「――くん」
 僕は、もう二度と先輩に会えないという事だ。
 「佐藤くん」
 そこで、ようやく僕は顔を上げた。
 僕に声をかけたのは、僕が所属する部署の担当課長だった。いったいどれほどぼうっとしていたのだろう。今が仕事中である事すら忘れていた。
 呆けている僕に、担当課長は戸惑いがちに視線を揺らす。
 「あんな事があったばかりだからね。今すぐ、というのは酷だとは思うんだが、組織としてはどうしても次を考えなければいけないから」
 言葉を選んでいる事がひしひしと伝わってくる。申し訳ないと思いながらも、その配慮に応えられるほどのゆとりが今の僕には無かった。
 「空白となった次期アップデートの責任者(ディレクター)。仕様を一番熟知しているのは彼女の次には君くらいになるんだ。大役かと思うが、どうか引き受けて欲しい」
 その時、僕は何と返事したのだろう。ああ、とかはい、とか多分そんな感じだ。
 実際にこのプロジェクトは本当に人が少ない。企画は先輩を入れて数人だけだし、他の皆は運営にかかりっきりだ。そうなると自動で僕が繰り上がる。
 分かってはいる。分かってはいるができるかどうかは別だ。何せこれから僕は大きな大きな先輩という幻影と戦わなければいけないのだから。
 歪(ひず)みが現れるのに、特に時間はかからなかった。
 「佐藤さん、外注に出す資料準備できていますか? ええ、まだですか?」
 当然だ。メンバーはこれまで先輩の背中をずっと見てきている。
 「佐藤さん、流石にこれ以上仕様悩んでると、α版の締め間に合いませんよ?」
 先輩なら下せていた決断。先輩なら守っていた締め切り。先輩だから回っていた現場。誰が何を言わなくても分かる。僕は先輩の足下にも及ばない。分かりきった事だ。
 未熟な僕は、常に優秀な先輩の影に追われ続けていた。
 「いや、ほんと決めて貰わないと困るんですよ。状況分かってます?」
 柔和だったメンバーの態度がどんどんと変容していく恐怖。最初は自分の事情も理解してくれていたが僕があまりにも現実から目を背けていたからだろうか、日常で交わす会話がどんどんと減っていき、比例するように非難の言葉が増えていった。
 ただ座っているだけなのに、いつも周囲から刺すような視線を感じるのは何なのだろう。気がつけばトイレの個室だけが唯一の安らげる場所になっていた。
 「すみません。もう少し待って下さい」
 「すみません。それは委託先が納品してからでお願いします」
 息を吐くように出る「すみません」の言葉。謝る事がどんどんと軽くなっていく。言葉がどんどんと軽いものになっていく。
 何かを言う度に、何かが削られていく。だから仕事以外の人付き合いを止めた。休日に誰かと何かを話すという行為が非常に億劫に感じられたのだ。
 追い込まれると、人というのはどうも淀んだ思考に陥りやすいらしい。
 一月ほど経った頃だろうか、ある日それは顕著に現れた。
 例えば今、僕から少し離れた位置で話し込んでいる2人組がいる。
 きっと、直近の業務の話か最近出たゲームの雑談でもしているのだろう。普通に考えればそうだ。だが今の僕はどうしても穿ったように解釈してしまう。
 「やっぱり、あの人には荷が重いよ」
 幻聴が聞こえてくる。
 「正直プロジェクト回ってないよね。まあ、佐藤には無理っしょ」
 幻聴だと思いたい。だが幻聴である確信はないし、それを否定できるほど自分の頭はお花畑では無い。言葉にせずともメンバー全員がそう感じている事は容易に理解できた。
 ――全て、先輩のせいだ。
 ふと、そのような事を思っている自分に気付き、驚いた。
 それまで抱いていた喪失感は、いつしか怒りに変化していた。
 仕事が上手くいかないのは先輩のせい。自分がこうして苦しんでいるのは先輩のせい。彼女が急に居なくなったから、そのつけが全て自分に跳ね返ってきた。別に自分は望んでこの立場にいる訳では無い。ただ押しつけられたのだ。
 「有休、余ってるだろ? 一日くらい休んでみるのはどうかな?」
 2020年。1月上旬。
 そんな僕の姿を見かねた上司の提案がきっかけだった。
 僕は半ば吸い寄せられるようにあのゲームセンターに行き――
 そして先輩と再会した。
 
***
 
 ゴーストは、店内でそのコース最速のゴーストを倒す事で置き換わる。
 つまり目の前で先輩のゴーストが走っているという事は、先輩はこのゲームセンターで未だに最速の名をほしいままにしているという事だ。
 思わぬ再会に愕然としている僕を余所に、先輩は機械のようにコーナーを攻めどんどんと僕から遠ざかる。距離を示すUI(ひょうじ)は50m、60m、70mと上振れを続け、すぐに先輩の車体は画面にすら映らなくなった。
 「・・・・・・」
 動揺を抑えきれないまま、僕はその後を黙って追いかける。
 このゲームは実際の首都高をモデルにした、シミュレーション寄りのレースゲームだ。車がジェットを噴く訳でもミサイルを撃つ訳でも無く、忠実にアクセルとブレーキ、変速を駆使し誰よりも速く10㎞の距離を走り抜ける。勿論現実のように壁に接触しても車が壊れる事は無いが、限りなく現実に近い動作をする事に違いは無い。
 よって、勝負の行方は直線では無く必然的にコーナーで決まってくる。
 何せ直線だとただアクセルを踏みっぱなしにするだけなので、お互いそれほど差が開かない。一方でコーナーは限りなく速度を維持したまま曲がる技術が要求され差が出やすい。案の定曲線に差し掛かる度に彼女との距離はどんどんと開くようになった。
 「くっそ」
 『へへっ、佐藤くんもまだまだだねえ』
 僕は思わず横を向いた。しかし横並びの筐体には僕しか座っておらず、奥では白髪頭の店長が新聞を読むだけだった。
 「・・・・・・」
 一瞬、声が聞こえた気がした。
 不思議とその声は職場で聞こえた幻聴よりも遙かに芯を伴って聞こえた。僕はゲームを通して先輩の声を聞いたのだ。
 先輩は確かに亡くなった。だが先輩は間違いなく画面の向こうに生きている。ゴーストとなってまだこの世界に、自分の中に生き続けていた。
 ――消さなくてはいけない。
 それを理解した瞬間、得体の知れない使命感が自分の内側から湧き上がった。
 僕が何故先輩の死を受け入れられなかったか。どうして実感が無かったのか。その理由がようやく分かった気がした。
 まだ自分の中で、先輩がどこかに存在していると思い込んでいたからだ。
 それは過ごした日々の思い出として、或いはかけられた言葉として、時には目の前にあるようなデータとして色々な所に先輩が残り続けている。そしてそれらに触れる度に先輩の存在を実感してしまう。いつまでも前に進む事ができていない。
 だから、消さなくてはいけない。
 無意味な事くらいは分かっている。何せこのゲームは運営型だ。現在残っているゲーム内データは、数ヶ月後のアップデートにより自動的に消去される。これから僕がしようとしている事は、雨が降ることを知っていて洗濯物を干すような事に近いかもしれない。
 それでも、その最後の日が来る前に先輩のゴーストを消す。そうする事でようやく自分は自由になる。真の意味で先輩と決別できる。
 まるで根拠の無い只の自己満足だったが、久しぶりに自分に意思が芽吹いた気がした。
 その日から毎日、僕は仕事終わりにゲームセンターへと足を運ぶようになった。
 
 「――お先に失礼します」
 定時を遙かに過ぎたある平日の夜。
 残っている人もまばらになった社内で、僕は荷物を纏めながら声をかけた。
 今日もタスクが山積みだった。質問に答えているだけで一日の半分が終わりそうなほど忙殺されてしまっていた。この時間帯だとゲームセンターで先輩のゴーストと対戦できる時間は3、4回が限界だろうか。早く行かなくてはと気持ちを逸らせる。
 「なあ、あの話知ってるか」
 帰路につく準備をしていると、背後から控えめな声が聞こえてくる。
 「佐藤さん、仕事終わった後に毎日ゲーセンに行ってるらしい」
 「えっ何で?」
 「同期情報だけど、どうやらゴースト対戦ばっかしてるらしい。ホラ、先月亡くなったあの人のゴーストと」
 「え、まじで。怖っ。ってかそれ相当やばくないか?」
 意識せずとも聞こえてくる、が別に気にはならなかった。自分も逆の立場なら不審に思うだろう。ただ僕は彼らが思うその真逆、まともになる為に先輩のゴーストを消そうとしているのだ。
 そう、全ては彼女の亡霊(ゴースト)を消し、完全に忘れ去る為に。
 会社から繁華街への道を駆け走り、繁華街の中でも人通りの激しい商店街へと向かう。そのまま自転車が散乱している駐輪場を抜け、店の扉を開いた。
 薄暗く幾つもの電子音が重なり合う店内を真っ直ぐ進み、他には目もくれずにその筐体の座席へと座る。コインを入れると逆立っていた心がようやく静かになった。
 今日こそは負けない、と僕はハンドルを握る手に力を入れた。
 「さあ、先輩、勝負ですよ」
 届くはずのない独り言と共にレースが始まる。
 先輩のゴーストは、開始直後から一気に加速し僕を引き離しにかかった。
 このステージは序盤すぐに大きめのカーブがある。普通のプレイヤーならそれを見越してやや減速しながらカーブに備えるものだ。
 だがこのゴーストは違う。限りなく速い速度を出しながらも遠心力を利用してその速度のまま曲がりきっている。少しでもハンドル操作を誤れば壁にドカン、といった所だが、先輩のゴーストは難なくそれをやってのけていた。
 いったいどうやってあんな芸当が可能なのか。内心で舌を巻いていると、それをきっかけに昔の記憶が呼び起こされる。
 『こういうのはセンスだからねぇ。教えるったって佐藤くんには厳しいんじゃない?』
 いつかの先輩の得意げな声が聞こえた。望む答えとは違ったが、望む所だ。僕はふんと鼻を鳴らした。
 次に迎えるのは、1㎞に及ぶ真っ直ぐなコース。先程のコーナーで減速した車体を変速を上手く調整しながら最高速まで引き上げなければいけない。ただアクセルをべた踏みするだけでは駄目だ。きたるべきスピードの時にきたるべき変速を使用し、少しでも相手との差を縮める必要がある。
 しかし、縮められない。先輩のゴーストは常にその時その時の最善を選択し、前へ進めば進むほど距離が離れていく。やはりこの店内最速の名は伊達じゃないようだ。
 結局、生前の先輩には一度も勝つ事ができなかった。
 先輩がここに通うのはいつも仕事終わりの週末、そして決まって僕と一緒だったので、先輩と僕のプレイ時間は一緒なはずだ。なのに僕と先輩にはこんなにも差が開いている。
 随分と不平等な現実ではあるが、今はそれを嘆いても仕方ない。生きている人間の特権は日々変わり続けられる事だ。次のアップデートまでに、僕はただ一勝だけすればいい。
 『まだまだだね佐藤くん。次のアップデートまでにせめて一勝くらいしてほしいな』
 再び過去が交差する。そういえば、そんな事を生前にも言われていたか。
 どちらかといえば周囲を気遣い人を下げる事を言わない先輩が、この場所では気分良さそうに軽口を叩いていた。表情は記憶の中では会社よりもリラックスしていた、と思う。
 こうして先輩の立場になってみて、責任や重圧が他とは比較にならない事が理解できた。表情には見せていなかったが、ひょっとしたらこの場所は唯一先輩が肩肘張らず、呑気に過ごせる場所だったのかもしれない。
 そんな事を考えて、僕は思わずから笑いした。
 とんでもない皮肉だ。彼女のゴーストを消そうとする度に、彼女を強く思ってしまう。やはり僕が全てを吹っ切る為には、この亡霊を完全に消し去る他ないのだろう。
 「・・・・・・それにしても、亡霊であろうと手加減はなし、ですか」
 結局今日は完敗で、4回挑戦して4回とも大きく差が開いてしまった。
 その一方で、先輩に挑み続けて2週間、着々とその背中は近くに迫ってきている。
 アップデートはまだ先だ。この調子でいけば彼女と併走する日もそう遠くない。とにかく回数をこなす事が大事だと、僕はかなり楽観的だった。
 だが僕は痛いほど理解している。日常などほんの少しのきっかけで崩れ去る事を。
 2020年、2月1日。
 僕の世界が再び一変するのに、そこから大した時間はかからなかった。
 
***
 
 『佐藤さん、マイクミュートですよ、マイク』
 メンバーに呼びかけられて、僕はようやく相手に声が届いてない事に気付いた。
 「すみません!」
 慌ててヘッドホンのマイク部を操作する。がこちらは正常に機能しているようだ。となると問題は本体か。案の定アプリケーション自体の通話がオフになっていた。
 ああもう、ややこしい。
 「こ、これでどうですか?」
 おずおず尋ねると、返事の代わりに画面には親指を立てたUIが浮かんだ。これはOKという意味なのだろうか。口で言ってくれと思いながらも僕は咳払いし説明を続ける。
 「はい、気を取り直してですが、現在おおよそ5割の店舗が営業自粛という選択をしています。特にショッピングモールなどは店全体が休業していたりと深刻ですね」
 コロナウイルスが猛威を奮い始めた4月上旬。
 僕たちの職場は会社ではなく、自宅となっていた。
 最初はできるはずがないと半信半疑だったが、人間どのような環境でもある程度は適応できるらしい。既にこの生活を始めてから一月が経った。今では毎日会社に行っていた事が遠い昔のように感じられてしまうほどだ。
 県外に移動できないのも、マスクがないと生活ができないのも、娯楽施設が軒並み開いていないのも当たり前。ましてやゲームセンターなど、想像するまでもないだろう。
 だからあの場所にも、最後に足を運んでから既に一ヶ月が経っていた。
 最初はただただ焦っていた。
 何せいくらアップデートまで時間があるからといって、こんな状況になる事は想像すらしていなかった。いつまでこの状況が続く? いつからあの場所に行けるようになる? 早くしなければ僕は永遠に先輩と決別する機会を逃してしまう。そんな事は嫌だと歯がゆい気持ちでいっぱいだった。
 だがゆるやかに時が経つにつれ、まるで砂時計の砂が目減りしていくかのように僕の中にあった焦燥は薄れていき、一月を経た今となっては何故あのような事をしていたのかと疑問を抱くようにさえ昇華していた。僕は先輩を忘れる事ができていたのである。
 結局の所、想いを断ち切る為には執着してはいけなかった。ただ距離を取れば良かったのだ。過去にさえしてしまえば、大抵の事は思い出になるらしい。
 それに気付いてから、視界が急に明瞭になった。僕たちは今色々な制限を受けているがここ最近で今が一番自由な気がする。ただ目の前の業務に集中していれば良いのだから。
 「とまあ、こんな状況ではありますが、私たちのゲームを望んでいる人は必ず居ます」
 ただ、いくら記憶の中の先輩が薄れようとも、過ごした時間が変化する訳も無く。
 「最後まで拘り続けて、いいもの作っていきましょう」
 貰った言葉は、未だに自分の中に根付いていた。
 『――でも、安心しました』
 会議の終わり、全員が画面から抜けるのを待っていると、参加メンバーの最後の一人がふとそのような言葉を僕に漏らした。
 『少し前までの佐藤さん。いっつも追い詰められたような顔してたので』
 考えるよりも先に言葉が出たようだ。その後すぐに『あ、今は全然そんな事無いので!』と慌てて補足するが、本当にその通りだと思う。僕は「ほんとっすねー」と笑い返す。
 「いや、今思えば何か色々考えすぎてたというか、ちょっと、その、まじですみません」
 視界が開けると、それまで気付かなかった事が色々見えてくるようになった。
 悪意を持って投げかけられたと思っていた周囲の声は、純粋に自分やプロジェクトを思っての言葉だった。陰口を叩いていたと思い込んでいた2人組も、きっとオンラインゲームの雑談で盛り上がっていただけであり、事実がどうであろうとそう思った方が僕にも彼らにも得である事に気付いた。
 僕の思い込み一つで、どうやら言葉は刃物にも薬にもなるらしい。
 奇しくも人と離れた環境に身を置くことで、それを実感する事ができていた。
 『いえいえ、また困った時はご相談下さい。これでも先輩の部下なので』
 そう言って、会議室には誰も居なくなった。今の『先輩』が僕か先輩のどちらを差しているのかは定かではないが、前者であればと願う。
 僕はヘッドホンを外して、先週買い換えたゲーミングチェアへともたれかかった。WEB会議と今の室内の静寂の差にくらくらしながらも、どこか心地よい疲労感が体中を巡っている。そろそろ会社でどう働いていたか忘れてしまいそうだ。
 ――これで良かった。今は素直にそう思える。
 そもそも先輩にとって僕は大勢の社員の中のいち部下であり、それ以上でもそれ以下でもない存在だった。僕が一方的に慕っていただけだ。そんなただの後輩がここまで引きずるなど、逆に先輩もあの世で困惑してしまうだろう。
 だから、これで良かった。もう折り合いはついている。僕はこれから極力先輩を忘れて生きていく。ゴーストもそのうち他の誰かが上書きするだろう。
 そう自分に言い聞かせ、再度僕は仕事に戻った。
 
***
 
 凪のような休日だった。
 毎日目まぐるしく変わる感染者の数と、全く代わり映えのしないニュースの内容。地上の狂騒を余所に広がる穏やかな青い空。
 そんな怒濤と制限の日々の中で生じた、緊急事態宣言の解除。
 久しぶりに生活する以外の目的で、僕は外出していた。
 一ヶ月半ぶりの繁華街は、何だか知らない場所のようでもあり、同時に地元の駅前のような懐かしさも感じた。総じて何かが変わった訳ではないので僕が変わったのだろう。
 ここには散歩に来ただけだ。街というものが今どうなっているかを確認しにきたに過ぎず、特にどこかに向かっている訳ではない。しかし習慣とは怖いものだ。僕は誰かに遠隔操作されているかのように無意識に職場へと続く道を歩いていた。
 またいつか、この道を元のように歩く事があるのだろうか。先の事はよく分からないが全てが元通りになる事はないような予感がしている。先輩がもうこの世界にいないのと同じように、きっと世界も元と同じようには戻らない。
 ただ、この場所はまるで時が止まったかのように繁華街の隅に佇んでいた。
 本当に来るつもりはなかった。別に目的があって外出したつもりはない。と頭の中では色々言い訳を考えていたが、正直本心は僕にも分からなくなっていた。ひょっとすれば僕は最初からここに来るつもりだったのかもしれない。
 半ば怯えながら中に入る。
 店内は僕が想像したよりも変化していた。入口には消毒液が置かれ、横並びの筐体には全て仕切りが設けられている。その影響で配置もどこか変わったような気がする。永遠と思われたこの店でさえ、世の中の変化には敵わないらしい。
 ただ僕たちのゲーム機は以前と変わらない位置にあって、何故か救われた気がした。
 「・・・・・・あ」
 感傷に浸っていたのもつかの間、筐体を消毒液で拭いていた店長と目が合った。またほんの少し白髪が増えたような気がする。反射的に目を逸らしかけたが、店長はしわくちゃの顔を更に歪めて「いらっしゃい」と笑った。
 「久しぶりだね。今日はあの子とは一緒じゃないの?」
 顔を覚えられていた事に驚く。あの子とはきっと先輩の事だろう。実際は先輩の方が年上のはずだが、あの子と称される辺り流石といった所か。
 「はい、ちょっと・・・・・・」
 問いかけに、僕は曖昧に返事を濁した。本当の事を言おうとしたがそこまでの関係ではない以上、無理に悲しい思いをさせても仕方ないだろう。
 すると、店長は片方の眉を下げて寂しそうな顔をする。
 「そうかい、残念だね。こんな事になる前は毎日来てたから」
 成程、どうやら彼に顔を覚えられていたのは彼女の方らしい。やはりどこにいてもどんな状況でも先輩は際立つようだ。しかし、だとしたら先程言葉を濁したのは失敗だったか。先輩と彼にある程度の繋がりがあった以上、事実を説明すべきだったのかもしれない。
 「え」
 と、そこまで考えて、僕は思わず目を瞬かせた。
 「――毎日、来てた?」
 いやいや、と僕は困惑する。
 先輩とここで遊んでいたのは決まって週末の金曜日のみだ。それ以外はお互いに忙しく、明日もあるので仕事が終われば家に直帰していたはずだ。
 ただ、確かにいつも先輩は僕より仕事を終えるのが遅かったので、僕が帰った後の先輩が何をしていたのかは正確には知らなかった。
 僕の反応を見て、店長は合点がいったとばかりに含み笑いする。
 「ああ、そういやそうだったね。君には内緒だった」
 「どういうことですか?」
 この人は僕の知らない先輩を知っている。店長の口振りからそれは理解できた。
 逸る気持ちを抑えつつも前のめりに尋ねると、店長は「これは時効かな」とやや考える素振りを見せた。
 「大した話じゃないよ。以前から彼女はよく店に来てくれてね。まあ決まって遊ぶのはこの筐体だったから、そんなにこれが好きなのかって聞いた事があったんだ。そしたら何て言ったと思う? 『絶対に負けたくない奴がいる』ってさ」
 熱いよね、と店長は笑っていたが、僕は自分がどんな顔をしていいか分からなかった。
 「最初は何の事かは分からなかったけど、毎週末君と一緒に来てたから君の事だろうとは想像ついたよ。本人に聞いたら極秘案件ですってはぐらかされたけどね。とにかく彼女にとって君は、それほど特別な宿敵みたいだ」
 茶化しながら言った店長に、僕は「そうですか」と声を震わせた。
 彼女の視界に、僕は映っていないと思っていた。
 僕はあくまで彼女のいち部下で、週末もただの気分転換に付き合ってくれていると。
 ただひょっとしたらだが、僕の都合の良い解釈なのかもしれないけれど、彼女の中では自分という存在は、ただのその他大勢では無かったのかもしれない。
 勿論この事実だけでそう解釈するのは根拠が弱く、自分の願望の域を出ていない。彼女の生来持つ負けず嫌いが働いただけなのかもしれない。
 それでも良い。
 生前の彼女の中に確かに僕はいた。今はそれが分かれば充分だった。
 「じゃあ僕はそろそろ。彼女にもよろしく」
 店長はそう言って場を後にした。少し腰の曲がった背中に僕は静かに一礼する。顔を上げると学生たちが仲良く筐体を囲みながらハンドルを回していた。
 先程から彼らが先輩のゴーストと対戦してはいないか、ゴーストが消されていないか、それだけが気がかりになっていて苦笑する。僕はやはり彼女のゴーストと立ち向かわないと前には進めないようだ。
 いや違う。
 どちらかといえば、ゴーストは自分の方なのだ。
 彼女の死後も彼女に囚われ続けて、彷徨い続けている哀れな亡霊。そもそも無理に忘れようと思ってしまっている時点で彼女を意識しているのだ。ここに来たのも未練がまだ残っているからで、結局の所それを晴らす為には彼女に勝つしかない。それこそ他の誰かが彼女に勝利しゴーストを消してしまったら、僕は一生浮かばれない。
 だから勝つしかない。いや、勝つべきだ。
 想像するだけで楽しみだ。僕が勝った時、彼女はどんな表情をするのだろうか。絶対に負けたくない相手に負けた時、彼女はどんな表情をするだろうか。きっと悔しそうな顔をするはずだ。いつもの饒舌さはなりを潜め口数も減るのかもしれない。そしてそんな機会はこれを逃して他にはない。これは永遠に先輩に勝ち逃げする最後のチャンスだ。
 勝負はまだ何一つ終わってはいない。今度こそ僕は彼女と決別する。後ろ向きでは無く前向きな意味で。晴れやかに彼女を消し去ろうと思う。
 「という訳で、やっぱり白黒つけましょうか。あと少しだけ我が儘、聞いて下さいね」
 とても心は晴れやかだったにも拘わらず、どうしてか視界が何かで滲んだ。
 
***
 
 最後の勝負は、誰にも邪魔のされない深い夜の中でやろうと思った。
 僕がゲームセンターに足を運ぶと、既に店の照明はついていなかった。
 当たり前だが客もいなければ他の筐体も動いていない。自動ドアの開く音がこれほどまでクリアに聞こえるのは中々ない体験だ。昼間の喧噪とは打って変わって静かな空間の中、僕は筐体の座席に座っている男性に声をかける。
 「すみません、遅くなりました」
 呼びかけるとその男性――課長は「ああ」とスマートフォンから目を離し顔を上げた。
 「立場上忙しいのは知ってる。準備はしておいたよ」
 静寂と暗闇に包まれた深夜の店内で、課長が座っている筐体だけが怪しく光っていた。
 「店側にはアップデートの実機確認と伝えてある。実際にこのワンプレイが終わった後はドングルを差し込みアップデートする。それでいいんだよね?」
 「はい。いやもう本当にありがとうございます」
 課長には、随分と無茶な注文をしてしまった。
 元々アップデート直前の実機確認はどこかの店舗で行う予定だったにせよ、それをこの店舗に設定して貰った事。そしてそれを理由に深夜作業を許可してくれた事。ほぼダメ元のつもりだったが課長は快く全てを手配してくれた。
 正直頭が上がらないどころかもう足を向けて眠れない。手を合わせながら何度も何度も頭を下げたが、課長は「大した事は無いよ」と肩を竦めた。
 「この店にはよくロケテストなどで縁があったからね。特別無茶な話では無い。それにしてもまさか彼女のゴーストデータがこの店舗に残っていたとは」
 そんな事あるんだねえ、と課長は遠くを見るように言った。
 「ちなみに、さっき僕も軽く戦ってみたよ」
 「お、どうでしたか?」
 「2㎞くらい離された」
 「がはは」
 流石に課長といえどもゲームの腕では先輩には及ばないか。笑っていると課長もつられて笑っていたが、どこか目線は遠いままだ。
 「ねえ佐藤くん。ここから天国までは、どれくらい距離があるんだろうね」
 「・・・・・・」
 僕は笑うのを止めて彼の顔を見た。銀縁眼鏡の奥の瞳はまだ遠くを向いている。
 思えば彼は自分の担当課長であり、先輩は立場上は主任にあたる。つまり課長と先輩の関係は僕と先輩の関係に近い事になる。
 課長は葬式の時も落ち着いていたが、あくまで気丈に振る舞っていただけかもしれない。たった数秒ほどのやり取りで課長の人となりがより理解できたような気がした。
 「どうでしょう。人それぞれな気がしますが、遠くは無いような気がします」
 率直な感想を吐露すると、課長は「そうに違いない」と納得したように頷いた。
 「じゃあ、後は佐藤くんに任すよ。自信のほどはいかがかな?」
 「なかったら課長にこんな事は頼みませんよ」
 「愚問だったね」課長は薄く微笑むと、ゆっくりと筐体から体を起こして僕に譲った。課長の無言のサインに僕も無言で頷き筐体の座席に腰掛ける。
 正真正銘、これが最後の挑戦になる。ここまでお膳立てをしてもらった以上、簡単に負ける訳にはいかない。
 息を吸って少し逡巡、しかしすぐにコインを投入した。とたんに静かな店内に疾走感のあるBGMが流れ始める。ホーム画面からゴースト対戦のメニューを選択し、十数種類のコースから1つを選ぶと、相手の欄にNANAのハンドルネームと車体が出現した。
 『また勝負? 佐藤くんも懲りないねぇ』
 ここではない場所から先輩が呼びかける。先輩の気配が隣から伝わってくる。心配せずともこれが最後の勝負だ。僕は覚悟を決めてアクセルを踏み抜いた。
 勝負開始。
 ゲーム開始と共に、互いのレースメーターの針が勢いよく右回りに振れる。
 相変わらずとんでもない加速だ。何とか併走するので精一杯だ。だがここで置いて行かれると話にならない。互いの車体がガンガンと接触し、激しく火花を散らす。
 『おっ。いいじゃん。でも次のコーナーではどうかな?』
 そう、この加速は言ってみれば前座。数百m先にある大カーブこそが本命だ。
 少しでも操作を誤れば壁に激突して大減速、かといって減速してしまえば緩やかに距離を離されてしまう。まさにチキンレース。
 しかし僕は速度を緩める事無く、ハンドルをめいっぱい回してコーナーへと突入した。激しいドリフト音と共に後方のタイヤが滑っていく。ここまでは完全に、互角。
 『やるねえ、佐藤くん。さてはこっそり練習した?』
 ああ、練習した。
 ただそれは先輩も一緒であり、僕だけ非難されるいわれはない。勝負であろうと創作であろうと、最後まで徹底的にやり抜く事こそが肝心だ。
 その事は他でも無い先輩から教わった。
 互いの車体はぶつかり合いながら、併走して進んでいく。時速300㎞は超えるであろう速度の中で、互いの距離差は数mに収まっていた。
 正に一進一退の攻防。未だかつてここまで先輩と距離を詰めた事は無い。遠かった先輩にようやく並べる事ができていた。唯一悔いが残るのはこれが最後のレースであり、この事実を先輩が知らない事だろう。
 (――先輩、見てますか)
 だからこれは僕自身のレースだ。
 (意外といい勝負してるでしょ。あれからずっと練習したんですよ)
 先輩のゴーストを通して、僕の中にいる先輩に話しかけているにすぎない。
 しかし先輩のゴーストは名前、車体、走り方や加速の仕方。持ちうる要素全てを使って僕に語りかけてくる。ここに私はいるよ、と。ひょっとしたらこの筐体は天国と繋がっていて、先輩が向こう側で操作しているのだと、そう錯覚させる。
 「みたいだね。でも仕事はおろそかにしてないかい?」
 (大丈夫です。僕に限らず皆先輩に鍛えられてきたんで)
 「いいね。とにかくクリエイターたるもの最後まで拘り抜く事だよ。愛は細部に宿る」
 「例えばエンドロールの最後まで、ですよね。ちゃんと覚えてますよ」
 人が人の死を実感するのは、いったいどの瞬間なのだろうか。
 きっと答えは単純で、その人との別れをしっかり心に刻んでからだと思う。
 多くの人は、葬儀場でそれを実感しただろう。きっとああいうものは大切な人に別れを告げる為に必要な行為であり、その日からそれぞれがその人のいない明日を歩き始める。
 僕はここだ。この場所で今度こそ先輩と決別する。そしてその瞬間は近い。
 「ーーでも、本音を言うともう少し、先輩の話、聞きたかったです」
 レースは終盤に差し掛かった。依然互いに+-数mの差を保ち続けている。
 「何で、何も言わずに居なくなるんですか」
 一瞬のミスも命取りになる状況。しかし思わず視界が滲んだ。ハンドルを握る手が僅かに震える。それでも溢れ出るそれを抑える事はできなかった。
 寂しい。辛い。あの日から一度だって忘れた事は無い。これ以上先輩と話せない事も、笑ったりする事も、あるはずだった未来が永遠に来ない事がたまらなく悲しかった。
 「ごめんね」
 ただ、きっとそれは僕だけではないのだ。
 「私も、もっと佐藤くんと話したかった」
 僕は悲しむ事ができる。だが先輩はそれさえもする事ができない。悲しむ事も、嘆く事も苦しむ事だって生きている者の特権だ。
 「もっと、生きていたかった」
 それがもう望めないから、僕たちはこうして走り合っているのだ。
 ゴールが近づいてきた。終わりが近づいてきた。後は直線数百mをただ突っ走るだけだ。
 情けなくも既に目は充血し、背中はどうしようもなく震えている。こみ上げてくる全てに耐え切れなくなりながらも、アクセルだけは力を入れて踏みしめた。
 このレースは証明だ。先輩がいなくとも一人でやれるという事を見せるための証明だ。だから僕はここでくじける訳にはいかない。
 「――先輩」
 最後の最後まで不格好な自分に、隣の先輩が苦笑しながら「なに」と聞いてくる。
 そんな先輩に、僕は鼻水をすすりながら嗚咽を噛みしめる。
 「今まで、ありがとうございました」
 100m、90m、そして50m。
 時速300㎞の世界では一瞬すぎる時間の中、思い出が走馬燈のように蘇ってくる。
 不思議と記憶の中の先輩は、いつも楽しそうに笑っていた。
 「――こちらこそ。じゃあ、またね」
 先輩の気配が消えて、それがレースの決着となった。
 
 ゴールを真っ直ぐ突き抜けたのは、僕の車だった。
 
 ファンファーレが鳴る。僕の感情をどこかに置き去って、壮大な勝利のBGMが鳴る。やがて『店内のゴーストを撃破しました』という事務的な通知と共に、画面にあった先輩のデータが粉々に砕けて、僕の車体データに置き換わった。
 先輩のゴーストが、完全に消滅した瞬間だった。
 葬儀場でも感じなかった喪失感が一気にのしかかってきた。もう会えないのだという事実がこれほどまでに重い。人は皆こんなものを乗り越えて生きていくのだろうか。きっと僕は暫く今日という日を引きずり続けるだろう。
 だが、今日という日が遙か遠い過去になるまで、前には進み続けようと思う。
 「・・・・・・はい、また」
 先輩は遠い所へと行った。ここから遙かに遠く、今の僕には行けない場所だ。そこまでどれほどかかるかは分からないが、いつか辿り着くその日までに僕は走り続ける。その最後の日まで走り続けて、また会いに行く。
 そして今度こそ、言う事ができなかった僕の気持ちを伝えようと思う。
 涙はとめどなく流れ続けて、言葉にならない悲鳴が喉の奥から漏れる。
 それから暫くの間、僕は筐体に体を預けて背中を震わせた。

                              ***

2022年、7月7日。
 あのゲームセンターが無くなるという話を聞いて、2年ぶりにこの場所に来た。
 久しぶりに店の前に来てみると、閑散とした以前の様子とは打って変わって人に溢れていた。恐らく店が閉まるという話を聞いて最後に一目見ようと集まったのだろう。この店にこれだけの縁のある人がいたのかと僕は驚きながら店に入る。
 「――こんなに賑わってるのに、閉まっちゃうんだね」
 隣では、この春に妻となった彼女が興味深げに周囲を見渡している。
 「まあ、最後だからってのはあると思うよ」
 本心ではこうなる前にもっと普段足を運んで欲しいものだったが、自分も離れていた身なのであまり強く言えないのが心苦しい。だからせめてこうして見送りに来たのだが、この様子では遊ぶ暇はないようだ。
 「ちょっと見たらすぐ帰ろっか」
 人混みをかき分けてせわしない店内を歩く。2年という時間が経ったにも拘わらず内装は何一つ変わっていない。ただ人が溢れているだけだ。
 思えば子供の頃に過ごした週末のゲームセンターはこんな感じだったような気がする。何だかノスタルジーさえ感じてしまいそうな空間の中、僕は足を止める。
 「――あ、これ、晴之(はるゆき)くんが作ってたゲーム」
 彼女が指さしたのは、僕がいたプロジェクトのレースゲームだった。横並びの筐体にはどれも人がついていて、今は遠目に見ている事しかできない。
 「人気じゃん」
 肘で小突いてきた彼女に、僕は「どうも」と薄く笑った。メジャーアップデートもあの日から既に2回目。ここまで来るのにそれはそれは色々な苦労があったものだが、こうして人が遊んでいるのを見ると感慨深いものがある。
 本当に時間が経った。レースで使用される車はここ半年で追加された車種が殆どであり、きっとあの筐体に登録されているゴーストも僕が知らない誰かのものなのだろう。僕にも大切な人の存在ができて、あの日の出来事が徐々に思い出になりつつある。
 「っしゃ、100話コンプリート!」
 遠い目で筐体を見ていると、遊んでいた一人の少年がそう言って拳を突き上げた。隣にいたのは友人たちだったようで「まじで?」「やるじゃん」と口々にはやし立てている。彼らは「てか俺も終わったし行こうぜ」「マック?」「サイゼでよくね?」と早口で話しながらやがて筐体から離れていった。主を失った筐体からは、100話クリアで再生されるエンドロールが空しく流れ始める。
 DIRECTOR ・ HARUYUKI SATOU
 PRODUCER ・ KENJI NAKAZIMA
 CHIEF PROGRAMMER ・ SUWA KURAMA
 文字列は誰に見られる事無く、浮かんでは消えてを繰り返していた。
 「・・・・・・」
 それを黙って見ていると、背後から彼女が「そろそろいこ?」と呼びかけてきた。逡巡したのは一瞬だけ、僕はすぐに笑顔になって「いくいく」とその場を後にする。
 それからも筐体には、延々とクレジットが下から上へと流れ続けていた。やがて真っ黒に塗りつぶされた画面は終点へと辿り着く。
 
 SPECIAL THANKS ・ NANA KASHIWA
 
 そのエンドロールの最後に込められた意味は、今となっては僕だけしか知らない。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
                                    END