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1980年、デジタルエンジニアへの道

渋谷・南平台

1980年4月、工学部電気電子工学科での新生活にも慣れた頃、アルバイト先を探して見つけたのが、渋谷の南平台にあったデザインハウスの Nuks(ナックス)社。40年以上経った今でも会社名を覚えているのは、そこでのアルバイト生活が刺激的だったことに加えて、社長が云うところの(ステム=Nuks)という社名の語源が、きっとツボに嵌ったからだと思います。

デザインハウスというのは、1980年前後に、雨後の筍の様に流行り始めた8ビットマイコンを使った電気電子機器のハードとソフトの設計を請け負う受託会社の総称で、ナックス社も社長の宝住さん(ソフト)と専務の畠山さん(ハード)、日立出身のソフト担当の若松さん、お手伝いで参加していたハード担当の赤羽さんと庶務女性の5人しかいない、出来たてほやほやのデザインハウスでした。渋谷南平台の交差点から一本奥に入った雑居ビルの2F、会議室と兼務の作業場をあてがわれた、当初の私の担当は、PCBボードの納品チェックで、ボタンを押してLEDが正しく光るか?等の動作試験に合格したものを、大阪のゲーム機器組み立て工場に梱包して送付する単純作業から始まりました。

当時はリード部品が全盛の時代ですので、PCBの実装屋さんでは手作業で部品挿入とハンダ付けをしているので、誤挿入やハンダブリッジ、未ハンダ等の実装ミスが沢山あります。もともと電子工作少年だった特技をアピールして、実装不良品を復活させる(リワーク)作業に徐々に仕事の範囲を広げていくことになりました。基本は目視で実装ミスを発見してリワークをかけますが、当時のテーブルゲーム機のPCBにはマイコンやメモリを合わせて100個超えるICが乗っているし、抵抗やキャパシタも山ほどあります。抵抗値の間違いはカラーコードを読んで、キャパシタは3文字数字の値間違いや+ーの差し間違い、一番あるのはDIP型ICの足曲がりや逆差しですが、時には不良ICによる動作不良もあります。不良症状の画面流れや音声不良、LED点滅等の不良症状に合わせて、当時は高嶺の花だったテクトロの遅延付きオシロを駆使して、該当する回路の信号を追って不良原因を探し出す作業は、まるで医者が患者の症状から病気の原因となる患部を見つけ出すのに似ていて、こりゃ天職だと(笑)思ったものです。

今流に言えばOJTにて、デジタル回路の動作原理と測定器の使い方、不良解析の手順を実践にて学ぶ大変貴重な機会でしたし、大学で電気電子工学を前向きに学ぶ大きなインセンティブになりました。またデジタル回路(TTLの型番と機能の関係)、マイコンの内部構造やソフト(当時はコンパイラーとか無いのでアセンブリ言語=機械語)の理解等、アルバイトをする中で学ぶことも沢山ありました。現場で技術を吸収しながら業務範囲を広げ、時給も当時としては破格の金額を提示されて、プライベートでも自ら組み立てた Apple-II (当時アキバで流行ったCopy版)向けの、高価なフロッピーディスク装置を購買したり、オシロスコープを買ったり、アナログシンセサイザーを組み立てたり、電子工作少年としては贅沢な日々を送ることができました。

遊技機業界

マイコン関連のデザインハウスの出自としては意外ですが、社長と専務はTDK出身でした。当時TDKはフェアチャイルド社の日本代理店をしており、F8というマイナーな8ビットマイコンを扱っていました。社長の宝住さんが面白いのは、マイナーなマイコン「=他社にコピーされ難い」と考えて、遊技機への展開のビジネスモデルで脱サラ(=起業)したところです。また、宝住さんは気前の良い社長で、夜中の10時ぐらいになると、社員とアルバイトを誘って夕食の焼肉に繰り出すだけでなく、そのまま2次会、3次会と誘われる事も多く、高級クラブに一緒に出入りして、大人の夜の生活を20歳前後にして知ることになりましたし、結果アルバイト先から大学の授業に行くことも度々ありました。

社長がどのような人脈から遊戯業界と関係を持ったのか?定かではありませんが、大阪のゲーム機器販社の会長さんは明らかにヤ○○系の方でした。サングラスをかけて、颯爽と破手なマフラーやスーツを着込んで毎月会社にやってきては、青山の高級隠れ家クラブで経営会議という名の飲み会です。何度か連れて行って頂きましたが、普通のマンションのドアを開けると、シャンデリアとグランドピアノが「ドーン」で、深いソファーに座るや黒服がスーッとタバコに火をつけてくれる。ド昭和のヤ○○映画そのものの世界がそこにはありました。

当時は、マイコンが遊戯機器に応用され始めたばかりで、例えばパチンコでは、出玉を「釘」で調整する「釘士」に代わり、プログラムの設定で出玉の確率や大当たりの頻度を調整できるようになってきます。喫茶店に展開されていたインベーダーのテーブルゲームがギャンブル系に野放図に展開されていく黎明期でもありました。アルバイト先の会社の最初の製品も、テーブル型のボートレースゲームでした。社長の宝住さんが競艇が大好きだったのが理由ですが、ギャンブル系のテーブルゲームだとブラックジャックぐらいしか無かった時代に、キャラクタ移動ではありましたが、動きのあるゲームはデビュー製品としては大成功だったようです。

クレジット

テーブルゲームですから、設置先は風営法で管理されたパチンコ屋のホールではなく、普通の喫茶店に置かれます。インベーダーは100円を入れて、遊んだら終わりですが、ギャンブル系のテーブルゲームは、勝てばクレジットの数字が上がるので、お店はクレジットの数字をお客さんに換金することで博打が成り立ちます。明らかに違法賭博ですが、当然出玉はマイコンで正確に制御されていますので、店が負けることはありません。

ギャンブル系のテーブルゲームには「BIG&SMALL」という勝ったオッズを倍にできるオプションゲームがあったのもよく覚えています。射倖心を煽る仕組みですね。当時のパチンコにフィーバーという出玉確率があがるオプションがあったのと同じですが、制御をかける側にとっては出玉確率を調整する良い仕組みでもありました。

手軽に始められる私設カジノとして、1000円札が直接入るように改造したゲーム機器を何台も並べた、怪しい喫茶店が場末の繁華街にありました。アルバイトに慣れてくると、販社の営業(本人曰く、足を洗ったヤ○○)の人と、トラブル対応に出張修理に出かけることもありました。伊勢崎町の地下の喫茶店では、1000円札の束がゲーム機の上に置かれ、クレジットが消えて怒りに燃えるお客から、営業の方に隠れるようにボード交換をした記憶は今も鮮明です。

確率

エキサイティングなフィールドワークの一方で、デザインハウスの開発現場は至って真面目です。「5時から男」の社長の宝住さんの出社は遅く、社長室兼務の開発部屋に篭ってアセンブラでのソフト開発です。CPUのクロックスピードが遅いので、命令実行のサイクル数を数えながら実装するという世界で、今では想像もできない長大な工数がかかります。また貧弱な算術演算しか出来ない8ビットマイコンで出玉の確率計算をするので、夜の豪快さとは別人の様に、昼間の社長は悲観的な弱音を吐きながら仕事をしていたのを今でも良く覚えています。

この会社のコア技術は確率計算ルーチンの実装でした。出玉はホールが勝てば良いというものではなくて、お客の滞在時間が長くなるよう、また突っ込む金が多くなる様に、射倖心を煽るように調整しなければなりません。宝住さんは、確率計算のルーチンの実装方法を、かなり長い間極秘として社員の誰にも教えずに、自分だけが実装できるようにしていたのがとても印象に残っています。大学生の私に、いつも「確率を真面目に勉強すれば社会で勝てる!」とも言っていました。

保通協

1982年、一般社団法人・保安通信協会(通称・保通協)が生まれます。基本、警察組織からの天下りですね。電子機器で制御されたギャンブル機器を認定することを目的にしています。それまでやりたい放題であった電子制御されたギャンブル機器に認定という枠をかけることで国の管理下に置くことが始まりました。当初はプログラムが格納されたEPROMに認定シールを貼るという緩い規制から、現在に続く厳しい規制に徐々になっていきます。何度か県警の地下の取り調べ室まで、新開発製品を持ち込んで、認定テストを受けに行ったこともありますし、販社の知人から動員がかかり、地方のホールまで裏ROM交換に出張アルバイトに出たこともありました。時効だから良いですが、今だったら闇バイトの「出し子」並みにやばい仕事でした。

開発の場では、違法賭博向けのテーブルゲームから、パチンコホール向けの適法なゲーム機器開発に転向していきます。後発のメーカーでしたので、パチンコ台と外形が同じパチスロ機器の開発に邁進していきました。世の中にはギャンブルのプロがいるというのも、パチスロの開発現場で学びました。新製品のモニターとして「目押し」ができるプロに試してもらい、絵柄の良し悪しとか、ボタン押してからの止まり方とか、自由自在に絵柄を揃えることができる現実を目の前にして、自分にはその才能が無いことを知ったのです。

信頼性

開発会社ではA○D社製のEPROMを使ってました。マル秘のプログラムの書き込みは外注できないので、社長の奥さん(本妻では無いと後にわかる)の「カオルさん」が担当してました。社長に遅れるように遅くに出社して、ギャングライターで毎日々EPROMの焼き付けをしていたのですが、夜の飲み会にも加わる気さくな女性で、随分と可愛がってもらいました。

ある時テーブルゲーム機が客先で突然動かなくなるという大トラブルがおきました。PCB基板を引き取りにいっても会社に戻ると不具合は再現しません。ハードの開発担当がいろいろ試した結果、温度上昇にともないEPROMに書いたコードの読み出し値が変わるということが原因だと分かりました。弱小のデザインハウスからのクレームに、米国のA○D社がまともに話を聞いてくれる訳はなく、急遽木枠とビニールシート、アキバの坂口電熱で電気ヒーターを購買して、素人工作にてテーブルゲームが入る大きな恒温槽を作ってトラブルの再現実験をしました。証拠を提出した結果、A○Dが部品交換や保証に応じてくれたのかの記憶は無いですが、特定ロットに不具合があり、そのロットは使わなくなったのは覚えています。半導体の信頼性と商品トラブルを実体験として学ぶ良い機会となりました。

圧電ライター

お金のためなら人間は工夫を惜しまないということもデザインハウスでは学ばせてもらいました。電子制御のパチンコのコイン挿入口に圧電ライターで火花を飛ばしてプログラムを暴走させて、クレジットを増やしたり、フィーバーを起こすことが流行り始めました。開発現場では、CPUを暴走させずにリセットする回路やアーク放電からの信号の検知回路の実装が必須となりました。

圧電ライターでの違法行為に加えて、CB無線を使った違法行為もありました。パチンコホールの近傍に止めた大型トラックに積んだ不法にパワーアップしたCB無線からの信号で暴走させるというものです。これには PCB を格納する箱で対応した記憶があります。

前述の「目押し」ができるプロもそうですが、お金のためなら努力と工夫は惜しまないユーザーとのイタチごっこの対応が技術開発の原動力だと学びました。

社員旅行

大阪の販社・製造会社と東京の開発会社の3社合同での社員旅行も大変記憶に残っています。一泊二日で京都府の日本海を望む温泉ホテルが目的地です。各社のアルバイトも参加できるということで、東京からはマイクロバスをチャーターして移動する贅沢な社員旅行でした。早めにホテルに着くと、本日は貸切とのこと、ロビーで待つ間に、続々と販社の知り合いがドデカい外車で家族と一緒に到着しますが、みなさん奥さんがケバい!そして食事の前の温泉にて、ホテルが貸切な理由を知るのでした。笑。

大学院へ

4年生になると、社長から破格の条件で入社するように誘われたのですが、アルバイトを通じて、いろんなエンジニアと付き合う内に、知識と学習の重要さに目覚めてしまい、大学院へ進む決心をします。当時は電気電子工学科で10%程度しか進学しない時代でした。高卒の両親には大学院への進学の価値が分かる訳もなく、奨学金(今は亡き東京都奨学金)を貰うことで、進学を許してもらいました。

研究室は、半導体デバイス系を選びました、電子回路を極めるにはデバイスの知識が必須だと考えたからです。研究室では、量子力学、多種の真空装置や拡散炉、物性評価装置等の知識を詰め込みました。当然、大学院卒業の際にも、社長から破格の条件で入社するように再度誘われましたが、まずN○○研究所を受験しようとM2の夏過ぎまで研究室でブラブラしていたら、突然指導教授に呼び出され、そのままタクシーに乗ってT芝の半導体研究所の部長との面接を受けさせられて、即合格ということで、デザインハウスへの入社は幻と消えました。

形見分け

正確には覚えてないですが30歳を超えたころに、デザインハウスの総務部長の小林さんから、突然電話がかかり、宝住社長が亡くなったこと、本妻では無かったとその時に知ったカオルさんの希望で、形見分けのネクタイを渡したいとの連絡を受けました。

何度か遊びに行ったこともある、南平台のオフィス近くの自宅マンションのベランダで焼身自殺したとの衝撃の死亡理由でした。

多分、仕事の関連(ヤ○○系?)でトラブルがあったのでしょう。深くは聞けずに、ネクタイを頂いて帰宅しました。仕事やプライベートにて勝負の時には、ギャンブルが強かった宝住社長の験を担いで、形見分けのネクタイを締めさせてもらいました。

社長の死亡の後、会社は解散、その後は連絡する手段もなくなり、学生時代の若い大脳に刻み込まれた記憶だけが残っていますが、あのデザインハウスでの体験がなければ、デジタルエンジニアになることも無かっただろうし、自分でベンチャーを起業することも無かったでしょう。

ステム=Nuks。一生忘れません。出逢いに感謝です。

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