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アナログゲームとデジタルゲームは何が違うのか

はじめに、タイトルでは対比の為に「アナログゲーム」「デジタルゲーム」と書きましたが、一般的にはそれらはボードゲーム、テレビゲーム(又はコンピューターゲーム)、と言われる事が殆どでしょう。この記事では、表記を「ボードゲーム」と「コンピューターゲーム」に統一します。

バンゲームとファミコン

「ゲーム」という言葉は、日本では往年のファミコンの流行と共に一般に定着した感があって、昭和の時代にタカラ(現・タカラトミー)が一連のボードゲーム・シリーズで「バンゲーム」という言葉を流行させたとはいえ、一般的には「子供がゲームを遊んでいる」と言えば、それはボードゲームではなくコンピューターゲームを指すことが殆どでしょう。

私が子供の頃はまさに「バンゲーム」全盛から「ファミコン」全盛へと移り変わりゆく時代だったのでよく覚えているのですが、私はボードゲームとコンピューターゲームを「全く異なる、別のもの」として捉えていました。

言葉を変えれば、「ゲームしようぜ」と言えばそれはファミコンを指し、ボードゲームをする場合には「人生ゲームしようぜ」でした。同じ「ゲーム」と付いていても、人生ゲームが「ゲーム」だとは思っていなかったのです。人生ゲームを始めとしたバンゲームは「バンゲーム」という、ゲームとは異なる「遊び」でした。

そして自分が成長にするにつれて、「バンゲーム」の世界からは遠ざかっていきます。一部、モノポリーや人生ゲームで遊んだり、「マジックマスター」「ダイナマイトナース」「モンスターメーカー」といった、一部のマニアの間で流行したカードゲームを遊んだり、ジャンプの裏表紙に載っていた怪しげなゲームショップの広告で見つけた「TAKI」や「PIT」といったカードゲームを通販で購入して友達と遊んだり、TRPGにハマってソードワールドやGURPSを遊んだり、軽くMtGの世界に入ったり、といった「ボードゲームの世界」との繋がりは保ち続けていたのですが、相変わらず私はそれを「ゲーム」、つまりファミコンと同じようなカテゴリとは認識していませんでした。

ボードゲームに対しては「モノポリー遊ぼう」「ダイナマイトナース遊ぼう」というように、あくまでも個別のおもちゃとして取り扱い、他にどんなボードゲームがあるんだろう、などとは全く考えつきもしなかったのです。ブームが去って一旦それらから離れると、私の頭からは完全に「バンゲーム」や「TRPG」などのアナログゲームの世界は過去のものとして消えていきました。

ですので、大人になって改めてボードゲームの世界を教えてもらった時、私は衝撃を受けました。「コンピューターを使わなくても、こんなゲームの表現方法があったのか!」と。笑

いや、笑ってますけど、その時は本当にそう思ったのです。振り返ってみれば自分はいろんなボードゲームを遊んできているはずなのに、小さい頃はそれを「ゲーム」だとは認識していなかったので、その後いろんなコンピューターゲームを遊んで考えた「ゲームとは」みたいな自分なりのゲームの定義の中から、すっぽりとボードゲームが抜け落ちていたわけです。

前述の通り、ボードゲームを知る前の私にとって「ゲーム」とは、コンピューターゲームを指しました。最初はマリオ等の「アクションゲーム」から入っているので、私にとってのゲームとは「タイミングよくボタンを押して敵をよけたり撃ったりする遊び」でした。次にドラゴンクエストなどのコンピューターRPGを遊び、アクションゲームのように焦らずともじっくり画面のテキストを読み、自分のキャラを成長させて物語に没頭する、という遊びの世界を知りました。「倉庫番」や「フラッピー」「ロードランナー」などの、アクション的でありながらあまり時間に追われないパズルゲームも面白いと思いましたし、絵とシナリオだけで構成されたアドベンチャーゲームというジャンルもたくさん楽しみました。

まとめると、「タイミングよくボタンを押す」「ゲームから提供される問題に対して一人で考える」「長期的にストーリーや成長を楽しむ」といった、コンピューターを前提とした遊びが、「ゲーム」だと思っていたわけです。

ボードゲームに感じた「新しさ」

私がゲームだと思ってきたのはそういうコンピューターゲームの文脈のものばかりだったので、大人になってから(バンゲームではない)最新の海外ボードゲームを遊び、「えっ、こんな凄い遊びは、これまで体験したことがないぞ!?」とびっくりしました。

いったい私は、ボードゲームのどんな部分に「新しさ」を感じたかを改めて考えてみると、私がその時思ったのは、次のようなことでした。

1. ルールによって駆け引きが生まれる思考型のゲーム

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私が大人になって初めて触れたボードゲームの世界は、「カルカソンヌ」でした。カルカソンヌとは、正方形のタイルを隣接させて置いていき、タイルに描かれた道や城を繋げて得点していくゲームです。タイルを置く際に自分の「手下駒」を道や草原の上に置く事が出来るのですが、ここに大きな駆けひきがあり、奥深いゲームにしています。

実は、私がカルカソンヌを「ボードゲームのひとつ」として紹介された時、頭の中にあったのは「バンゲーム」でした。バンゲームかぁ、人生ゲームとかの、ルーレット回して駒を進めていく系かな、と、ある意味侮っていたのです(決して人生ゲームが侮って良いゲームだとは思いませんが)。自分が過去に遊んでいたバンゲームは、すごろくのマスにイベントマスがあり、そこへ停まるとお金がもらえたり、他人からお金を奪えたり、というだけのシンプルな運ゲームが殆どだったからです。

ところが、ふたを開けてみると、濃密な駆け引きと深い思考が要求される、完成度の高いゲームでした。しかもこれは伝統ゲームではなく、コンピューターゲームのように誰かが意図して作った最近のゲームです。私はその時、期待を大きく超えてきたゲームの登場に、ボードゲームを紹介してくださった方に対して「えっ・・・これ、ひょっとして凄くないですか?」と漏らしたのを覚えています。

そもそもコンピューターゲームだけを「ゲーム」だと認識していた自分にとって、ゲームというのは「操作方法を覚えたら、後はキャラクターを動かして覚えていく」ものでした。目の前に壁があったらそこから先へは動けないし、じゃあ乗り越えるか壁を壊すかどうしよう、タイミングよくジャンプすれば超えられるかな、というようなものが「ゲーム」でした。

キャラクターを思い通りに操作し、敵を倒して効果音がすれば気持ちいい、というような感じです。ゲームのルールはコンピューターが管理するもので、基本的には隠蔽されていて、プレイヤーはその隠されたルールに沿って起こった「結果」だけを意識し、ルールを意識することはあまりありません。

ところがカルカソンヌでは、そういった目に見えたり耳で聞こえたりするものよりも「ルール」が面白さの多くを占めていました。「タイル同士を隣接させなくてはならない」「道と道、城と城は繋がるように配置しなくてはならない」……こういったルールの一つ一つが、ゲームを面白くしているのです。

一番驚いたのが次のルールです。言葉で書いて伝わるかどうかわかりませんが、「1本の道や1つの城により多くの自分の手下駒を置くと高得点」というルールなのに、「駒を置けるのは今置いたタイルの上だけ」で、しかも「既に繋がっている道や城に他の駒が置かれていたら、それ以上駒を置く事はできない」というルールがあるのです。

「え、じゃあどうやって2つ以上の駒を道や城に置くの?」とか「最初に1個自分の駒を置いたもん勝ちじゃん…」という疑問が湧かないでしょうか。しかし、既に繋がっている場合は置けないけど、ばらばらだった道や城にそれぞれ1個ずつ駒を置いた後、その道や城を後から別のタイルで繋げる事ができれば、結果的に1本の道や城の上に複数の駒を置いた状態を作り出せるのです。

いやー、痺れます。痺れるルールです。研ぎ澄まされています。

思うに、ボードゲームではルールは剥き出しで、ルールをプレイヤーが理解して実行することで初めてゲームが成立します。ですので、プレイヤーはより強くルールを意識しますし、そうする為に、ルールは可能な限りシンプルに研ぎ澄まされているのかもしれません。こういう「ルールで痺れさせる」ようなゲームを作るのに、ボードゲームは向いているということでしょう。

ともかくも私は驚きました。

思わず「こんな凄いゲームが存在したんですね。他にもこういうのがあるんですか?」と言うと、相手の方が「これはドイツでボードゲーム大賞を取っているゲームですね。ほかにもたくさんありますよ」と教えてくれて、再度驚いた記憶があります。その後、「カタン」を教えて貰ってまたびっくりするわけですが…。

2. ルールをプレイヤーが自主的に守る

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ボードゲームの面白さのひとつに「プレイヤーが自主的にルールを守らないとゲームが成り立たない」という点があります。

例えばカルカソンヌであれば、物理的には、別に道が繋がらないようにタイルを置く事もできます。しかしそれはルール違反なので、プレイヤーは自主的にそのような置き方をしませんし、もしそういう置き方をされたら他のプレイヤーが注意します。

現在ではカルカソンヌはスマホやタブレットでも遊ぶ事ができますが、それらではそもそもルールに沿った置き方以外はできないようになっています。

しかし対面で遊ぶ場合には、プレイヤーの自主性に任せられているのです。

このように、全員がルールを守ってゲームの世界が壊れないように協力するという構造が、ある種の一体感と、自分達がゲームを作り上げているという責任感のような、独特の空気や満足感を生み出します。「ルールズ・オブ・プレイ」では、これを「マジック・サークル(魔法円)」と名付けています。

ボードゲームを対面で遊んでいる時の感覚というのは、子供の頃に外で「ジャングルジム鬼ごっこ」や「けいどろ」、又は「パイナップル(階段で遊ぶじゃんけんゲーム)」などを遊んでいた時の感覚に似ている気がします。

子供の頃の外遊びも、全員で同じルールを共有して、相手の行動を考えながら自分の行動を決める。それ自体がコミュニケーションになって、勝ったり負けたりでワクワク、ドキドキして、時には負けて泣いて、最後には仲良くなれる。そんな子供の頃の外遊びの体験も、ボードゲームと同様のマジック・サークルを生み出していたのでしょう。

今では、自分自身のアバターを投影した世界で遠隔地の友達と一緒に遊べるネットワークゲームが発達しており、お手軽に似たような感覚を得る事もできるようになりましたが、現状の技術では、ネットワーク越しと直接での対面では受け取る情報量が大きく違う為、対面と同じような濃密な空気感を生み出すまでは到達していないような印象があります。

3. ユーザーインタフェースとしてのコンポーネント

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カルカソンヌにおいて、「道と道を繋げる」というルールは、タイルの形状やそこに描かれた道のイラストによって規定されています。タイルをずらして置くと道が繋がりませんし、隣接させて置かないと、置く位置が定まりません。

コンピューターゲームならばそれらは自動的に「制限」されたり「誘導」されたりして操作されるものですが、ボードゲームではプレイヤーに操作が全て委ねられているので、操作をしやすくする為の物理的な仕掛けが、コンポーネントに施されているのです。

また、「カタン」では、「道」を表現するのに「木の棒」を置きますし、家を建てたら実際に家の形の木の駒を置きます。家が都市になると、さらに大きな家の形の駒に置き換えます。そういった立体的な見やすさも、ゲームを理解する大きな助けになりました。

個人的にはそれらに新鮮な驚きを感じましたし、何よりもそういうデザインをされたコンポーネントを触ること自体に喜びがありました。

コンピューターゲームで言えば、新型ゲーム機のコントローラーを手にもった時に「なるほど~、人差し指でトリガーを引きやすくなってる~」的な感覚でしょうか。そういった、「なるほど!」と思えるデザインが多くのゲームに施されていて、新しいボードゲームを遊ぶ度に唸らされます。

ゲーム毎に専用のコンポーネントを作るというボードゲームの世界は、モニターに映し出された映像とコントローラーが主なユーザーインタフェースだったコンピューターゲームとの大きな違いのひとつだと思います。

コンピューターゲームが得意なこと

ここまでは主に、私自身がどのようにコンピューターゲームの世界だけを「ゲーム」として認識し、それがボードゲームによって拡がったかを語ってきました。

これを踏まえた上で、今度は異なる視点からコンピューターゲームとボードゲームの違いを見ていきます。よく言われる事ですが、「コンピューターゲームと違ってボードゲームはこんなに素晴らしい」という語り方は、あまり良くありません。大抵のボードゲーム好きはコンピューターゲームも大好きだからです。

そうではなく、コンピューターゲームとボードゲームにはそれぞれ得意分野があり、その事によって違いが生じてくる、と私は考えています。ボードゲームの「新しさ」は既に語りましたので、今度はコンピューターゲームについて改めて考えましょう。

コンピュータゲームは、ボードゲームでは実現しにくい以下の有利な特徴を持っていると思います。

1. 自動運転(自動計算)
2. ランダマイザの隠蔽

1. 自動運転

コンピュータゲームで多くのアクションゲームが成り立つのはこれのおかげであり、敵キャラクターが自動的に歩いてこっちへ向かってくるからこそ、「避ける」という動作に難易度が発生してきます。ボードゲームでこれを表現しようとすると困難でしょう。スポーツゲームがコンピュータゲームでは多く傑作があるのに、ボードゲームではあまり見かけないのはこの為だろうと思われます。

また、大量のステータスを計算し、管理しようとすると、ボードゲームでは手に負えなくなりますが、これも自動的に計算できるコンピュータなら、いくらでも複雑にすることができます。コンピュータRPGと言われるジャンルは、この点で大元のボードゲーム・RPGを凌駕しています。

「ゼルダの伝説 ブレイスオブザワイルド」で、風が吹き始めて曇ってきたら、そのうち雨が降ったり雷が鳴ったりといった処理までならひょっとするとボードゲームでも処理できたかもしれませんが、雷が鳴ったら金属製の防具には雷が落ちますとか、熱い地域に入ったら熱さガード効果がないと一定時間ごとに体力を失いますとか、そういう処理を全部ボードゲームで表現していったら、とても遊べたものではなくなるでしょう。

2. ランダマイザの隠蔽

ランダマイザの隠蔽とは、「カードをめくったら、何がどういう確率で出るのかという仕組みが非公開である」ということです。普通のボードゲームであれば、山札の中にどのカードが何枚入っているかは事前に公開されています。ゲームによってはルールブックにあらかじめ記載されていたりしますし、ゲームを始める前に「〇〇のカードは山札に何枚入っているの?」と聞くプレイヤーもいるでしょう(それがゲームを有利に進める為に重要だからです)。

しかし、コンピューターゲームの場合、それらの情報は隠蔽されている事が多く、実際にプレイしてみないと何が起こるかわかりません。敵を倒すとどういうアイテムが落ちるのか、プレイして初めて分かります。スパ帝さんは「ボードゲームの楽しみ」という記事で「ルールが透明ではない」という表現をされていますが、逆に言うと、ルールを隠蔽できる、と言い換えることができるでしょう。

もちろん、コンピューターゲームであってもこれらの情報を公開することもできるし、実際にそうしているゲームもあるでしょう。しかし、「隠蔽することができる」というのが大事で、それによりプレイヤーに驚きを与えることができる為、その驚きを膨らませて「ストーリー」を形作ることができるのです。「ここで○○を使用すると、なんと新しい道が出現した!」なんてのは、ボードゲームでは実現が困難です。そんなのはセットアップ時に見えてしまうからです。

最近は、イベントカードを「封入」した状態で遊ばせて、イベントカードを適切なタイミングで上から順番にめくっていかせたり、カードに番号を振って「〇〇番のカードを参照」とさせてその効果を適用させたりすることで、ストーリーを表現するボードゲームもありますが、コンピューターゲームの方がそのあたりは得意分野です。

特徴を活かした「違い」

コンピュータゲームでは、上記の特徴を利用して、「一人でも遊べる」ようになっている事も多いです。ネットワークが発達していなかった頃はむしろコンピューターゲームと言えば一人用が殆どでした。

ボードゲームでもソロプレイ可能なゲームはありますが、自分で準備して自分で解く、という形にどうしてもなってしまうので、コンピュータゲームのように、勝手にゲームを準備してくれて、しかも驚きを与えてくれるようなものは「一人プレイゲーム」には好都合と言えます。

このように、コンピューターゲームとボードゲームにはそれぞれの特性からくる「違い」があります。

よく、「ボードゲームはコンピュータゲームと違ってこんな面白いゲームが」という文脈で、ボードゲームのメカニクスやルールが秀逸である事、対面で複数人で遊べる事が語られることがあります。

しかしそもそも、コンピューターゲームでは前述のような「利点」を生かすゲームが多いというだけであって、コンピュータゲームでもボードゲームのようなメカニクスやルールが秀逸なゲームは普通に作れます

実際、タブレットやスマホでボードゲームのアプリがわんさか出ていますし、Board Game ArenaやBSW、Yucataなど、ボードゲーム専門のネットワーク対戦サイトも賑わっています。

ただ、ボードゲームというのは基本的に対人戦が面白いものが多いのですが(ソロプレイゲームが作りにくい理由は上述の通り)、コンピュータゲーム化すると手札などの隠蔽情報を表現するには同じ部屋で同じデバイスで複数人で遊ぶというのはやりづらく、それはAI戦かネット対戦ゲームという形をとることになります。

AI戦は少し味気なく、ネット対戦ゲームにするにはまだまだプレイ人口も少ない上に、得られる体験も対面より劣る、ということになってしまいがちで、そういった面からコンピュータゲームでボードゲームを表現するというのは、まだまだ大きなメインストリームになりづらいのだと思います(最近、「世界のアソビ大全」のようなゲームも出始めたので、期待ですが、伝統ゲームが多い為ほとんど2人用です)。

コンピューターの表現方法はどんどん進歩してはいますが、視覚・聴覚だけでなく、触覚や嗅覚まで完全に再現するにはまだまだ足りず、おそらくこの先も当面の間は「直接対面して遊ぶ」雰囲気まではそう簡単には醸し出せないとは思います。

まとめ

以上のように、コンピュータゲームにはコンピュータゲームの利点を生かした、ボードゲームにはボードゲームの利点を生かした、それぞれのゲームの作り方があり、良さがあるのだろう、と思います。

各々の違いを簡単にまとめると、次のような感じになるでしょうか。

ボードゲーム
★シンプルなルールが生み出す濃密な駆け引き(インタラクション)
★全員で協力してルールを守る事で生まれる「マジック・サークル」の満足感。
★物理的なコンポーネントによる「道具」としての面白さ。
コンピューターゲーム
★自動運転による自律的な表現と、そこから生まれる一人用ゲームの作りやすさ。
★自動処理による煩雑さの隠蔽。
★ランダマイザの隠蔽による「驚き」や「ストーリー」の表現。

尚、ここに書かれているもの全てを満たさなければボードゲームじゃない、なんてことはありませんし、ボードゲームならではの面白さ、コンピューターゲームならではの面白さは、ここに書かれているものだけではないでしょう。

また、前述の通り、ボードゲームの持つ特徴は、技術の進歩によって「コンピューターゲーム」でも十分表現可能なものになっていくかもしれません。

また逆に、ボードゲームデザイナーの第一人者であるライナー・クニツィア博士によれば、「これからのボードゲームは、電子的なデバイスと融合していくかもしれない」とのことです。例えば2012年のドイツ年間ゲーム大賞の子供部門には「フビを捕まえろ」が選ばれており、これは電池で動く音声デバイスを主軸にしたゲームです。クニツィア氏自身も、今後そういうゲームを作りたいと考えている、と語っていますが、実際、最近になってちょくちょく「スマホが必要」なボードゲームも出始めています(クニツィア自身はあまりそういうゲームを作っている印象はありませんが…)。

コンピュータゲームとボードゲーム、どちらが優れているという話に意味はありませんが、それぞれの利点をお互いのフィールドでも活用できるのではないか、という話は、もっともっとされて良いと思います。

追記

この記事を書いて思った事を別の短い記事にしました。ご興味ありましたら併せてどうぞ。


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