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織田信長と桶狭間の戦い(後編) 【歴史奉行通信】第九十一号

こんばんは。伊東潤です。

皆さん、いかがお過ごしですか。
緊急事態宣言も延長される見込みで(5月末時点)、世の中にはコロナ疲れが蔓延していますね。
それでも今は我慢の時です。頑張りましょう。


今回は前回に引き続き、「織田信長と桶狭間の戦い」の後編をお送りします。
前回同様、地図を参照しながらお読み下さい。


尾張・三河国境の城郭群

桶狭間周辺図



前回配信の前編はこちらからお読みになれます(*一部有料)
【歴史奉行通信】第九十号 
織田信長と桶狭間の戦い(前編)


〓〓今週の歴史奉行通信目次〓〓〓〓〓〓〓


1.織田信長と桶狭間の戦い(後編)
ー織田軍の指揮と統率(リーダーシップ)、
団結、規律、士気、情報、兵站

2. 織田信長と桶狭間の戦い(後編)
ー桶狭間の戦い

3. 織田信長と桶狭間の戦い(後編)
ー桶狭間の戦いの教訓

4. Q&Aコーナー / 感想のお願い

5. お知らせ奉行通信
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1.織田信長と桶狭間の戦い(後編)
ー織田軍の指揮と統率(リーダーシップ)、
団結、規律、士気、情報、兵站

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■織田軍の指揮と統率(リーダーシップ)、
団結、規律、士気、情報、兵站

信長の軍略は、前半生(美濃制圧まで)と後半生では異なる。
稲生の戦い、村木砦の戦い、桶狭間の戦いでは、自軍が兵力的に劣勢であるにもかかわらず、若者たちのモチベーションの高さを頼みとした戦い方で窮地を脱した。その一方、兵力優勢となる後半生の戦い方は、兵力に物を言わせた横綱相撲となる。

前半生の信長は、少年時代から行を共にしてきた子飼いの家臣たちを、戦の原動力とせざるを得なかったと思われる。
というのも国衆は信長の力量を見極められず、日和見を決め込んでいた形跡があるからだ。

桶狭間の戦いでも、地元の有力国衆の水野信元の名が記録や軍記物に出てこない。
また近隣の国衆の簗田政綱が戦後に「功第一」とされ、沓掛城と三千貫文の恩賞を賜ったが、これなどは肚を決めて味方してくれた国衆に報い、
それによってほかの国衆にも、「働けば報われる」ことを示そうとしたのではないだろうか。

さらに村木砦での戦いでは、信長は陣頭指揮を執っただけでなく、自ら最前線に出て鉄砲を撃つまでした上、
戦後、殊勲を挙げた者たちの名を皆の前で読み上げ、その武勲を称揚している。
討ち死にした者の縁者には、相応の恩賞が下されたのだろう。
どうすれば配下の者たちの心を摑んで士気を高めていけるかを、信長はよく知っていた。
こうしたことから士気と団結力の面で、織田勢が今川勢をはるかに上回っていたことは間違いない。


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2. 織田信長と桶狭間の戦い(前編)
ー桶狭間の戦い

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■桶狭間の戦い

清須城を出た信長が熱田に着く前の十九日の午前八時頃、大高城の付城の鷲津・丸根の両砦が落ちたという一報が届く。
正光寺・向山・氷上山の三砦は記録に出てこないが、すでに自落し、その部隊は鷲津・丸根の両砦に合流していたと見るべきだろう。

この一報を受けた信長は、それでも熱田を出陣して丹下砦に入った。
しかし、ここで兵を引くことも選択肢の一つだった。
というのも、この頃の尾張国南部には、信長によって三重の防衛線が構築されていたからだ。

鷲津・丸根両砦の北方には、島田・笠寺・星崎の三城が第一防衛線を成しており、
仮にそこを突破されて熱田を制圧されても、末森・御器所(ごきそ)・古渡(ふるわたり)の三城による第二防衛線がある。
さらにそこを突破されても、那古野城による第三防衛線があるので、今川方が清須城(信長の本拠)の攻撃に至るまでには、相当の損害を覚悟せねばならない。
もしも信長以外の武将なら、今川勢をいなしながら城郭網を使った漸減作戦を展開していたに違いない。

それでも信長が「前に出た」理由を考えると、「退きながら戦う」よりも、自軍の強みである突進力を生かした戦い方の方に勝機を見出していたからだろう。
その後、信長が丹下砦で後続する自軍が到着するのを待っていると、二千ほどの兵が集まり、曲がりなりにも戦う態勢が整った。

一方、午前十時に沓掛城を発した義元は、正午頃には漆山に陣を布き、
今川勢の先手部隊を中島砦の東、善照寺砦の南東にあたる有松北丘陵の西端部まで進出させた。

同じ頃、松平元康らは大高城を打通すべく、鷲津・丸根両砦を攻撃している。
同時に服部党は大高城に兵糧を運び入れ、いったん沖合に退避した。
つまり義元率いる今川方主力勢は鳴海城と大高城の間に入り、信長の救援が大高城に及ばないようにしたのだ。
これは見事に図にあたり、義元は最初の作戦目標である大高城の打通と兵糧搬入を成功させる。

不思議なのは、この後、義元が漆山を後にして鳴海道を東に向かい、鎌研で南に折れて標高六十一・九メートルの桶狭間山に向かったことだ。
おそらく松平元康らによって大高城が打通できたことで一安心し、態勢を整え直して鳴海城の打通に向かおうとしたのではないか。
ないしはこの一帯の危険性に気づき、ひとまず退却しようとしたのかもしれない。

この一報を受けた信長は、丹下砦から引き返さず昼前に善照寺砦に入った。「兵を引く」という義元の消極性に勝機を見出したのだろう。

一方、信長が善照寺砦まで来たことを知った中島砦の佐々政次と千秋季忠ら三百は、善照寺砦にいる信長主力勢の露払いに出陣した。
これにより桶狭間の戦いの幕が切って落とされる。

ところが佐々と千秋の部隊は、討ち死に五十名ほどを出して瞬く間に壊滅してしまう(二人も戦死)。
おそらく信長は彼らに後続するつもりでいたのだろう。しかし今川方はこの一帯に五千もの兵を注ぎ込んでいたので、三百の兵など物の数ではなかったのだ。

この戦いを、桶狭間山の途次にある高根山の峠で見ていた義元は、謡を三番も謡ったという。
すなわち緒戦の圧勝で、今川方に油断と慢心という魔物が蔓延したのだ。
「勝って兜の緒を締めよ」とはよく言ったもので、緒戦の勝利は味方を勢い付けさせる代わりに油断と慢心を生む。
義元は桶狭間山に着いた後、酒宴を張ったというのだから恐れ入る。

一方、信長は緒戦の完敗にもめげず、扇川を渡河して中島砦に入った。まさに背水の陣である。
緒戦で完敗を喫したにもかかわらず積極策を取るのはセオリーを無視している。
そのため佐々・千秋両勢は、今川方を油断させるための犠牲にされたという説まである。
つまり信長が彼らに後続しなかったのは策略だというのだ。

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