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アンフィニッシュト 35-1

 岡田が「ぼくは、まだ大丈夫です」と言うので、琢磨が先に仮眠を取ることにした。だが座ったところで、容易に眠れるものではない。
 それでも目をつぶっていると、夢とうつつの間をさまよっているのか、様々な思いが頭の中を駆けめぐる。
 中でも繰り返し、桜井の面影が脳裏に明滅する。暗がりの中、琢磨の腕の中で悶えていたしなやかな肢体が、幾度もフラッシュバックしてくるのだ。
 ――もう二度と会えないのか。
 琢磨は運命に絡め取られるようにして、桜井と出会い、そして別れを迎えた。
 北朝鮮に抑留されてしまうようなことにでもなれば、二度と会えないかもしれない。
 ――あの体が別の男の物になるのか。
 それを思うと、居たたまれなくなる。
 ――どこにも行きたくない。このまま日本に帰りたい。
 嫉妬を通り越した恐怖に近い感情が、琢磨の脳裏を占める。
 思わず琢磨は、嗚咽を漏らしそうになった。
その時である。「殺せ。殺すならさっさと殺せ!」という叫び声が聞こえた。
 反射的に立ち上がると、中ほどにいた乗客の一人が、柴本の胸倉を摑んでいるではないか。
 ――いかん!
 琢磨が駆け付けるより少し早く、前方から中田が走ってくると、「静かにしろ!」と叫び、乗客の頭を短刀の柄で殴りつけた。たちまちどよめきが起こり、機内が混乱に陥る。中には、怒号を発して制止しようとする者もいる。
それに刺激されたのか、中田が再び短刀を振り上げる。頭を押さえて座席に倒れ込んだ乗客を、再び打とうというのだ。
「よせ!」
琢磨が中田の右手首を摑む。
「放せ!」
 中田は抵抗するが、琢磨は柔道技を使って中田の動きを封じた。
「この野郎!」
「いいから、そいつを下ろせ」
「お前はどっちの味方だ」
「どっちの味方、だと――」
 琢磨が言葉に詰まる。
「お前は、ポリ公にでもなったつもりでいるのか!」
 中田が琢磨の方に向き直る。
「いつも俺たちを監視しているような目つきをしやがって。お前らは何様のつもりだ」
 中田が憎悪の籠った眼差しを向けてくる。その視線は同志ではなく、敵を見るものだった。
「何をやっている!」
 ようやく田丸が来て、その場を収めたが、中田はその間、ずっと琢磨に視線を据えていた。
 ――気を付けねば。
 皆、長時間にわたる緊張状態に置かれているため、神経が鋭敏になっている。中田が琢磨に対して不機嫌なのは、琢磨の態度がハイジャックの成功よりも、乗客の安全を第一に考えているように見えるからに違いない。
 ――きっと俺の目の動きだ。
 琢磨は、無意識のうちに警察官特有の目をしていたのかもしれない。中田はそんなことを知らないはずだが、直感的に、ほかのメンバーとは違うものを感じたのだ。
 ――だが、さっき中田は「お前ら」と言ったな。
 つまり岡田も、琢磨と同じような目をしていたことになる。
 ――中田は、俺たちが後方にいるから全体を監視しているように感じたのか。
 岡田のお陰で、それ以上の追及は避けられたが、これから琢磨は、目つきにだけは気を付けようと思った。
 しかしこの一件から分かったのは、忍耐が限界に来ているのはメンバーだけではないということだ。乗客も気が立ってきており、不測の事態を招きかねない。
 乗客を見渡しながら、田丸が大声で告げる。
「現在、われわれは日韓両政府と交渉中です。それは間もなく終わります。それまで辛抱していて下さい。騒ぎを起こせば、また縛ります。どうかご静粛に!」
 琢磨が後方の配置に戻ると、岡田が心配そうな顔で近づいてきた。
「大丈夫ですか」
「ああ、問題ない」
「中田さんと中野さんは、そりが合わないようですね」
「まあ、そうだな」
「もしかしたら中田さんは、中野さんの中に自分を見ているのでは」
「どういうことだ」
 岡田がにやりとする。
「危険な相手だと分かるのですよ」
 琢磨は何も答えなかったが、確かに中田は、琢磨の中に武道家の臭いをかぎ取っているのかもしれない。琢磨が柔道経験者であることは、赤城を通じて田丸や中田にも伝わっているはずだが、それだけではない何かを感じているのかもしれない。
 琢磨は、これまで以上に自分の言動に気を付けねばならないと思った。

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