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アンフィニッシュト7-1

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 五月になった。入学式から一カ月ほどが経ち、琢磨の大学生生活も軌道に乗り始めていた。

 雄志院大学のある山手に近い打越という小さな町に下宿を借りた琢磨は、元町の新聞配達店の貼り紙を見て、そのバイトを始めた。

 新聞配達は、体を鍛えると同時に雄志院大学近辺の地理に精通することにつながる。つまり仕事上も役に立つ。バイト料は微々たるものだが、すべて懐に収めることができるので、実に助かる。

 琢磨のような潜入捜査官は、今の生活費のほかに、二年目の警察官の五倍ほどの給料をもらえる。だが、口座からは一銭も引き出せないので、この仕事が終わるまで貯まるに任せるしかない。それでも、その一部を実家に仕送りという形で、現金書留にして送ってもらっている。こうすれば琢磨の仕事について、故郷の両親から疑念を持たれることはないからだ。

 給料明細も見ることはできないが、国家のやっていることなので信じるしかない。横山からは、一年に一度くらいなら、何らかの形で郵送することもできると言われているが、それが証拠となってしまう可能性もあるので、一切を信じて任せることにした。

 むろん琢磨は、大学の授業料を支払うこともない。大学上層部に琢磨の素性を知っている人間がおり、万事うまくやってくれているらしい。だが、それが誰で、どのような立場の人間かは知る由もない。

 琢磨は毎朝、三時半に起きて販売店に入り、担当する町内へ新聞を配達すると、大学に行って授業を受ける日々を送った。警察学校での厳しい訓練の結果、何日か眠らなくても耐えられるようになったが、さすがに午後は、こくりこくりしてしまう。それから夕刊を配達し、銭湯に行き、ようやく自炊である。そのため夕飯は午後八時から九時という遅さである。

 テレビなど持っていない琢磨の楽しみは、読書とラジオくらいだった。横山から渡されたラジオは、ナショナル製のDX-410型という中波専用モデルで、値段は五千円ほどする。今の生活には分不相応な気もしたが、情報を即時に入手するために必要らしく、横山からは「大学入学のお祝いで、金持ちの叔父さんからもらったことにしておけ」と言われていた。確かにラジオの情報は、緊急時に頼りになる。

 だが琢磨が夜になってから聴くのは、宍戸錠の人生相談や「パンチ三人娘」の他愛ないおしゃべり番組から、「オールナイトニッポン」や「セイ! ヤング」といった若者向け放送だった。若者の話題に合わせるために深夜放送を聴いておこうと思ったのだが、今では唯一の楽しみになっていた。もちろん昼間の疲れから寝入ってしまい、ろくに聴けていないのだが。

 これまでラジオと言えば、年寄り向けの番組ばかりやるものと思っていたが、最近は様変わりしつつあるらしい。

 こうした深夜帯のラジオ番組は、「ですます」調の言葉を使わず、二十代後半とおぼしき放送局員が、若者と同じ目線で語り掛けてくれるので、聴き入ってしまうことが、しばしばあった。

 そうした日々を送りながらも、琢磨は薄青色のワンピースの女性のことが気になって仕方がなかった。

 ――何を読み、何を考え、どうして統学連に入ったのか。

 それに、さしたる理由はないのかもしれない。またその逆に、考えに考えた末、学生運動に身を投じたのかもしれない。

 だが琢磨は、統学連とは距離を取ったままだった。横山によると、入学早々、ほいほいと加入する者は潜入捜査官だと疑われることがあるので、あえて距離を取り、六月か七月に入ればよいとアドバイスされていた。むろん入り方も工夫せねばならないが、それは「適時、自己判断で行え」とのことである。

 それを聞いた時、琢磨は「冗談ではない」と思った。半年間にわたる警察学校の教養課程と三カ月の公安担当向け教育、いわゆる「公安専科教養講習」に、横山から直接、教わったものだけが、公安としての琢磨が持つ知識のすべてである。それだけでも心許ないのに、「適時、自己判断で行え」などと突き放されると、本当に心細くなる。相手は、命を捨てても世界革命を実現させようとしている連中なのだ。

 ――だが、それをやらねばならない。

 琢磨は最初の難関をいかにクリアするかで、その後の仕事の収穫が左右されると感じた。


 五月中旬のことである。一緒に講義に出ていた友人たちから誘いを受け、昼食を共にすることにした。

 こうした誘いを受けた場合、距離を取り過ぎていると逆に疑いを持たれることにもなりかねない。深く付き合わず、たまに飯を共にするくらいの距離を保つのがコツだ。

 そのグループの中にいる玉井勝也(たまい・かつや)という男は、もったいぶった調子で、さも分かったような話をする。

「昨今のノンセクト・ラジカルの増加は、学生運動を敷衍させるどころか素人化させている。このまま行けば運動は過激化の一途をたどり、警察も実力行使に出てくる」

 玉井は福岡の地方財閥の息子らしいが、その言葉の端々からは自信や余裕が感じられる。

 ――坊っちゃん育ちめ。

 琢磨とて、極端に貧しい家庭で育ったわけではないが、大金持ちの子弟は皆、自分中心に地球が回っているような口調になるので、すぐに見分けがつく。

「ではどうする」

 友人の一人が問う。

「もっと慎重に事を運ばないと、政府も対話のテーブルには着かないはずだ」

「元々、政府は学生など相手にしていないだろう」

「そんなことはない。昨年十月の国際反戦デーや、今年の正月の東大安田講堂事件で火炎瓶などを投げるから、政府も硬化するんだ。また、日大でバリケード封鎖解除に乗り出した機動隊員に投石して一人が死んだろう。先月にも、岡山大学で投石によって機動隊員一人を殺している。これでは政府も怒るのが当たり前だ」

「玉井、また、やっているのか」

 その時、トレーに載せたライスカレーの匂いを漂わせつつ、初めて見る男がやってきた。

「おう、石山か。久しぶりだな」

 空いている席に座った男を、玉井が皆に紹介する。

「政治経済学部の石山直人(いしやま・なおと)だ。俺と同じ高校の出だが、こいつは、俺と違って学業優秀なので現役でここに入った」

「そんなことはない。早慶を滑って、致し方なくここに来たんだ。うちは、おたくほど経済的に余裕はないからな。親父(おやじ)は浪人などさせてくれんとさ」

 その丸眼鏡の男は、悠然とカレーを食べ始めた。落ち着いているのは、彼が二回生だからに違いない。

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