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アンフィニッシュト14-2

 その後、寺島は象牙のライターを持って聞き込みを続けたが、なかなか手掛かりは摑めなかった。

 どうしようかと途方に暮れていると、署内の愛煙家から「こうしたヴィンテージ・ライターやオールドジッポーを使い続けるには、メンテナンスが必要だよ」と教えられた。

 とくにこうしたノーブランド品は、香港や上海辺りで造られたに違いなく、定期的に石や部品を交換しないと使い続けられないという。

 そこで修理のできるライター専門店に電話をかけてみたところ、二軒目で「見覚えがある」という店主に突き当たった。

 アポイントを取り、店主に会ってそのライターを見せると、店主は「ああ、これだね」と言って預かり伝票を出してくれた。

 ところが、そこに書かれた住所は増田屋でも末吉でもない上、その名は、聞き込みの記録にないものだった。

 ――石山直人、か。

 そのライターが石山のものとは確定できないが、寺島はその住所に行ってみることにした。

 商店街から外れたそのアパートは、下町によくある二階建ての古臭いものだった。

 ――簡宿よりはましだが、まあ、似たような境涯にあったということだな。

 そのくすんだ外壁には、長年の風雪に耐えてきた建物だけが持つ独特の風格が漂っていた。

「随分と古そうですね」

「これでも昭和五十三年築ですよ」

 初老の大家が答える。本人は身だしなみのつもりだろうが、頭に付けた安ポマードの臭いが鼻につく。

 ――昭和五十三年、つまり一九七八年か。

 寺島は頭の中で西暦に直した。

 ――ということは、築三十七年だな。

 このアパートが、自分が生まれる十年ほど前に建てられたことには何の感慨もないが、その劣化の速さには驚かされる。

「鶴見辺りでは、こんなの珍しくないんですよ」

 大家が弁解がましく言う。

 横浜市鶴見区生麦を少しでも知っている人間には、その言葉は説得力がある。

 実家のある上大岡から新子安の中高一貫校に通っていた寺島は、隣接する生麦のことも多少は知っていた。そこに住む同年代の少年や少女たちは、寺島たちから見たら時代遅れとしか思えないようなリ茶髪やブリーチで金髪に見せかけた髪形をし、いつも何かに反抗するような視線をしていた。それは、まさに時代から取り残された別世界の住人たちだった。

 ――でも、あいつらは何かに反抗していたわけではない。

 彼らは何かに反抗したいのだが、それが何か分からなかったのだ。

 ――だから彼らは、外見だけでも反抗しようとしていた。だが中学や高校を卒業すれば、次第に反抗的な姿勢や外見は影を潜め、やがて体制の末端に組み込まれ、なけなしの日銭を稼ぐことになる。

 それを考えれば、かつて学生運動に邁進していた大学生たちは幸せだった。

 ――彼らは、何に対して、どう反抗すればいいか知っていた。

 だが、彼らの行ったデモなどは体制への甘えであり、本気で反抗しようとした者は、ごくわずかだった。

 ――そいつらが東大に籠城し、ハイジャックをして北朝鮮に渡り、占拠した山荘から銃弾を放ったのだ。

「あの、中に入りますよね」

 大家に声を掛けられ、物思いにふけっていた寺島はわれに返った。

「もちろんです。このアパートは、全部で六部屋ですか」

「はい。一階に三、二階に三の六部屋です。今入っている店子は三人ですけどね」

 その言葉から、大家が消防法に抵触していることを危惧しているのは明らかである。

 ――一般人にとっては、警察も消防も境目がないのだ。

階段の手すりに、「空室有」という選挙ポスター大の木製の看板が、針金で取り付けられている。相当古びているので、随分と前に付けられたと分かる。

「最近は、こんなところに入居する人は少ないんですよ」

 大家と一緒に鉄製の階段を上ると、けたたましい音がする。

 ――これでは眠れないな。

 二階の最も奥まった部屋の前に立ち止まると、大家はじゃらじゃらと音を立てて鍵を取り出した。

「ここが石山さんの部屋です。もう四カ月も家賃を滞納しているんですよ。どこに行ったんだろうね。だいたい家賃を滞納して逃げ出すのは低所得者ばかりなので、こういう安アパートをやってる私らは、おまんまの食い上げですよ」

 何度か差しては抜いてを繰り返した末、ようやく鍵が見つかり、大家がドアを開ける。

 生活臭が鼻をつく。それは衣類から発せられるカビ臭いもので、調理油など台所周りの臭いではない。

 ――自炊はしていなかったのだな。

 食用油の臭いはしない上、外食中心だったのか、腐った食物の饐(す)えた臭いも漂ってはいない。

 コンクリート剝き出しの三和土(たたき)に靴を脱いで上がり、居間に入ると、衣類や新聞雑誌類が足の踏み場もないほど散らかっていた。

「随分と散らかっているな。これは夜逃げじゃないな」

 大家が顔をしかめる。

 小さな机の上には、読みかけの本や雑誌が乱雑に置かれ、灰皿には吸いさしが二本ほど残り、吸い殻が山盛りになっている。

 ――夜逃げだとしたら、よほど急いでいたのだな。もしくは突然、思い立ったのか。

 だが、何事にも思い込みは禁物だと、寺島は自分を戒めた。

「石山さんを最後に見かけたのは、半年ぐらい前でしたよね」

「そうそう。かれこれ半年は経ってるね」

「それで石山さんは、象牙のライターで煙草を吸っていたんですね」

「そうですよ。私も愛煙家なんで、入居した時に一緒に吸ったから、よく覚えています。ライターを褒めたら、うれしそうに『親父(おやじ)の形見』だと言ってたね。何やら故郷とは音信不通らしいけど」

「そうでしたか。それは、これですか」

 寺島がビニール袋に入れたままのライターを見せる。

「どうだったかね」

 そう言いながら、大家は焼け痕の生々しいライターを眺め回した。

「うん、これだ。見覚えがある」

「ありがとうございます」

 象牙のライターから、ようやく石山直人という一人の男が浮かび上がったが、石山は増田屋と末吉の宿泊客ではなく、生麦のアパートで一人暮らしをしている人間だった。

 石山は増田屋か末吉に部屋を借りていたのか、そこにに泊まっていた誰かが、石山からライターを盗んだのか、石山はどこへ消えたのかなどの疑問が、次々とわいてくる。

「二階には三部屋あると聞きましたが、住んでいたのは石山さんだけですね」

「そうなんです。皆さん便利な下に住みたがりますからね。火事になった時も逃げやすいし」

 大家が銀歯を見せて笑う。

「ほかの二人の店子さんは――」

「一人は韓国人の男性。鶴見駅前の焼肉屋に勤めています。真面目な方ですよ」

「ということは、家賃は払っているんですね」

「はい。きちんと払ってくれていますよ。家賃を踏み倒すのは、たいてい日本人なんです。われわれや警察をなめきってるからね。おっとこれは失礼」

「もう一人は――」

「塾の講師らしいんだけど、変わりもんでね。勤めに行っているかどうかも分からないんだが、不思議と家賃は滞納しないんだ。まあ、ありがたいと思わなきゃね」

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