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アンフィニッシュト 2-1

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 焼死の場合、当然、死者の特定が難しくなる。「ある程度」の焼死体なら、歯型や身に付けている時計や金属製のアクセサリーなどで特定もできるが、「ある程度」でない場合、科学捜査研究所で綿密な調査が行われ、血液やDNAが採取保存される。

 野崎が険しい顔で言った。

「増田屋の宿泊者は六十人ほどだったという。末吉の方も名簿は焼けたが、親父が十四人という宿泊者数を覚えていた。言うまでもなく、すべて男性だ」

 ——随分と泊まっていたのだな。

 双方で七十四人という宿泊者数にも驚いたが、宿泊者が増田屋に偏っているのも意外である。

 こうした簡宿は、口コミで「風呂が広い」とか「トイレがきれい」といった噂が立つと、それだけで人が吸い寄せられてくる。だがこの二棟の場合、所有者が同じなので、増田屋に収容しきれなかった客を末吉に入れていたと考えられる。

 消火活動が終わったらしく、オレンジ色の服を着た一団が、ぞろぞろと出てきた。

「渋井さん、よろしいですか」

すかさず野崎が、消防隊の大隊長らしき人物に声を掛けた。

「ああ、野崎さんか」

 渋井と呼ばれた消防士と野崎が立ち話を始めた。少し離れて立つ寺島の耳にも、渋井の声が聞こえてきた。

「火の回りが早すぎる。こうした建物の火事はみんなそうだが、今回の場合は、それでも早すぎる」

 多くの簡宿は、扉はベニヤ板で、廊下にはウレタンなどの素材を使い、防火や耐火など全く考慮していない。そのため火事ともなれば、すぐに火の手が回る。

だが渋井に言わせると、それでも今回は、とくに火の回りが速いらしい。

「出火場所は」

「火の気がないはずの玄関が、最も強く燃えている」

「ということは——」

「玄関付近にガソリンか何かをぶちまけ、火をつけたのかもな」

「それじゃ、放火かもしれませんね」

 渋井が首を左右に振る。

「いかなる場合も予断は禁物だ。その判断は、おたくらに任せる」

 その言葉には、「間違いなく放火だ」というニュアンスが漂っている。しかしこの段階で、断定することはできない。

「こんなところにガソリンなどまかれたら、たまらんですな」

「ああ、中は燃えやすい素材ばかりの上、二階と三階は吹き抜けだ。簡易宿泊所にありがちな違法建築さ」

 かつて宿泊者需要が高まった時、こうした簡宿では部屋数を増やすべく、違法を覚悟で屋根裏部分を改造して三階建てにした。とくに川崎市の場合、オーナーの高齢化に伴い、違法建築物件の建て替えが進まず、警察や消防がいくら注意しても、大半は、そのまま営業を続けている。

建築基準法や市の建築基準条例では、三階建て以上の宿泊施設を建築する場合、鉄筋コンクリートなどの耐火建築物でないと許可が下りないのだが、古い時期に改築されたものは、たとえそれが違法建築でも、立ち入り検査をして警告を発する程度で、それ以上のことはできない。

すなわち、コストを極限まで切り詰めた素材といい、もうけを第一に考えた構造といい、火事に対して何ら抵抗力のない建物が、この時代にまかり通っているのだ。

 ——金のない者は、命の危険まで背負い込まされているってわけか。

 この国は、社会的立場の弱い者にとって、極めて住みにくい場所になっている。生活保護を受けるしかない人々は、三畳ほどの広さしかない簡宿の一室に押し込まれ、ただ孤独死を待つだけの生活を強いられる。それでも一人で生活ができるなら、まだましだ。中には簡宿の料金さえ支払えず、路上生活者になる者もいる。

 ——そこにあるのは絶望だけだ。

 最底辺の社会を見ることが多い警察官は、一般人以上に政府に言いたいことが山ほどある。だが国家に奉仕する身として、政府や政治に対する悪口は、酒の席でも慎まねばならない。

「おい」

「あっ、すいません」

 見るでもなく焼け跡を見ていたので、野崎に声を掛けられているのに気づかなかった。野崎が渋井と呼んでいた消防士は、すでにいなくなっている。

「考え事か」

「いえ、はい、そうです」

「ぼうっとしている暇があったら、野次馬の中に怪しい奴がいないか目星を付つけていろ」

「分かりました」

 やがて消防士と入れ違うようにして、火災班が黄色いテープをくぐって中に入っていくのが見えた。

その中の一人が野崎に合図を送った。

「ちょっと行ってくる」

 これから「掘り起こし」が始まるが、その前に所轄ががれきの撤去を行わねばならない。

 野崎は火災班らしき捜査員と話し合っている。その後ろ姿を見ながら、寺島は何とはなしに、この事件が長引く予感がした。

 ——まあ、俺は指示されて動くだけの将棋の駒だ。今から気に病んでいてどうする。

 寺島は予感を振り払い、目の前の仕事に集中することにした。

むろんこの時の寺島は、その前途に、自分の人生を変えてしまうほどの深い闇が口を開けているとは、思ってもいなかった。

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