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アンフィニッシュト 46-2

サンデー毎日(毎日新聞出版)にて2017年秋まで連載していたミステリー小説を毎週火・木にnoteにて復刻連載中。
1960年代後半の学生運動が活発だった日本を舞台に伊東潤が描くミステリー小説。

岡田は琢磨の口から煙草を取り上げると、自分で吸い始めた。どうやら煙草は、何本もあるわけではないようだ。
「日本政府がひそかに北朝鮮政府と接触し、安全を確保していたとも考えられる」
「まさか――」
 国交断絶状態の北朝鮮政府との間に、交渉ルートがあるとは考え難い。
「まあ、そのルートを握っているのは、日本政府とは限らないがな」
「どういうことだ。俺には全く分からない」
「では日本政府にとって、俺たちを北朝鮮に送り込むメリットは何だ」
「そんもんあるわけないだろう」
「いや、ある」
 自信を持って岡田が言う。
「政府は、国民の危機意識をあおって学生運動を鎮静化させられる。それだけではなく、共産主義国の恐怖を国民に植え付けられる」
「そうなれば政府は、国民の支持を高められるというわけか」
「そうだ。だが、そればかりではない」
「ほかに何がある」
 その時、岡田が後方を振り向くと言った。
「おい、何か聞こえないか」
 エンジン音が低くうめくように続いていたが、確かに、先ほどまでとは違う音が混じっている。
「つけられているぞ」
「まさか」
「交代でこれを着よう」と言うや、岡田が手早く兵士の制服に着替えた。
 続いて岡田が操縦を替わると、琢磨も手早くそれを身に着ける。
 その時、背後から波を蹴立てる音が迫ってきた。
 次の瞬間、強烈なサーチライトが照らされた。続いて「チョンジ、チョンジヘラ!」という声が聞こえた。「止まれ。止まりなさい」という意味である。
 琢磨は背筋が凍り付くような恐怖を感じたが、岡田は落ち着いている。
「何食わぬ顔でいろ。奴らがライトをこちらに向けたら敬礼だ」
 岡田が速度を落とすと、背後から近づいてきた船は並走する形になった。どうやら同型の警備艇らしい。
 サーチライトが操舵室を照らす。琢磨は反射的に敬礼した。向こうの様子は見えない。
 相手は拡声器ごしに何か言っているが、よく聞き取れない。
 岡田がエンジンを停止しようとすると、手を左右に振りながら、何かを言っている兵士の姿が見えた。
「いいから行け、と言っているぞ」
 琢磨が言葉の意味を、ようやく聞き取った。
 ――軍服が功を奏したのだ。
 もしもジャージ姿だったら、その場で捕まっていたに違いない。
「ラッキーだったな」
 岡田は敬礼すると速度を上げた。警備艇は身を翻して闇の中に消えていった。
 ――助かったか。
 琢磨は肝が縮む思いがした。

 空気が澄んでいるからか、北朝鮮では、日本で見るよりも月が明るく見える。気づくと先ほどまできらめいていた両岸の灯りも、随分と少なくなったように感じられる。
 ――朝が迫っているのだ。
 腕時計を見ると、午前三時四十分を指している。
 北朝鮮の人々の唯一の息抜きの日と言ってもいい太陽節は、徹夜で騒ぐと聞いていたが、さすがにこの時間になると、大半は寝静まるのだろう。
「きれいだな」
 琢磨がぽつりと言うと、岡田が答えた。
「ああ、日本は高度成長で豊かさを手に入れた。だが失ったものも多い」
「それが、青い空と澄んだ空気というわけか」
「ああ、日本の空は工場の煤煙(ばいえん)で覆われている。青空を見ることなどめったになかった」
 琢磨はそこまでとは思わなかったが、三年も造船会社に籍を置き、そうした日本の現実を目の当たりにしてきた岡田の目には、そう映っているのだろう。
「そんな日本に、なぜ戻りたい」と、岡田が問う。
「人さ。日本に残してきた人がいる」
 琢磨の脳裏に桜井の笑顔が浮かぶ。
「なるほどね。恋人ってわけか」
「まあ、そんなところだ」
 桜井が、琢磨のことをそこまで思っているかどうかは分からない。だが処女を与えてくれたのだ。少なくとも憎からず思っているに違いない。
「実はな、俺にも妻子がいる」
「何だと」
 琢磨は耳を疑った。メンバーの中で下から二番目の若さの岡田が、所帯持ちとは思ってもみなかった。
「あんたは、いくつなんだ」
「君より少し年上だ」
 人は見た目だけで年を判断できないことを、琢磨は思い知った。
「一時は、もう会えないと思っていた。だが少しだけ光が見えてきた」
 岡田には岡田の人生があったのだ。
「だが、まだ油断はできない」
 岡田が気を引き締めるように言う。
 海が近づいてきたのか、川幅が次第に広くなってきた。だが最大で幅一キロメートル余という大同江には、大小の島も多く、地図とにらめっこしていないと、本流から外れてしまうこともあり得る。
 琢磨は地図と磁石をにらめっこし、正しいと思われる水路を指示し続けた。
 兵士の服に着替えた時から、岡田が操舵輪を握り、琢磨が地図を見ながら指示を出すという態勢になっていたが、岡田は琢磨以上にボートの操舵に慣れていそうなので、そのまま任せることにした。
「三橋君、あれから何時間経った」
「船を出してから四時間ほどだ」
「日が出る前には海に出たいな」
 岡田が独り言のように言う。
「いつから俺の正体を知っていたんだ」
 琢磨の突然の問い掛けに、岡田がにやりとして答えた。
「最初からだよ。あんたを監視するというのも、俺に課された使命の一つだった」
「俺を監視する――、どういうことだ」
「あんたは、ぶれ始めていると聞いた。下手をすると糸の切れた凧になる。そのため、あんたが警察の内情を奴らに漏らさないよう、俺が派遣されたのさ」
「漏らしていたらどうなった」
「おい」と言って岡田が琢磨に視線を向ける。
「あんまり政府や公安を甘く見ない方がいいぜ。あんたの命を奪うことに、奴らは良心の呵責(かしゃく)など全く感じないんだからな」
「それは君もか」
「まあ、判断は俺に任されていたってことさ」
 琢磨は目の前にいる男が、自分以上に公安の中枢に近いことを知った。
「公安は人を消すことに躊躇はない。すべては国家のためだからな」
 戦後日本には、内閣調査室という形ばかりの情報機関はあったものの、CIAやKGBに匹敵するような機関を持たずに、ここまで来た。だが、それは建前にすぎず、公安の中に政権と密着した組織があり、政府直属の情報機関として、様々な活動を行っていると聞いたことがある。彼らは警察官僚と直結し、国家機密に類することについて、独自の捜査権限を持っているという。
 琢磨は国家権力のために動き回る走狗に対して、喩えようもない嫌悪を抱いた。

著者:伊東潤(Twitter公式サイト
1960年、神奈川県横浜市生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。日本アイビーエム株式会社を経た後、外資系企業のマネジメントを歴任。2003年にコンサルタントに転じて2006年に株式会社クエーサー・マネジメントを設立。2007年、『武田家滅亡』(角川書店)でメジャー・デビュー。2010年に専業作家となって今に至る。

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