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アンフィニッシュト 47-2

サンデー毎日(毎日新聞出版)にて2017年秋まで連載していたミステリー小説を毎週火・木にnoteにて復刻連載中。
1960年代後半の学生運動が活発だった日本を舞台に伊東潤が描くミステリー小説。

「岡田君――」
「分かっている」
 岡田も事務所内の動きを見つめている。
 突然、電話を持った男が、周囲にいる者に何事かを指示した。事務所内の人の動きが慌ただしくなる。
「ばれたかな」
 岡田が唇を嚙む。
 ――桟橋に残してきた兵士たちが見つけられたか、柴本が迷った末に通報したか。
 いずれにしても、警備艇を奪ったことがばれたのは明らかである。
 その時、徐々に上がっていた閘門が止まった。
「岡田君、どうする!」
「こうなれば、突っ込むしかないな」
 岡田が平然と言う。
「突っ込むのか」
 琢磨の背筋に寒気が走る。
「それ以外に、この場を逃れる術はない」
 周囲から船のエンジン音が聞こえてきた。四方から警備艇が集まってきているに違いない。
「よし、行くぞ!」と言うや、岡田が警備艇を加速し始めた。
 その時である。目の前で閘門が下がり始めた。それを見た岡田がエンジンをふかす。
 次の瞬間、弾丸のように警備艇が加速した。琢磨は転倒しそうになり、慌てて手すりにしがみついた。
 閘門が眼前に迫る。だが空いている空間は、瞬く間に狭められていく。
「おい、ぶつかるぞ」
「うおー!」
 岡田が獣のような声を上げる。
首をすくめながら、琢磨も言葉にならない雄叫びを発した。
 次の瞬間、二人の乗った警備艇は閘門の外に飛び出していた。振り向くと、操舵室の上にあった無線用アンテナが吹き飛ばされていた。
 ――ぎりぎりだったんだ。
 おそらく一メートルも余裕がなかったはずだ。
「やったな!」
「やったぞ!」
 二人は手を取り合うようにして喜んだ。
 閘門が下がったおかげで、追いかけてくる艇はない。再び閘門を上げて警備艇が追ってくるはずだが、その間にかなりの距離を稼げるはずだ。
「閘門にいた警備艇は小型だ。われわれには追いつけないだろう」
 琢磨が自分に言い聞かせるように言う。
「おそらく海洋向けの警備艇を呼び出すはずだ。でも突然のことなので、少なく見積もっても三十分はかかるだろう。その間に公海に出られる」
「どうやら帰れそうだな」
「なんとかな」
 岡田の表情も明るい。琢磨は岡田のことをもっと知りたくなった。
「さっきの話の続きだが、あんたの故郷はどこだ」
 琢磨の問いに一瞬、躊躇した後、岡田が言った。
「もう教えてもいいだろう。あんたとは長い付き合いになりそうだからな。俺は瀬戸内海に面したちっぽけな港町で生まれた」
「どうして公安になった」
「俺は中卒だ。最初は交番勤務さ」
「それで上層部に見込まれたということか」
「ああ、勤務実績もよかったし、見ての通りのベビーフェースだからな」
「あんたは、いったいいくつなんだ」
「君よりは少し年上だ。さっき妻子がいると言っただろう」
 琢磨は、それ以上のことを聞くのをやめた。時間はたっぷりあるので、これからゆっくり聞けばよいと思ったからだ。
 警備艇は全速力で南西に向かっていた。最短距離を行けば、韓国の領海に入ることができるかもしれないが、国境付近には北朝鮮の軍事基地があるはずなので、沖に向かって走り、公海に出た方が無難だと思われた。
 琢磨は海図と磁石を交互に見ながら、「今の速度だと、あと一時間ほどで公海に入る」と岡田に伝えた。
「何とか逃げ切れそうだな」
 岡田が笑みを浮かべる。
 しかし、それからしばらくして、岡田が「あれ」と言いながら減速した。
「なぜ速度を落とすんだ」
「俺が落としたんじゃない。エンジン音がおかしい。見てきてくれないか」
 琢磨が船室に下りていくと、その理由が分かった。船室のハッチを開けていたため、波しぶきが甲板を洗い、船室はくるぶしまで水に漬かっていたのだ。
 ――しまった!
 エンジンルームも水浸しである。
 ――排水方法があるはずだ。
 船室に戻った琢磨は、朝鮮語で書かれたマニュアルをめくった。
 その間もエンジンからは白煙が上がり、船室にも満ちてきた。
 ――これだ!
 もう一度、エンジンルームに潜り込んだ琢磨は、ペンライトでバルブを探り、排水を開始した。
 ――よかった。これで大丈夫だ。
 操舵室に戻ると、岡田が「どうだった」と問うてきたので、琢磨は原因を説明した。
「そうか。故障でなくてよかった。だが貴重な時間を失ってしまった」
 やがてエンジンが勢いを取り戻してきた。
 その時、背後の水平線に光が見えた。
「追ってきたぞ」
西方に瞬く灯は、さほど強い光を放ってはいないが、二つ、三つと増えていく。最後にその数は八つになった。
「どうだ。逃げきれそうか」
「この船より高性能だったら追い付かれる」
 曇天の下、追い掛けてくる船影が次第にはっきりしてきた。そのかき分ける白波さえ見える。
「追ってきているのは、海洋向けの大型警備艇だ」
 岡田が舌打ちする。
「かなり接近してきたぞ。これ以上、速く走れないのか」
「これで全速力だ」
 岡田が口惜しそうにつぶやく。
 琢磨は海図と磁石を確認しつつ、今いる位置を割り出した。
「この速度を維持できれば、三十分ほどで公海に出られる」
「だがその前に追いつかれる。たとえ公海に出たとしても、韓国の警備艇か外国船がいない限り、俺たちは捕まる」
「つまり万事休すということか」
「そうだ。だが、われわれの船影は、韓国軍のレーダーも捉えているはずだ。何をやっているのかと、警備艇を出してくれる可能性がある。それに助けを求めれば、何とかなるかもしれない」
「無線で呼んだらどうだ」
「韓国軍の周波数が分からない」
「つまり、韓国側に気づいてもらうしかないということか」
「ああ、そうだ。しかし韓国側の誰かが、われわれの交信を拾ってくれるかもしれない。とにかく無線で助けを呼ぼう」
琢磨が無線に向かって、朝鮮語で助けを求めようとすると、岡田が「その前に救難信号弾を打て」と言った。
船室のコンポーネントで信号弾を見つけた琢磨は、立て続けに空に打ち上げた。
続いて無線のマイクを持ち、朝鮮語で現在地点を連呼して助けを求めた。
その時、前方の水平線に何かが光るのが見えた。
「おい、あれは何だ!」
「韓国船か」
「いや――、あれは大型船だ。アメリカ軍の巡視艇だろう」
 二人が歓喜の声を上げる。
 だが北朝鮮の警備艇は、すぐ背後まで迫っていた。
「チョンジ、チョンジヘラ!」
 警備艇は大型スピーカーを通して、「止まれ、止まれ」と連呼してくる。いつの間にか、その距離は五十メートルほどに縮まっていた。
「アメリカの巡視艇は、なぜ近づいてきてくれないんだ!」
 琢磨が口惜しさから計器盤を叩いたが、岡田は冷静に答えた。
「米船は北朝鮮の領海に入れないんだ」
 北朝鮮の警備艇は、琢磨たちの船よりも一回りは大きい。おそらく海上警備用なのだろう。だが、それは二艇だけらしく、残る六艇は大きく遅れている。
二艇が左右に分かれて接近してきた。

著者:伊東潤(Twitter公式サイト
1960年、神奈川県横浜市生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。日本アイビーエム株式会社を経た後、外資系企業のマネジメントを歴任。2003年にコンサルタントに転じて2006年に株式会社クエーサー・マネジメントを設立。2007年、『武田家滅亡』(角川書店)でメジャー・デビュー。2010年に専業作家となって今に至る。

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