アンフィニッシュト 32-1
前方の席に座っていた田丸は、立ち上がると機内を見渡した。
――合図だ!
もはや後戻りはできない。横山が何を考えているのかは分からないが、ハイジャックは実行に移された。
メンバーが田丸に続いて立ち上がる。
――仕方がない。行くぞ!
腹に力を入れると、琢磨もそれに続いた。
前方に座っていた何人かが、コックピットの方に向かう。衝立(ついたて)のような仕切りがあって見えないが、田丸は前方のギャレー(キッチン・ルーム)に入ったようだ。その横を大西と安西がすり抜けていく。
――コックピットに向かったのだな。
琢磨から見て左側の少し前方に座っていた岡田金太郎も立ち上がると、ゆっくりとこちらに向かってくる。その顔は緊張で強張(こわば)っている。
岡田が脇を通り抜けていくのを待ってから、琢磨もそれに続いた。
最後尾のトイレ近くには、スチュワーデスが一人いた。着替えらしきものを持っているので、飲み物を出すために後方のトイレで着替えようとしているらしい。
それを無視した岡田は最後尾まで行くと、丸窓から後方の荷物用タラップを確認している。
それに続こうとした琢磨とスチュワーデスの視線が合う。
スチュワーデスは、如才なさそうな笑みを浮かべて言った。
「お先にどうぞ」
「いえ、結構です」
「何かご用でも」
「いや――、別に」
琢磨がそう答えると、スチュワーデスは軽く会釈してトイレに入った。
その頃になると、前方が騒がしくなってきた。
「中野さん」
振り向くと岡田がいた。
「始まりましたね」
「ああ」
「うまくいくでしょうか」
その言葉には、わずかだが「うまくいかないでほしい」という願いが込められているような気がした。失敗すれば逮捕はされても、北朝鮮には行かないで済む。
――皆、まだ二十代なのだ。
いかに自立しているとはいえ、親元を離れて五年も経っていない連中がほとんどである。
誰も守ってくれない未知の国に行く不安は、メンバー全員が共有しているに違いない。
――それは俺もだ。
「あの、何かご用ですか」
着替え終わったスチュワーデスが、今度は岡田に問う。琢磨と岡田が、トイレの前に突っ立っていることに不審を抱いたのだ。
前の騒ぎがいっそう激しくなり、悲鳴のような声も聞こえてくる。
スチュワーデスはそちらにも気を取られつつ、不審そうな顔で琢磨と岡田を見ている。
「どっきりカメラじゃないか」
最後列に座るビジネスマンらしき乗客の声が聞こえた。最近、流行り始めたテレビのバラエティ番組の撮影だと思っているらしい。
それを聞いた友人らしき男が、「Oh! モーレツ」などと言って茶化している。
時代は昭和元禄を迎え、テレビによって、現実と架空の出来事の境目が判別しにくくなっている。乗客たちは今、自分の身に起ころうとしていることが、テレビ番組のように思えてしまうのかもしれない。
――これが現実だと気づくのは、もうすぐだ。
琢磨は、そうした者たちに鉄槌(てっつい)を振り下ろすことに、ある種の痛快さを感じていた。
――俺は何を考えているのだ。馬鹿野郎!
メンバーの一人として行動しているためか、どうしてもメンバー側の発想になってしまう自分を、琢磨は心中で叱責した。
「中野さん、いいですか。やりますよ」
岡田はそう言うと、ビニール製の洗濯用ロープをナップザックの中から取り出した。
「すいません」と言いながら、岡田がスチュワーデスの手首を摑む。その動作は意外に強引に見える。
――こうしたところに、労働者だったという経歴が表れているのか。
琢磨は岡田の意外な一面を知った。
「えっ、何をするのですか」
エプロン姿のスチュワーデスは、何が始まったのか分からないらしい。
――致し方ない。
琢磨が低い声で告げた。
「この飛行機はハイジャックされました。われわれの指示に従って下さい」
「な、何を言っているんですか」
「いいから」
岡田が、スチュワーデスの腕にロープを巻き付ける。
スチュワーデスは声を上げるでもなく、大人しく合掌手に縛られた。ようやく状況を理解し、恐怖で体が動かなくなったのだ。
やがて通路の途中にいた別のスチュワーデスが、こちらに向かってきた。だが琢磨らに手を縛られている同僚を見て、啞然として立ち止まる。
「こちらに来て下さい」
琢磨にそう言われ、一瞬、前方を振り返ったそのスチュワーデスは、逃げ場所がないことを覚ったのか、素直に指示に従った。
前方のギャレーに連れていかれる二人のスチュワーデスも見えたので、これでスチュワーデスはすべて抑えたことになる。
琢磨は最後列を空けさせ、そこにスチュワーデスを座らせた。
問題はコックピットだが、大西と安西の姿が見えないので、うまく入り込めたと思われる。
――うまく、だと。
いつの間にかハイジャックの成功を祈っている自分に気づき、琢磨は自嘲した。
「前の方はうまくいっているのかな」
岡田が独り言のように呟く。
――こいつも本気でやるとは思っていなかったのだ。
岡田の心中を垣間見るたことで、逆に琢磨は肚(はら)が据わってきた。
「あなたたちは何をしようとしているのですか」
年かさのスチュワーデスが問う。
その顔からは驚きや恐怖が去り、怒りのようなものが表れている。
「黙っていて下さい」
「こんなことをして、うまくいくと思っているのですか」
「――」
「今なら間に合います。やめて下さい」
――こいつは何を言っているのだ。
琢磨の胸底から怒りが込み上げてきた。
――学生たちが世の中を変えようとしているのに、こいつらは自分の立場しか考えていない。
学生運動にかかわってからのことが次々と思い出される。いつでも大衆は傍観者であり、当事者ではなかった。
これほど世の中が矛盾に満ちていても、声を上げようとせず、ただ平々凡々たる自分の人生を歩んでいるだけだ。
琢磨の胸内に怒りの灯がともった。
「うるさい!」
「えっ」
「黙っていろ!」
年かさのスチュワーデスが口を閉ざす。琢磨は持ってきた長筒から模造刀を出した。
「あっ」と、若いスチュワーデスが小さな悲鳴を上げたので、後方の乗客たちがこちらを向いた。
乗客たちもようやく事態をのみ込めたのか、声にならないどよめきが押し寄せる。
「中野さん、落ち着こう」
岡田が笑みを浮かべる。おそらく琢磨が凄い形相をしているからだろう。
――そうだ。落ち着かなくては。
その時、前方で小競り合いが起こった。最前列に座っていた男性客が、模造刀を持つ学生の一人に襲い掛かったのだ。
――まずい。
たまらず駆け出そうとする琢磨の腕を岡田が摑む。
「行っては駄目です。持ち場を守れというのが命令です」
――その通りだ。
琢磨は心配そうに前方を凝視し続けた。メンバーの怒号と女性客の悲鳴が聞こえる。
田丸がギャレーから顔を出し、何事か指示した。
揉み合っている二人の背後から近づいた別のメンバーが、短刀の柄で、幾度も男性客の首筋を殴りつけた。メンバーの中で最も荒っぽい中田である。中田は坊主頭なので、最後方からでもよく分かる。
男性はたまらず首筋を押さえると、抵抗をあきらめて自分の座席に倒れ込んだ。その上に覆いかぶさるようにして、二人のメンバーが男性を縛り上げる。
「立つな。座っていろ!」
中田の怒声が、最後尾にいる琢磨たちの元まで轟く。
――あいつだけは気を付けねば。
ほかのメンバーは学生運動しかしてこなかった連中である。それを不安に思ったのか、田丸は明治大学の体育会系で何かの競技スポーツをしていた中田をオルグし、メンバーの一人とした。
中田は身長が高く、顔つきもやわではない。それが短刀を手にして通路を行ったり来たりするのだ。女性客の中には近づくだけで、悲鳴を上げる者もいる。
「手を上に挙げていろ!」
中田がそう喚いたらしい。エンジン音ではっきりとは聞こえなかったが、前方に座る客が一斉に両手を挙げたので、それが分かった。
続いて男性客を窓側に座らせ、女性と子供を通路側に移らせる作業が始まった。
――段取り通り、か。
最初に男性客を殴ったことが功を奏したのか、すべては計画通りに進んでいる。
男性は後ろ手に、女性と子供は合掌手に縛り上げられていく。
「動かないで下さい!」
腰を浮かせ掛けた後方の客の一人を、岡田がたしなめる。
その時、機内放送で機長らしき声が流れてきた。時計を確かめると、七時四十分になっていた。
「エー、こちらは操縦席です。ただ今、赤軍派と称する人たちが押し入りまして――」
その声音には、どこか落ち着きがない。コックピット内も動揺している様子がよく分かる。
「それで皆様の安全のために、エー、一応、抵抗しないように、皆様、エー、静かにそのままお願いします」
続いて田宮の声が聞こえた。モデルガンを手にした田宮は、ギャレーの前に設置された壁掛け電話からアナウンスしている。
「われわれは赤軍派です。たった今、この飛行機を乗っ取りました。こちらの指示通りにしていただければ、皆様に何ら危害を加えるつもりはありません」
続いて身体検査が始まった。持ち物をチェックして警察や自衛隊関係者がいたら、全身を縛り上げて隔離しようというのだ。琢磨と岡田は、その見張り役も担わされている。
「皆さん――」
田丸が再びアナウンス用の電話機を手にする。
「われわれは武器を所持しているだけでなく、液体爆弾を持っています。この溶液に水を入れると、大きな爆発が起こり――」
――何だと!
琢磨はそんな話を聞いていなかった。
慌てて岡田を見ると、何かを取り出した。
「中野さんに渡すのを忘れていました。直前になって、こいつを手に入れることができたそうです」
それは、ウルトラマンが変身する際に使うカプセルを一回り小さくしたようなものだった。
「つまり、この飛行機を爆発させることができるのか」
「そうです。おそらくですが――」
その辺については、岡田も詳しくないらしい。
「どうやって使う」
岡田が使い方を琢磨に教えるのを、二人のスチュワーデスが息をのむようにして見ている。
「中野、岡田!」
こちらに向かって中田が走ってきた。
「国家権力の犬はいない」
「分かりました」
岡田が敬礼せんばかりに答える。
どうやら警察や自衛隊関係者はいなかった。だが、そうなればなったで、琢磨は一人で、乗客の安全を守っていかねばならないことになる。
――たいへんなことになった。
赤軍派メンバーが爆発物を持っていることで、機内の緊張も一気に高まってきた。
――どうする。
最後方にいるので、いざという時に手を打つのが遅れることも考えられる。
コックピット内の状況は分からないが、先ほどの放送を聞けば、制圧したのは確かなようだ。
――ハイジャックは成功したということか。
その事実に琢磨は慄然(りつぜん)とした。ここまで警察は、何の手も打っていない。
――警察は何をやっているんだ。こいつらは何をしでかすか分からない連中なんだぞ。
琢磨は、これまで感じたこともないほどの責任を一人で担わされた気がした。
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