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アンフィニッシュト7-2

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「文学部の仲間を紹介しよう」

 玉井が端から、昼食を共にしている連中を紹介していく。

「それでこいつが中野健作だ。確か北海道出身だったな」

「ああ、そうだ」

「君は現役で入ったのかい」

 唐突に石山が問う。

「いや、一浪してやっと入れたんだ」

 現役入学だと身元がばれる可能性が高いということで、横山は琢磨を一浪させた。というのも、何かの偶然で函館出身者と知り合うことにもなりかねないからだ。そうなれば出身高校を聞いてくるのは明らかだ。だが一浪していれば、「東京で浪人生活を送っていた」などと言って、過去をあいまいにすることもできる。

「何だ、たったの一浪か。ということは十九歳だな」

「そうだよ」

「それにしては少し老けているな」

 皆がわいたので、琢磨も一緒に笑った。だが琢磨は、背筋にうすら寒いものを感じた。琢磨のことを「十代半ばにしか見えない」と言っていた笠原や横山の感覚が、微妙にずれているからだ。

 ――警察を全面的に頼るわけにはいかない。

 完全に潜入できたと思っていても、落とし穴は意外なところにあるかもしれない。

 話題は別の者に移り、誰かが何かを茶化すと、その度に皆がわく。琢磨もそれに合わせて笑っていたが、それも一通り終わると、石山が琢磨に視線を据えて言った。

「確か君は、統学連のビラに見入っていたな」

「えっ、そうだったかな」

「ああいう運動に関心があるのかい」

「そんなことはない。一生懸命になって説明してくれるから、つい――」

「さては桜井紹子目当てだな。君の目付きが、そう言っていたぜ」

 琢磨はぎくりとした。「公安専科教養講習」によると、「警察のスパイかどうかは、その目付きで見破られる」のだという。

「さくらい、って、あの薄青色のワンピースを着ていた女性のことかい」

 あえて気弱そうな視線をさまよわせながら、琢磨が問う。

「そうだよ。何だ、知らないのか。彼女は文学部の二回生だぜ」

 皆は何のことか分からないのか、すでに別の話題に転じている。

「確か、中野君だったね」

 琢磨がうなずくと、声をひそめて石山が言った。

「彼女には近づかない方がいい」

「どうしてだい」

「分かるだろう」

「分からない」

 石山がやれやれという顔をする。

「赤城壮一郎の女に手を出せば、君はよくて廃人、悪くて中村川に浮かぶことになる」

 中村川とは、丘の上にある大学のはるか下を流れる二級河川のことである。

 ほろ苦い感情が胸底から突き上げてきた。

 ――首領の女ということか。

 その清楚な佇まいから、セックスとは縁遠い存在と思っていたが、しょせんは一人の女に過ぎないのだ。

「君ね、だいたい学生運動などには、かかわらない方がいいよ」

 石山の言葉を、ほかの者と話していた玉井が聞きとがめた。

「聞き捨てならんな。なぜ大学生が政治に関心を持ってはいけない」

「いいか」

 石山がカレーのスプーンを置く。もちろん、きれいに食べ終わっている。

「お前が、そうやって得意になって政治談議をしているのは、必ず誰かに聞かれている。それで思想的な分類をされて、マークされるんだぞ」

 石山は、胸ポケットから象牙らしき素材でできたライターを取り出すと、灰皿を引き寄せてハイライトを吸い始めた。

「ただの話題じゃないか」

「そう思いたければ思え。同じ高校のよしみで忠告したが、もう二度としないからな」

「分かったよ。気を付ける」

 不安そうな顔になった玉井は、しきりに背後を見回している。

「二回生からの忠告だ。皆も聞け。将来を駄目にしたくなかったら政治運動にはかかわるな」

 そこにいた連中が黙ってうなずく。

「じゃあな」

 灰皿に煙草をもみ消し、水をがぶりと飲んだ石山は、トレーを持つとその場から悠然と去っていった。

 その姿が学食の出口から消えたのを見計らい、玉井が言った。

「奴はノンポリの典型だ。親父が役人ということもあって、同じ役人か銀行員を目指している。まあ退屈な仕事だが、それも一つの人生だ」

 玉井が立ち上がると、皆もそれに続いた。

 ――さくらいしょうこ、という名か。

 薄青色のワンピースを着た女のベールが一枚、剥ぎ取られた。

 ――だが入り込むには、彼女はこれ以上ない相手だ。俺の遺体が中村川に浮かぶか、桜井を手なずけられるかだな。

 むろん「中村川に浮かぶ」というのは、石山が大げさに言っているだけのことで、真に受ける必要はない。だが活動家でも、自分の女に接近する男がいれば、何がしかの理由を付けて制裁を加えてくるはずだ。

 ――赤城が組織を持っているだけに、その公算は高い。

 玉井たちに続いて琢磨が学食を出ようとすると、テニスでもやりにいくのか、ラケットを持った集団と擦れ違った。その一団は、何か冗談らしきものを言い合っては笑い転げ、青春真っ盛りという雰囲気を漂わせていた。すでに季節は夏であり、女の子は皆、ミニスカートをはいている。

 ――今、君たちと擦れ違った男が、この大学で命懸けの仕事をしようとしているのを知っているかい。

 自分の置かれた立場とのあまりのギャップに、琢磨は苦笑するしかなかった。


 六月半ばのある日のことである。雨が降る中、新聞配達を終えた琢磨が、朝飯を作ろうと台所に立っていると、けたたましいサイレンの音が聞こえてき」た。

 ――火事だろうか。

 下宿の前に出た琢磨が、樹木越しに眼下を通る横浜駅根岸道路を見下ろしていると、パトカーや機動隊のバスが打越橋をくぐって坂を上っていく。

 その中に消防車が含まれていないことから、火事でないのは明らかだ。

 胸騒ぎがしたのでラジオのチャンネルをNHK第一に合わせると、「今朝方、雄志院大学がバリケード封鎖されました」というアナウンサーの声が聞こえてきた。

 ――統学連の仕業だな。

 ちょうど炊けた飯に薄い味噌汁をぶっかけ、急いでかき込んだ琢磨は、レインコートを着ると下宿を飛び出した。

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