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アンフィニッシュト 42-1

サンデー毎日(毎日新聞出版)にて2017年秋まで連載していたミステリー小説を毎週火・木にnoteにて復刻連載中。
1960年代後半の学生運動が活発だった日本を舞台に伊東潤が描くミステリー小説。

 庭にある車回しには、すでにユーチョルがいて、兵士に何か指示している。
 琢磨が駆け付けると、ほぼ同時に、田丸をはじめとしたメンバーも駆け寄ってきた。
「ユーチョルさん、いったいどういうことだ!」
 田丸がユーチョルに近づこうとすると、兵士がその行く手を遮った。
「吉本君には再教育が必要です」
「再教育だと。それはここでもできるだろう」
「できません。彼には特別な施設が必要です」
 ユーチョルが顎(あご)で合図すると、兵士が吉本を車に押し込もうとする。それに吉本は激しく抵抗している。
「待ってくれ。どこに連れていく」
 その問いに、ユーチョルは答えない。
「田丸さん、助けてくれ!」
 ボルガのドアにしがみつき、吉本が叫ぶ。
「ユーチョル同志、お願いだ。もう一度だけチャンスを与えてくれ。彼のことは、われわれに任せてくれ!」
「駄目です」
「どうしてだ」
「彼には再教育が必要です」
「それは、われわれがやると言っているだろう。無理にでも従わせるから連れていかないでくれ!」
 田丸がユーチョルにしがみつかんばかりに懇願するが、二人の兵士が銃をクロスさせて近づけさせない。
「何でも言うことを聞く。頼むからここに置いてくれ! お願いだ。助けてくれ!」
 吉本の絶叫が悲鳴に変わる。
 遂に吉本がボルガに押し込められた。
「嫌だ。行きたくない! お母さん!」
 ドアが閉められる寸前、吉本の最後の言葉が聞こえた。
 ユーチョルが無言でうなずくと、ドアを閉めたボルガは、凄いスピードで走り去った。
――まさか、もう戻ってこないのでは。
琢磨の背筋に恐怖が走る。
 気づくと田丸は、その場にくずおれていた。
 そこにいる全員が、茫然として車の去った後を見つめていた。
 ――仕方がない。
「ユーチョルさん」
 その場から去りかけていたユーチョルが振り向く。
「君は――」
「中野です」
「そうだったな」
「吉本をどこに連れていったのですか」
「再教育の場だ」
「いつ戻されるのですか」
「彼が真の革命戦士になった時だ」
 ヘッドライトに照らされたユーチョルの顔は、明らかに困惑していた。
 ――つまり察してくれということか。
「どうすれば、彼はここに戻ってこられるのですか」
 その問いに答えはない。それがすべてを物語っていた。
「彼は戻ってこられないのですね」
「いいですか。私はあなたたちの監視役で、何か決めることをできないです」
 ユーチョルの日本語が乱れる。そこには明らかな動揺がある。
「分かりました。ただ約束して下さい。いつか吉本を戻すと」
 悲しげに首を左右に振ると、ユーチョルは自分のボルガに乗り込んだ。
「ユーチョルさん――」
琢磨がさらに迫ろうとすると、肩を摑まれた。
「もういい」
田丸である。
「もうよそう。今夜のことも――」
田丸は一瞬ためらった後、肺腑(はいふ)を抉(えぐ)るような声で言った。
「吉本のことも忘れよう」
その言葉に琢磨は衝撃を受けたが、声に出しては問えなかった。
――あんたは、それでいいのか。
気づくと兵士たちもいなくなっていた。メンバーは寝巻のまま呆然と立ち尽くしていたが、田丸が「戻ろう」と言うと、皆その言葉に従った。
琢磨は、その場に倒れて震えている若山を助け起こすと、その体に付いた土を払ってやった。若山は礼も言わず、幽鬼のような足取りで自分の部屋に戻っていった。
漆黒の闇の中で、琢磨は一人、ボルガが走り去った方を見るでもなく見ていた。
――ここから逃げ出さねば。
おそらく北朝鮮政府は、メンバーを洗脳し、完全な革命戦士として生まれ変わらせた上で、様々な工作をやらせようとしているに違いない。
――このままでは、たいへんなことになる。
琢磨の決意は次第に固まっていった。

著者:伊東潤(Twitter公式サイト
1960年、神奈川県横浜市生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。日本アイビーエム株式会社を経た後、外資系企業のマネジメントを歴任。2003年にコンサルタントに転じて2006年に株式会社クエーサー・マネジメントを設立。2007年、『武田家滅亡』(角川書店)でメジャー・デビュー。2010年に専業作家となって今に至る。

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