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アンフィニッシュト 36-1

 乗客の身代わりとなる政務次官らしき人物が乗り込んできた。小柄で温厚そうな人物である。仕事柄、北朝鮮がいかなる国かを知っているはずだが、それでも身代わりとして名乗り出たということは、かなり肝が据わっているに違いない。

 政務次官は「やあ、どうも、どうも」などと言いながら、得意げに最前列に席を取った。

 琢磨はその度胸に敬服したが、政府が何らかの形で北朝鮮政府にコンタクトし、安全が約束されたがゆえに、彼を送り込んできたことは十分に考えられる。

 ――どうやら、撃ち落とされる心配だけはなさそうだ。
 琢磨は少し気が楽になった。

 いよいよ残りの乗客たちの解放が始まった。

 立ち上がった乗客に、岡田は「ありがとうございました」「ご迷惑をお掛けしました」などと言って頭を下げているが、琢磨は黙っていた。乗客に対して妙に馴れ馴れしい態度を取れば、また中田に疑われると思ったのだ。

 それでも乗客の何人かは振り向いて、「元気でな」「あっちでは水に気を付けろ」「おかげで、いい思い出になった」などと言っては去っていく。

 その度に岡田は体を九十度に折り、「申し訳ありませんでした」と言って頭を下げている。そのへりくだった態度に、琢磨は少し嫌悪を感じた。

 琢磨の耳は岡田と乗客のやりとりを捉えているものの、視線は前方に張り付いていた。だが万が一、韓国軍が乱入してきても、どうすればよいかは分からない。

 ――乗客を巻き込まないためには、「降伏します」とでも言って手を上げるしかないのか。

 そうなれば琢磨は撃たれるだろうが、乗客に危害が及ぶことはないかもしれない。

 背筋に汗が伝う。

 次の瞬間には催涙弾が投げ込まれ、強烈な光が照射されるかもしれないのだ。

 ――視界が晴れて何が起こったか知る前に、おそらく俺は死んでいる。
 死の恐怖が喉元まで迫ってきた。琢磨は強い吐き気を覚えたが、懸命にそれをねじ伏せた。

 それでも幸いにして何も起こらず、残る乗客たちも次々と機内を後にしていく。

 ドア付近で外を警戒している面々にも、不安の色は見られない。
――韓国政府も、この機を北に飛ばすことに同意したのか。
日本政府が韓国政府を説き伏せたのか、または別の力が働いたのかは分からない。しかしどうやら両政府は、さど号を飛び立たせることで合意したようだ。

 そうなればそうなったで、何が起こるか分からない今後への不安が、ますますわき上がってくる。

 結局、乗客全員が安全に機を後にし、韓国軍の突入もなかった。

 大任を果たしたという安堵感が満ちてくる。その一方、急に空間が広くなったことで、うすら寒いほどの寂しさにも襲われた。

 ――まだ、油断はできない。

 琢磨は、政務次官と乗務員の命を守らねばならないのだ。

 これで韓国政府は強硬策を取りやすくなったが、その気配はない。

 ――何か企んでいるか。

 琢磨は気が気でなかったが、田丸たちは安堵したのか、政務次官と談笑している。だが、しばらくすると何度か頭を下げ、政務次官を椅子に縛り付け始めた。

 強行突入がなされた時、韓国軍が第一に政務次官の身の安全を確保することは、誰にも分かる。それをさせないために縛らざるを得ないのだ。

 コックピットから出てきた乗務員の一人が、「何もそこまで――」と言って田丸に抗議しているが、政治家は「いいから、いいから」と言いながら、縛られるに任せている。

 それから再び交渉が続き、日没が迫ってきた。この日も飛び立つことはなさそうだと思っていると、上気した顔の中田がやってきて、「行くぞ」と告げてきた。

 ――いよいよか。

 やがて、エンジン音が聞こえてきた。

 午後六時、二日ぶりにさど号が動き出した。それでも琢磨は、本当に離陸するのか疑問に思っていた。

 ――滑走路を移動させるだけではないのか。

韓国軍が突入しやすい位置に、さど号を移動するよう指示することは十分に考えられる。ところがさど号は突然、滑走を始めた。

 ――まさか、行かせるのか。

 心臓が縮み上がる。

 もはや立っている必要もないので、メンバー全員が座席に座り、シートベルトを締めた。琢磨もそれに倣う。

 遂に、さど号は離陸した。

 ――これは現実なのか。

 眼下に広がるソウルの市街地を眺めつつ、琢磨は茫然自失となった。

 金浦から平壌までは一時間もかからなかった。

 前もって北朝鮮政府の了解は取ったらしいが、いつ何時、気まぐれで撃墜されないとも限らない。

 だが琢磨もメンバーも、すでに緊張状態を保てるほどの気力は残っておらず、どうとでもなれという気持ちになっていた。

 前方からは、田丸らと談笑する政務次官の高笑いが聞こえる。政務次官は、「私自ら人質になると名乗り出たのですよ。これで体を張ったので、次の選挙は圧勝できます」などと言って笑わせている。

 しばらくすると、乗客が餞別(せんべつ)に置いていった煙草が回されてきた。琢磨には喫煙の習慣がないが、皆に倣って吸ってみた。これまでは煙草を吸ってもむせるだけだったが、初めてスムーズに煙を吸い込むことができた。そのお陰か、次第に気分が落ち着いてくる。

 隣に座る岡田が驚いたように問う。

「煙草を吸う習慣があったのですか」
「いや、今から始めることにした」

 けらけらと岡田が笑う。その笑い声は皺嗄(しわが)れており、岡田も精神的に限界に達していたと分かった。

 午後七時二十分、いかなる誘導があったのかは分からないが、さど号は、どこかの空港に着陸した。かなりでこぼこした滑走路らしく、ひどい振動に見舞われてひやひやしたが、無事に機は停止した。

 ほっとした空気が機内に流れたが、金浦空港に着いた時のような明るさはない。

 早速、外を眺めたが、漆黒の闇が広がっているだけで何も見えない。それでも窓に顔を付けるようにしていると、ようやく二つか三つばかりの灯りが瞬くのが見えた。

 ――ここが平壌か。いや、待てよ。

 もしも、ここが韓国の片田舎なら、韓国軍が強行突入をしてくる公算が高い。ここには日本政府の関係者も報道陣もおらず、機内にいる全員を殺してしまえば証人もいなくなる。乗務員や政務次官は、メンバーが殺した、ないしは不可抗力だったと主張すればよい。

 ――つまり、ここが北朝鮮の方がましということか。

 まだエンジンは切られていないが、誰に言われるでもなく、皆は立ち上がった。

 田丸や大西は、コックピットから出てきた乗務員と何事か話し合っている。

 その時、琢磨の視界の端で何かが光った。窓の外を見ると、いくつものサーチライトが、さど号を照らしている。

 軍服姿にヘルメットをかぶった男たちが、ライトの前を行き交っている。その不気味なシルエットは、韓国軍とは明らかに異なる。

 背筋に寒気が走る。

 ――間違いない。ここは北朝鮮だ。

 兵士のきびきびした動きや、その不穏な空気から琢磨は確信した。

 続いて前方のドアが開き、三人の乗務員が出ていった。田丸が交渉に行かせたのだ。

 もはや後方の荷物用タラップを警戒する必要もないと判断した琢磨は、岡田を促して前方に向かった。

 前方では左側の窓に張り付くようにして、メンバーたちが外を見ていた。視線の先では乗務員が手振り身振りを交えて、何事かやりとりしている。その周囲を幾重にも兵が取り囲み、銃を構えている。

 しばらくやりとりが続いた後、両手を上げさせられた乗務員三名は、黒塗りの車に乗せられた。おそらく寒気が厳しいので、車内で話を聞くことになったのだろう。

 ――これは、扱いがよくなさそうだな。

 下手をすると琢磨たちは、収容所に入れられて生涯を過ごすことにもなりかねない。

 さもなければ、北朝鮮政府は慢性的に外貨が不足気味なため、これ幸いと、さど号に乗っていた全員を人質に取り、日本政府に多額の身代金を要求するかもしれない。

 ――だが米国政府は、日本政府に圧力を掛けて身代金を支払わせないはずだ。

 となれば、収容所の生活は長いものになる。おそらく、食うや食わずで働かされるだけの日々になるだろう。

 悪い方、悪い方へと考えていると、気持ちが沈んでくる。

 ――今更、どうにもならないじゃないか。

 琢磨は、そうした連想を断ち切った。

 乗務員を車に乗せたところで、外の動きが止まった。

 田丸たちは、金浦空港に着いた時とは異なり、ただ黙って下の様子を見ている。偽装と知らず、ぬか喜びしてしまったことを思い出したのか、笑みを浮かべるものは一人としていない。

――俺たちはどうなるんだ。

 心細さが押し寄せてくる。何といっても相手は得体の知れない国家であり、こちらは武器らしい武器も持っていないのだ。

 やがて拡声器を通して、「武装解除して降りてきなさい」という日本語が聞こえてきた。金浦空港の時とは比べ物にならないほど流暢な日本語である。北朝鮮政府が、それだけスパイ活動に力を入れている証しだ。

 だが田丸と大西は、額を寄せ合って何かを相談し、降りることをためらっている。金浦空港ではめられたことを思えば、念には念を入れたいのは分かる。だがパイロットを拘束されてしまった今、さど号は、どこにも飛んでいけないではないか。

 外をよく見ると、離れた場所にバスのようなものが停まっている。

 ――あれに乗せられるのか。

 その黒っぽい車体は、地獄の案内人のように見える。

 やがて乗務員の一人がタラップを上がってくると、蒼白の顔で告げた。

「早く出てこないと攻撃する、と言っている」

「ここは本当に北朝鮮なのか」

 田丸が問うと、乗務員は黙って金日成の写真を見せた。

「五カ年計画の二年目だと言っている。間違いないか」

「よし」と言いつつ、田丸が腹に力を入れた。

「降りよう!」

 その一言で全員に緊張が走った。

 ――いよいよか。

 もはや逃げ出すことはできない。

 ――俺は中野健作になりきるのだ。いや中野健作なのだ。

 琢磨は自分にそう言い聞かせると、列の最後尾に並んだ。

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