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真田丸と真田幸村 【歴史奉行通信】第九十二号

こんばんは。伊東潤です。
今夜も伊東潤メルマガ「歴史奉行通信」をお届けします。


〓〓今週の歴史奉行通信目次〓〓〓〓〓〓〓


1.はじめに

2. 「真田丸と真田幸村」
ー大坂城と真田丸は「常山(じょうざん)の蛇勢(だぜい)(両頭の蛇)」の関係だった
ー出城の集大成と言える真田丸

3. 「真田丸と真田幸村」
ー幸村は真田丸をどのように駆使したのか
ー「真田三代」の強さの秘密とは
ー鬱屈した蟄居生活の中大坂の陣に死地を見つける

4. Q&Aコーナー / 感想のお願い

5. お知らせ奉行通信
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1.はじめに

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ようやく緊急事態宣言明けが見えてきましたね。
早く大酒を飲みに行きたいと思っているのは、私だけではないでしょう。
飲食店をやっている方々は、もう少しの辛抱です。もちろん酒類の提供が可になっても、マスク会食だけは徹底したいですね。


さて戦国時代の終焉といえば大坂の陣ですが、この戦いは旧暦の五月に展開されたもので、季節的にはちょうど今頃にあたります。

この戦いで大坂方に属した武将の多くが名を挙げ、そして死んでいきました。
中でも「日本一の兵(つわもの)」とまで呼ばれ、後世まで勇名を馳せた真田幸村(信繁)が有名です。

今回は、大河ドラマ『真田丸』放送の頃に、歴史雑誌に寄稿した真田幸村と真田丸に関するインタビュー記事を掲載します。

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2. 「真田丸と真田幸村」
ー大坂城と真田丸は「常山(じょうざん)の蛇勢(だぜい)(両頭の蛇)」の関係だった
ー出城の集大成と言える真田丸

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――大坂夏の陣で華々しく討ち死にを遂げ、その生涯を終える真田幸村だが、実際の活躍ぶりは謎に包まれたままだ。
その幸村こそ「真田家の軍略の集大成」とする歴史小説家・伊東潤先生に、真田丸と幸村の実像について語っていただいた。


■大坂城と真田丸は「常山(じょうざん)の蛇勢(だぜい)(両頭の蛇)」の関係だった

真田丸は大坂城の出城の一つですが、本城と出城を相互補完的に駆使して守る築城構想を表す言葉に「常山の蛇勢」というものがあります。

大坂城が難攻不落の名城というのは誰もが認めるものですが、単独の城というのは、いかに堅城でも囲まれて孤立すると弱いものです。
そこで本城を中心にした城郭ネットワークを築き、連携して敵を撃退するのがセオリーとなります。

城郭ネットワークがあれば防衛戦術の選択肢も広がりますし、「通路切り」と言って、敵の補給線を脅かすこともできます。
ところが豊臣家は、存亡の危機に立たされた関ヶ原合戦以後も、城郭ネットワークはおろか、強力な支城を築くことさえしませんでした。
大坂城単体の防御力に頼り切っていたからです。

冬の陣にあたって、大坂城の周囲を歩き回った幸村は、
大坂城単体で戦った時の弱点を少しでも緩和すべく、近くにもう一つの城を築き、連携して防御に当たろうとしたのでしょう。

そこで重要なキーワードとなるのが、「常山の蛇勢」という築城思想です。

城というものは、いかに堅城でも敵の集中攻撃に晒されると、落とされる確率が高まります。
そこで出城や出丸を築き、そちらにも敵の攻撃力を割かせるのです。
つまり真田丸の存在によって、敵の背面や側面を脅かせば、敵は気になって大坂城の攻撃に集中できなくなります。

一方、出城を先に攻略しようと思っても、今度は本城の方から横撃され、やはり全力で攻められない。
これが「常山の蛇勢」という築城思想なのです。
つまり本城を攻撃すれば、出城から叩かれ、逆に出城を先に落とそうとすれば、本城から攻められる。
つまり蛇の一方の頭を叩こうとすれば、残る一方に噛みつかれるわけです。

この思想が反映された城は東国に多く見られます。
岱崎出丸と西櫓という二つの曲輪が連携している山中城や、本城部分と出城(向根古屋出丸)が連携している本佐倉城などが、その典型例です。


■出城の集大成と言える真田丸

元々、大坂城は上町台地の北端に築かれているため、北と東は川、西は海に面しています。
つまり「後ろ堅固」の地形にあります。
攻めるとしたら台地続きの南側からしかありません。いわば大坂城の南側は唯一の弱点にあたります。
そこで真田丸は大坂城の弱みをカバーすべく、大坂城三の丸の南側に造られたわけです。

城郭考古学者の千田嘉博先生の最新研究によると、真田丸は従来のイメージよりも大坂城からやや離れており、小高い丘の上にあったようです。
徳川方からすれば、真田丸を攻めるためには坂を登らなければならず、逆に真田丸からは駆け上がってくる徳川方の将兵を上から狙い撃てます。
これが真田丸の強みの一つです。

しかもその周囲は、泥田や泥湿地が広がり、かなり起伏の激しい地形だったことが分かってきました。
大坂城の創築時、秀吉はあえて南側に整備の手を入れず、攻めにくくしていたのかもしれません。

先ほどの千田先生の研究で、真田丸がどのような出城だったか、いくつか新たに分かってきたことがあります。

一つ目は、真田丸は横長の楕円形で、堀はもちろん塁壁をも備え、隅櫓や井楼も築かれていたという点。
二つ目は、大阪城との間には渓谷が横たわっており、それぞれの行き来が不自由で、独立性が高かったという点。
三つ目は、真田丸の東側から東南にかけて、深さ二百メートル余の谷があり、徳川方が兵を展開できなかったという点。
四つ目は、背後を守る北側に小さな曲輪があったという点。
五つ目は、南正面ではなく東西に虎口が設けられ、虎口に敵が攻め寄せてくれば、大坂城からも援護攻撃ができたという点です。

このような状況から考えると、真田丸は単独でも防御性が高い城だったと分かります。
つまり、大坂城からの援護がなくても、ある程度の水と食料があれば持ちこたえられる城だったのです。
これまでの研究では、ただ単に大坂城の南を守る出城というイメージしかありませんでしたが、
発掘と研究によって、極めて独立性と防御性が高い出城ということが分かってきたのです。
真田丸こそ、「究極の出城」と言ってもいいかもしれません。


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3. 「真田丸と真田幸村」
ー幸村は真田丸をどのように駆使したのか
ー「真田三代」の強さの秘密とは
ー鬱屈した蟄居生活の中大坂の陣に死地を見つける

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■幸村は真田丸をどのように駆使したのか

では、真田丸を築いた幸村は、冬の陣の真田丸をめぐる攻防で何を考えていたのでしょう。

まず幸村は、冬の陣の時点では全く勝ち目がないとは思っていなかったはずです。
また幸村以外の大坂方の武士たちについても、何らかの勝算があったからこそ城に入ったわけで、
その戦意の高さは、冬の陣での「勝利に近い和睦」という結果にも表れています。

当時の武士は儒教的主従関係意識が薄く、忠誠心とか忠義というものが江戸時代ほどはありませんでした。
要は何らかの「利」があるから合戦に参加していたのです。 
彼らは、このまま浪人で朽ち果てるなら、「一旗揚げてやるか」という気持ちで戦ったのは明らかです。

では幸村は、冬の陣で何を狙っていたのでしょうか。

それは勝利に近い和睦でしょう。
何らかの形で徳川方と和睦し、豊臣家の存在を認めさせるというのが、冬の陣での幸村の戦略目標だったと思われます。

最上のシナリオは、自分たちも豊臣家の家臣になって大坂城に残ることです。
最悪のシナリオは、和睦の末、秀頼を公家か坊主にして大坂城から出し、自分たちは、どこかの大名家に仕官するという形です。
そういう意味で冬の陣の幸村は、思惑通りの結果を導き出せたのではないかと思います。

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