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ラモー:「輝きの音」を聴く

昨年購入したCDで、最近になってようやく聴き始めたものに、クルレンツィス×ムジカエテルナのラモーの盤がある。2014年のラモー没後250年記念にリリースされたものが2015年に日本盤化されたものだ。
ここ最近は現代の作品に傾倒しがちだけど、私はもともとバロック音楽にかなり強く共鳴しており、イタリアのパンドルフィ=メアリのエキセントリックさや、フランスのマラン・マレのヴィオール作品などには、言葉が出ないほど圧倒されたりする。
クルレンツィスがもともと古楽器にこだわっていたこと、ラモーやパーセルなどバロックの盤が出ていることは、私にはとっても興味深いことで、嬉しい限りだったりする。クルレンツィスのラモーは期待通り、作曲家に対する従来のイメージを良い意味でぶち壊してくれる。本当にラモーなのかな、と思う。

バロック音楽については、ドイツバロックは地域や時代によって割とはっきりした様式の違いがあって比較的概観しやすいように思うけど、
フランス・バロックは特に果てしなく掴みにくいイメージだったりする。
(王宮的という風に集約すれば掴みやすいのだろうけど、作品数も膨大すぎるようなイメージがある。)
深めようにもどこから手をつけたら良いのかわからない感じがするのである。

この盤について、クルレンツィスはCDに付録されたブックレットの序文中に「ラモー名曲集」と書いている。だけれども、実際にはただ「集めた」ようには全く聴こえない。非常に緻密に計算ぬかれ、この一枚で一つの劇的なドラマを見ているような気分にさせられる。それにしても、ラモーのオペラやバレエ作品の、なんと10作品もの異なるものから18曲を選び取って構成している。これだけでも相当劇的な試みであるように思う。

全曲を通して、古楽器による演奏の中でもとりわけ驚くほどの切れ味の良さを感じる。凄まじいヴィルトゥオーゾが何度も登場し、どうやって演奏しているのか不思議になる。作品中(おそらく作曲家の個性とみられる)の根源的な爆発力や破壊力、またそれとは対照的な非常にデリケートな色彩。

クルレンツィスの音楽には一貫して、そうした相反するものへの追求が
感じられる。ソプラノのナディーヌ・クッチャーは素晴らしすぎる。人間離れした表現力に脱帽である。

クルレンツィスは、「バロック」についてこう語る。


「バロック」という言葉は芸術史用語としては貧相で、たった一種類のラベルを、全く異なるさまざまな音楽に張り付けてしまう。そういうわけで、私はバロックの「権威」と呼ばれるような音は出したくない。もっと先をめざし、自分自身のなかにある、まだ自分でも知らない部分に出会いたいと思う。・・・


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