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今までの経験から違ってくること

いつの間にか
私が生活の中で、結構大切にしているもの。

勝手に体がそうしてしまう
これが私だというところ。
「おおざっぱキッチリ」が、まさに私。

基本的に、私はきっちりしている。
しめきりや期限はきっちりと守る、とにかく早い。
そうだ、早さがまさに私を表している。

ていねいではないが
支障なく、事足りるくらいに留めている。
意図して留めている、というよりは

「支障がないなら、どうしてそれ以上
ていねいにする意味があるのだろうか…」と
いつも自分の考えを正当化している。

とにかく、おおざっぱ。

20代の頃、勤め先で後輩が、私の仕事の仕方を見ていて
「おおざっぱキッチリ」と名付けてくれた。

上手く言い当てていて、いいネーミングだと
私は気に入っている。

たとえば、自宅での掃除と言えば
ダスキンモップでの床掃除は毎日、ササッと手早くする。
でも、棚などの掃除は大掃除か気が付いたときだけ。

料理は、疲れていても必ずつくる。お惣菜を買わない。
出来合いのものを買うことに、もったいない気持ちと健康面での不安が強い。
疲れていてサッとつくるから、名もない適当なメニューが多い。

読書は大好きで、たくさんの本を読む。
読み方はザッと。
でも、短くても、感想は必ず書く。

それも、思ったこと感じたことが中心の
自分だけが分かるような備忘録的な感想を。

仕事では、書類などの提出はだいたい早くて
しめきりを遅れることは、まずない。
が、ちょっとしたミスがある…

普段の生活で、いつもチェックリストをつけている。
逆に、つけないと気持ち悪い。
ひとつずつ終了し、チェックを付ける達成感がたまらない。
そこが、キッチリの部分。

作業としてこなし、完成度としてはまぁ悪くはないが
残念なことに、パーフェクトではなく
だいたい、どこかに小さなミスがある。
これが、おおざっぱの部分。

ミスは許されるわけではないが
職場の人や夫や息子たちに「おおざっぱキッチリ」である私や
「おおざっぱキッチリ」の母を知ってもらっていると

「おおざっぱキッチリだからね。」と

キャラクターとして許される時もある。
自分が大切にしていた部分が言語化されて
周りが知ってくれていると、過ごしやすい。

でも、残念ながら
夫婦間では、この違いにイラっとすることが多い。
20年以上たっても、なかなか腑に落ちない。

私の「おおざっぱキッチリ」に対して
夫は「きまぐれキッチリ」とでも言うか…
(でも、きまぐれでキッチリしていない時もあるので
やっぱり、キッチリではない。言語化は難しい。)
とにかく、その点では合わないということ。

私が、毎日のリビングの
モップでササッときれいにしたいのに対し
床にモップをかけながら
照明の傘にたまったホコリに気が付くと
にわかに沸き上がった使命感をもって
夫は照明の傘を、拭きはじめてしまう。

気づくと、使命感をもってはじめた照明の傘拭きに時間を費やしたことで
モップ掃除も途中のまま
すっかり疲れてしまい
「小休止~」と言い訳をつぶやきながら
リビングでくつろいで休憩している…
結局、照明の傘すべてを拭き切らずに終了となる。

おおざっぱキッチリの私に言わせると
ササッと、モップを掛け
余裕があれば、照明のホコリを拭けばいい
それだけのこと。

夫曰く
「目についたホコリを放っておくことが気持ち悪い」と。

私からすると
「気が付いたところだけ掃除する方が、もっと気持ち悪いわ」

拭いている途中で終わって
拭けなかった傘は、次いつ拭いてもらえるの?
きちんとしないことへの気持ち悪さ。

これが、育った環境や経験から体に染みついてきた
大切にしていること「こだわり」なんだろう。


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