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長編小説【三寒死温】Vol.22

第三話 型破りな中学校教師


【第七章】任務を失敗する教師

あたしは涙が止まらなかった。
ついさっき、ひとしきり泣いて少しだけ気分がすっきりしたはずなのに。
でも、その時の涙とは意味がまったく違う。

「恐らく、この手紙が俺の家のポストに投函されたのは、去年の夏休みに入ってすぐのことだ。しかし俺は、親父の具合が悪くて様子を見に田舎に帰っていた。もちろんずっと行ったきりではなかったんだが、たまにこっちに戻って来ても、仕事や用事が済んだらまたすぐにとんぼ帰りしていた。
そのせいで、この手紙に気づかなかった。」
「これってやっぱり岬のこと? この人って、岬の従兄のおにいさん?」
「さっきも言ったが、分からない。俺はそいつの従妹の名前を知らないし、キミも岬ちゃんの従兄の名前を知らない。岬ちゃんの家族が引っ越してどこかに行ってしまった以上、確かめようがない。真実は闇の中だ。」

あたしは、大きな勘違いをしていた。
あたしは、てっきり岬がいじめを苦に自殺したのだと思っていた。
あたしが余計なことをしたばかりにエスカレートしてしまったいじめから、あたしが岬を救い出せなかったからだと思っていた。
でも、そうではなかった。
そもそもあたしは、岬のことを何一つ分かっていなかったんだ。

でも今度は、別の意味で岬に対する謝罪の気持ちが大きくなっていった。

そこまであたしのことを信じてくれた岬に対して、そこまで岬を信じることができなかったあたし。
お互いに、自分のことをすべて話したとは言い難い。
それどころか、話していないことの方が圧倒的に多い。
そもそもすべてを共有できるはずもない。
それでも岬は、あたしの存在を信用してくれていた。
従兄のおにいちゃんの代わりにはなれなかったかも知れないけれど、あたしにも希望の光を見出してくれていた。
なのに、あたしは。

「いとこ同士って、結婚できないんだよね?」
「日本で近親者同士の婚姻が禁じられているのは、三親等内だ。いとこは四親等に該当する。」

そうか。
岬が悲しそうに俯いたのは、血のつながりを意味していたのではなかったのだ。従兄が結婚していたこと、奥さんがいたことを意味していたのだ。

「おじさんって本当に先生? そもそも、ここにいるのは偶然?」
「最初の質問はイエス。二番目の質問は、イエスでもありノーでもある。」
「どういうこと?」
「今、俺がここにいるのは自分の意志だが、キミがここにいるのもキミの意思のはずだ。」
「明日からこの学校で働くっていうのは?」
「それは、明日になりゃ、嫌でも分かるよ。」


とうとうおじさんは、煙草が一本もなくなった空箱をくしゃくしゃに丸めて、手すりの向こう側へと投げ捨てた。
ちょうどその先に、青みがかった中空に消えゆく寸前の富士山が見えた。

「それじゃあ、名言ついでにもう一つ。」
そう言ったおじさんの目線の先にも、富士山があるような気がする。
「大切なのは、死ぬまでにどれだけの笑顔を積み上げることができたかではない。死ぬ時に・・・・笑顔でいられるかどうか・・・・・・・・・・・だ。」
「また、昔の漫画の台詞?」
「これは俺の言葉。似たようなのはあると思うけど、誰の真似でもない。」
「・・・」
「信じてないな?」
「違う。岬って、やっぱ死ぬ時、笑顔じゃなかったよね。」
「そうだな。笑顔だったとは、考え難いな。」
「岬が死ぬ直前に、LINEが来たんだ。一緒にいじめられてくれてありがとうって。」

あたしは、岬と二人だからねって返信した。
大した意味なんてないと思っていた。
でも岬は一人で死んでいった。

あの時あたしは、一人だけ置いてけぼりを喰らったような絶望を味わった。
そして、泣きながらいろいろと考えて、違うんだと思った。
あたしが岬に置いて行かれたのではない。
あたしが岬を一人で行かせてしまったのだと思った。
二人なら大丈夫だと思っていたのはあたしだけだったのだと。
でも、それも違った。

「岬に会って、ちゃんとごめんねしないとダメだね。」
おじさんは、何も言わなかった。
「岬にも、絶対にごめんねって言わせてやる。」
おじさんは、やっぱり何も言わない。
「ありがと。今のおじさんの言葉が、何気に一番、心に響いたよ。」


あたしはもう一度、消えゆく富士山のシルエットを瞼の裏に焼き付けた。
「最後に、一つだけお願いがあるんだけど、ちょっと耳貸して。」
おじさんは何も言わずに、屋上の手すり越しに大きく体を乗り出して、耳を近づけてきた。
あたしは恐る恐る手すりから両手を放しておじさんの正面に立った。
そして、唇にそっとキスをした。
「なるほど、さっきのフリスクはこういう意味か。」
妙に納得した表情のおじさんが、微かに頬を染めて苦笑いをしている。

本当は違う味が良かったわよ!
そう心の中で悪態を吐いていると、今度はおじさんの方からあたしをそっと抱きしめて、さっきより少しだけ長いキスをしてくれた。
途中、仄かな苦みがあたしの口の中を襲ってくる。
どうやら、ミントの攻撃をかいくぐって生き延びた、運の良いヤツがいたみたいだ。確かに、不味いと言えば不味い。でも、それほど大騒ぎするほどのことでもない。

「どうだった?」
「おじさん、上手だね。」
「伊達に歳は食ってないからな。中学生くらいならいちころさ。」

いちころって何よ。
そう言ってあたしが笑うと、おじさんも、ちょっと古すぎたか、やっぱおじさんだな、と言って一緒になって笑った。
「それじゃ、ちょっと岬のとこ行ってくる。」
ようやくおじさんは、小さく頷いた。
もしかしたら、俯いただけかも知れないけれど。
「あ、そうだ。その帽子、もらって行っていい?」

◆ ◆ ◆

そう言って彼女は、俺の頭からオークランド・アスレチックスのキャップをなかばひったくるようにして奪い取った。
そして、丸く半円状に曲線を描いた鍔をこれ見よがしにまっすぐに戻してから斜めに被ると、ふう、と軽く一息吐いてから呟いた。
「早く、ファースト・キスの自慢しなくちゃ。」

何もない中空に向かって動き出した彼女の両足には、フェンスのそばにつま先を揃えて置かれていたはずの黒いローファーが、いつの間にかしっかりと履かれている。

「その自慢話は、俺が向こうで岬ちゃんに伝えておいてやるよ。」

気づいた時には、俺はフェンスから大きく身を乗り出し、彼女の腕をしっかりと掴んでいた。


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