小説「鎗ヶ崎の交差点」②
二十三歳の時の僕は自信に満ち溢れていた。
その自信は経験や何か強力な後ろ盾から作られたものではなく、ただ若者が纏うありがちな根拠のない恥ずかしい思い上がりだった。
しかし反面、不安を思い上がりに隠している側面もあったと思う。本当はどこかで、自分は特別な人間ではないのではないかと迷いながら、そんなことはないと言い聞かせて虚勢を張って生きていたのだ。
周りの人間とは違う、何か大きな事を叶えられる人間だと思わないと、社会に出て行く同世代の人間達に感じる劣等感や不安や焦りを掻消せなかったのかもしれない。
片親で育ち、一人っ子でAB型という背景も少なからず影響していたと思う。誰もが僕を変わった人間だと言い、特別扱いされるところもあった。
しかし実際は過去の偉人とは違い、家庭はある程度裕福で、一人っ子でわがままに育てられAB型と言われてもA型の方が強い普通の人間だった。
僕もそんな周りの視線に悪い気はせず、いつしか音楽で生計を立てる事を夢見るようになっていた。父親がレコード会社に勤めていて、母もアマチュアながらジャズシンガーだったことも影響していただろう。
しかしミュージシャンを目指す上で必要な純粋な自己表現へのこだわりや、世の中への定義と言った高尚な目標は僕にはなかった。僕にあったのはただ有名になりたいという安易な憧れだけだった。
僕はDJを仕事として生きることを夢見ていた。僕の高校時代はヒップホップやR&B全盛の時代だった。アメリカでは女性歌手がフックを歌い、いかついラッパーが絡むようにラップするPVが流行っていた。日本でもUAやミーシャ、ジブラなど、ジャパニーズR&Bやヒップホップが隆盛を極めていた。
そんな中で、当時はクラブも十代の入場を許していて、僕は高校生の時に初めて行った西麻布イエローのフロアの熱狂に夢中になった。そして、そこで知ったDJという存在に憧れを持ったのだ。
まるで指揮者のようにその時々に合った曲を選び、客を躍らせる。それでいて、モンクのように無表情でいて、時折見せる笑顔に客が熱狂する。人が大勢いるフロアの中で、一人高いところから客を見下ろしているような姿にも特別性を感じた。
時は高校生ブームで、僕が通っていた渋谷にほど近い池尻大橋の共学校では廊下を歩けばどこからかヒューマンビートボックスが聞こえて、アフロやドレッドの同級生も多かった。
その頃の僕らとってのステータスは読者モデルとして雑誌に出て、DJとしてイベントも持っていて可愛いギャルと付き合っていることだった。
僕も高校生の頃は同級生達とクラブイベントを開催していた。今思えば華やかな高校生活だったと思う。十代のくせに酒も飲めて、時にはDJでギャラが発生したりした。
世間では高校生がカルチャーの中心のように取り上げられていて、スポーツ界では松坂世代などと言われてもて囃されていた。まるで世界は自分達のために回っているのだと誰もが思っているような時代だった。
しかし大学に進むと、いとも簡単にその熱狂は終焉を迎えた。メデイアは突然僕らに見向きもしなくなり、何冊も発行されていた高校生のための雑誌も廃刊に追い込まれた。それでも、僕らの世代は高校時代の狂乱の残り香をしばらくは纏っていた。
今と違い大学内のサークルが主催するクラブイベントは多くあったし、海の家や野外などDJをする場所には事欠かなかった。どうにか入った中流の大学だったが高校時代の延長のような生活に僕は満足していた。
そんな順調な学生生活の中で「DJで食べていける」と言う勘違いは育ち、僕は就職をせずに大学を卒業した。
感謝しなければならないのは、父親と母親だろう。二人はすでに離婚していたが、定期的に個々に会っていた。就職をしないと告げると二人とも何も否定せずにこう言ってくれた。
「好きなことをやればいい」
父親と母親は二人ともアーテイストに憧れながら、夢を叶えられなかった。そんな思いを僕に託したところもあったのかもしれない。
僕はその言葉に甘えて実家暮らしを継続し、DJ活動に専念する環境を手に入れた。しかしすぐにDJだけで食べられるわけもなく、生活の大半はアルバイトが占めていた。
アルバイト先は新宿にある大手通信会社が運営するコールセンターを選んだ。時給がそれなりに高く、シフトが自由だったからだ。
そこでアルバイトをしながらDJの依頼があれば赴き、他の時間はミックス制作やDJの練習をする。そんな生活がいつか大成功につながると信じて疑っていなかった。
僕は37歳のサラリーマンです。こらからnoteで小説を投稿していこうと考えています。 小説のテーマは音楽やスポーツや恋愛など様々ですが、自分が育った東京の城南地区(主に東横線や田園都市線沿い) を舞台に、2000年代に青春を過ごした同世代の人達に向けたものを書いていくつもりです。