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小説「鎗ヶ崎の交差点」①

             君と彼の幸せを祈って

「私達はそういうんじゃなかったんだよ」
 僕は今でも彼女が言った言葉を忘れる事ができない。
 一緒に過ごした短い時間の中で、彼女はあまりその大きな瞳を僕に向けてくれる事はなかった。彼女はいつも僕には見えない未来を見据えていて、僕はその視線の先に怯えていた。しかしこの時だけ。別れを告げる時だけ、彼女は決意を込めた瞳で僕を見つめた。
 僕は二人の出会いや、育った環境の類似性や彼女の為にしてきた自分の功績を並べて引き止めようとした。しかし、この時にはもう彼女の心は僕から離れてしまっていて、何もかもが手遅れだった。
 とても寒い冬の日、僕は十年以上恋い焦がれ、出会うべき運命の人であると信じていた唯一の女性を失った。
 映画やドラマやアニメでも、主人公は不幸な運命に抗う事で成長し、前に進み、最後はその運命を味方につける。
「運命は変えられる」
「運命は自分で切り開くことができる」
 僕らの頭の中には子供の頃から前向きな運命に対する心構えが刷り込まれていて、僕もあの時までそうだと信じていた。
 努力や想いがあればきっと彼女と僕は結ばれる。今がどんなに上手くいっていなくても事態は好転する。何よりも、僕らは十年の歳月を越えて再会したのだからと。しかし彼女は最後に僕らの運命を否定した。「そういうんじゃなかった」と。
 あれから二年が経ったが、僕の彼女への想いは消えていない。朝起きた時。仕事の合間。友人と酒を飲んでいる時。ふとした瞬間に必ず彼女が僕の頭の中に浮かび、心を締め付ける。
 最低な事を告白してしまえば、彼女とは死に別れてしまった方がよかったとさえ思う時がある。この世にいないのならば、諦めもつく。それに、他の誰かと幸せに暮らしているかもしれないなんて可能性もなくなる。
 世の中には好きだった人には幸せでいて欲しいと穏やかな顔をして言える男もいる。しかし、僕にはそれが真実だとは思えない。もちろん、たった一人で幸せであるならばいいが、僕は自分以外の誰かが彼女を幸せにしているなんて考えたくもない。だったらこの世に存在してくれていないほうがまだましだと思う。
 白紙の原稿が映るラップトップを見つめながら、僕はまたあの時の事を、彼女の事を思い出している。
 いったいどこで僕達の運命の歯車は狂ってしまったのだろうか。もし最初から運命ではなかったのだとしたら、彼女と僕を会わせた神様はあまりにも残酷だと思う。結ばれないのなら、十年振りの再会なんてさせないで欲しかった。
 しかし、神に文句を言いながらも過去を遡った時、彼女との別れが必ずしも神のせいではなかったと言うことにも気付かされる。なぜなら、彼女との思い出の中にはたくさんの後悔があるからだ。
 僕はいつも彼女の運命を否定する言葉を思い出すと同時に、過去を変えたいと願う。そしてあの時の自分を攻め、どうしようもなく情けない思いに苛まれる。
 最初の出会いの時も、二度目の出会いの時も僕は自分の未熟さで彼女を苦しめて別れを選ばせてしまった。神への憎しみよりも、そんな自分への後悔と怒りが日々の僕の暮らしを包み、どんなに眠れた晴れた朝でさえも心を暗澹とさせる。
 そんな毎日からどうにか抜け出したくて彼女との事を描く事にした。自分の恋愛がドラマテイックであるなんて自惚れはない。ただ、文章にして吐き出してしまえば少しは楽になれるかもしれないと考えたのだ。
 女性誌の担当者に「恋愛小説を書いてください」と言われた時、彼女との事を書こうと決めた。時が満ちたとも言うべきか、今なら書ける気がした。数年前に書こうと試みた時は筆が進まなかった。その頃はまだ僕の中で彼女との思い出が生々しく残っていて書く作業が辛くてたまらなかった。
 しかし二年が経って書こうと思えた。もしかしたらやっと彼女のことを昇華できたのかもしれない。いや、ただ単に疲れてしまったのだ。彼女のことを想い続ける毎日に。運命を逃してしまった人生の後悔に苛まれる日々に。
 いつまでも彼女に囚われていたところでもう何にもなりはしない。彼女はもう僕の側にはいなく、再会したところで彼女の隣には誰かがいる可能性が高い。あれだけ美しい女性なのだ。だとしたら書いて忘れてしまいたかった。
 僕らは本当に小さい街の片隅で、とても短い時間、限られた場所でしか会っていないし、客観的に見てもそこまで面白いエピソードが詰め込まれているわけでもない。読者が僕らの物語を読んで共感や面白さを感じるとも思えない。
 でも、彼女との運命と後悔を受け入れて精算するためには、辛い思い出を文字にする必要があった。そうすることでしか頭の中から彼女のことを消し去る術を思いつかなかった。
 とは言え、仕事用のデスクに座ってからすでに三時間が経過していた。生々しさは薄れていても、思い出の中にある彼女への悔恨に書こうとする指を止められて、気がつくと深夜一時を回っていた。
 その時間がなおさら僕の落ち着きを奪い、手を動かなくさせる。なぜなら僕は今でも週末になると彼女からの連絡を待っているからだ。
 二回目の出会いの時、彼女とは週末のこの時間帯から会っていた。そして彼女は僕と数時間だけ過ごして朝に帰って行った。
 たった一度の旅行以外、僕達は普通のカップルのように一日を過ごした事はなかった。だけどそんな短い時間でも、僕には待ち遠しい、愛おしい時間だった。
 そして今でもその時間になると、僕はあの時のようにまた彼女から連絡が来るのではないかと期待をしてしまう。心変わりをして連絡があるのではないかと。おかげでこの二年間、週末にしっかりと寝むれたためしがない。
 やっと携帯を気にしないようになり、キーボードを叩く手が動き出したのは朝になってからだった。仕事部屋から見える朝方の中目黒の街。そして少し遠くに見える三宿。部屋から見える思い出の街を眺めながら、僕は彼女とのことを書き始めた。
 

 一緒にいくつもの夜を過ごしたこのマンションから見渡すことの出来る、とても狭い街の中で、僕は彼女と出会い、別れ、また出会い、別れた。
 根元知花との最初の出会いは二十三歳の時で、再会は三十三歳。最後に会ったのは三十六歳の時だった。本当に長く、馬鹿みたいに僕は知花の事が好きだった。
そして今でも僕は同じ景色を眺めながら、知花の残像を追いかけている。どうしようもなく会いたい気持ちを持ったまま。

僕は37歳のサラリーマンです。こらからnoteで小説を投稿していこうと考えています。 小説のテーマは音楽やスポーツや恋愛など様々ですが、自分が育った東京の城南地区(主に東横線や田園都市線沿い) を舞台に、2000年代に青春を過ごした同世代の人達に向けたものを書いていくつもりです。