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人間合格

最初に保険をかけておきたい。以下は誰かに読まれることを目的として書いた文章ではない。他人に読まれることを想定していない。誰かを笑顔にするためのものでもない。他人に見られないように注意深く注意深く自分の中に閉じ込めている自分を、本来表に出てこないはずの自分を、無理やり文字にしたものである。

これをよんでくれるかもしれない人が普段見知っている僕は紛れもなく僕である。そこに嘘はない。しかしこの先に出てくる僕も紛れもなく僕である。そこにも嘘はない。ただ矛盾する2人の自分が同時に存在しているという事実だけが存在する。



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実際のところ

他人を妬み、嫉み、羨み。他人が持っていて自分にないものばかりを数えてしまう。

他人の話を聞いて、表面ではおめでとうとかよかったねとか頑張ってとか、ステキだよとか、大丈夫とかなんでも言える。一緒に幸せを味わっているような顔をし、一緒に痛みに耐えるような顔をしている。でも腹の底では自分が何を考えているかわからない。いや嘘だ。自分はよくわかっている。なんのことはない。自分自身のことを第一に考えているだけだ。いついかなる時も相手から自分がどう見られているか。相手は自分に何を求めているのかを察知しようと必死になっている。そしてその要望に応えるための努力を惜しまない。

これから僕は自分を悲劇のヒロインに仕立て上げていく。事実の片方の側面だけを見て悲観的になろうとしている。そうやって正気を保とうとしている。自分がいかに可哀想か、自分がいかに高尚なことを考えている人間かを再確認しようとしている。そうやって自分を慰めようとしている。まさしく自慰行為である。滑稽だし、明らかに無益だと分かっていても、やらずにはいられない。

利己的なカメレオン

結局僕は他人の幸せを願っている風な自分が好きなだけだ。そういう人が好かれる傾向にあるんだろうとなんとなく勘づいているから、そういうモデルのモノマネをしているだけだ。だが結局モノマネはモノマネでしかない。根本にあるのは、自分が1番大事だという普通の考え方。でも好かれる人はそういう考え方をしないだろうと思うから、あたかも自分は利他的に生きている人間であるかのように振る舞っている。嫌われないキャラを熱心に演じ続ける。



やっぱり他人から好かれている自分が好きなだけだ。そこに自分の素顔はない。そうやって生きてきてしまった。八方美人でカメレオンで怪人二十面相。他人に合わせて自分を変える。僕は男性であり、息子であり、孫であり、弟であり、後輩であり、同期であり、先輩だ。良い奴だし、変なこと言う奴だし、真面目で優しい奴だし。本当の自分はどれなのか。もちろん全部自分だが、本当は全部自分じゃない。自分が1番よくわかっている。だいたい全部演じているから。素の自分がどれかは自分が1番よくわかっていない。
ただいろんな自分がいるなぁって、上からみている無色透明で無味無臭な、舞台裏にいる舞台監督みたいな自分は、本当の自分に近いのかもしれないとは思う。

みんなに好かれたい。誰からも嫌われたくない。みんなに褒められたい。みんなに笑顔になってほしい。そう思って生きている時間が他人より少し長そうだという自負はある。

だからそのためだったらなんだってしてきた。リーダーを演じたり、優等生を演じたり、反逆者を気取ったり、道化を演じたり、真面目になったり、英雄を気取ったり、サポートに回ったり。結局スーパーカメレオン。

「良い人」の腹の底

僕のたゆまぬ努力はある程度結果につながっている。「良い人だよね」ってよく言われる。もちろんその言葉に他意がないのはわかっている。でも考えずにはいられない。その人にとってたまたま都合が「良い」人で、実際はどうでも「いい」人なんだろうなってことを。何かあったら普通に切り捨てられるだろう。だって「良い人」だから。何をしたって許してくれそうだから。そう思われているのもどこかでわかっている。そしてそれがわかるからこそ、気づいていないふりをする。嫌われるのが耐えられないからである。「本当にいい人だね。ありがとう」と言われたらやっぱり嬉しい。でも「ありがとう、そんなふうに言ってもらえて嬉しいなぁ」とか言いながら、腹の底では根本的にその人を信用していない。自分が自分のことを根本的に信用していないからかもしれない。

「正論(セイロン)島の住人との戦い」

話は戻るが、他人の幸せな話を聞くと本当に羨ましい。妬ましい。どうして自分にもその幸せが訪れないのかわからない。可能なら他人からその幸せを奪い取って自分のものにしたいとすら思っている。結局他人に正直な自分をみせて嫌われるのが怖いから、求められている虚像を演じてしまう。これがなぜなのかわからない。わからないことがもっとわからない。

全ての人間を同時に幸せにできるほど世の中はステキじゃない。誰かの笑顔の裏では他の誰かが常に泣いているだろう。幸せになったということは、他の誰かを蹴落としたということかもしれない。

生きていれば、幸せな時もあれば不幸せな時もまたある。波だと言われる。良い時もあれば悪い時もある。楽しい時もあれば悲しい時もある。努力している人が必ずしも報われるわけでもない。努力の方向性が間違えていたり、量が足りなかったり、運が悪かったり。

そんな事実はわかっている。そんな正論はとっくに理解している。だけど正論で片付かないから、こうやってグダグダグダグダドロドロドロドロ本当の自分を晒している。僕が求めているのは正論じゃない。正論で片付かない何かを片付けてくれる何かだ。その何かがわからないから困っているのである。

だけど周りの人はテキトーだ。相談にのるふりをして正論を振りかざしてくる。悩んでいる人間を救いにきた救世主みたいな面をした人々が十字軍みたいに立派な行進をして近づいてくる。その行進は人の心を踏みにじっ行進に参加している正論島の住人はみな一様に旗を掲げている。「善意」という名の旗である。「お前の善意はいつか他人を殺す。お前の優しさと積極性はいつか誰かを殺す。」昔友だちに言われたのを思い出す。これのことだったのかもしれない。

結論

怖いのは、こんなふうに違和感を感じている自分も、自分が幸せで笑顔になれたら、きっと泣いている誰かや悲しんでいる誰か、複雑な思いを抱いて違和感を感じている誰かのことなんてすっかりわすれてしまいそうだということ。そんなこと忘れて目の前の幸せに没頭するだろうということ。

結局誰しも自分さえよければ良い。自分の幸せがまずは大事。それが人間の本質だと思う。これを否定する気は全くない。僕だって他人の幸せより自分の幸せを優先するだろう(多分)。自分の幸せも掴めない人間が、他人を幸せにできるはずはない。自分の幸せを実感しない奴は、他人の幸せを肌で感じることはできないだろう。

ではどうするか?

何もしない。

今まで通り過ごす。カメレオンだと見破られるのが先か、カメレオンが自爆するのが先か。今のところ見破られそうな気配はない。誰も興味すら抱かないというのが実際だろう。


ここまで書いてきて思うことがある。本当に滑稽だ。でも無意味ではない。有益ではないが、無意味ではない。自分にそう言い聞かせながら、明日もカメレオンとして生きる。カメレオンみたいに自分をはっきりともたない、常に何かを演じている人間は、人間失格なのか?いや逆だろう。人間であり続けようと無理に努力し続ける人間こそ、ホンモノの人間だと思う。

だから僕は人間合格。

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